用法がばらばらな用語だらけの中で、何か一つ固定された点を見つけるのは望ましいこ とです。私の知る限り、みんな貯蓄というのが、所得のうち消費を超える分を意味する、
という点では合意しています。したがって、貯蓄ということばの意味について疑念があれ ば、それは所得または消費ということばの意味に関する疑念から生じるものであるはずで
*5『エコノミック・ジャーナル』1935年6月, p. 235.
*6「資本の維持」、『エコノミカ』1935年8月p. 241 et seq.
す。所得は上で定義しました。あらゆる期間で、消費支出というのはその期間に、消費者 に対して売られた財の価値を意味するはずで、これは消費者-購買者というのが何を意味 するのか、という問題に逆戻りです。消費者-購買者と、投資家-購買者との間の一線につ いては、それなりの定義であれば、どれだろうとここでの議論には不都合はありません。
ただし、それを一貫して適用することが重要です。たとえば、自動車を買うのは消費者購 買で家を買うのは投資家購買として扱うのが正しいか、といった問題は何度も議論されて いて、その議論に追加すべき内容を私は持ち合わせていません。この基準は明らかに、消 費者と事業者との一線をどこに引くか、という問題に対応しています。ですから A1を ある事業者が別の事業者から購入したものの価値と定義したとき、私たちは暗黙のうちに この問題を解決してしまったわけです。そこから、消費支出というのはあいまいさのない 形∑
(A−A1)と定義できます。ここで∑
Aはその期の総売上げで、∑
A1はある事業 者が別の事業者に対して行った総売上げです。以下では、原則として∑
は取って、あら ゆる種類の総売上げをAと書き、ある事業者から別の事業者への総売上げをA1、そして 事業者にとっての総利用者費用をUと書くと便利です。
これで所得と消費を定義したので、貯蓄の定義も自然に出てきます。貯蓄は所得が消費 を上回る余りです。所得はA−U で消費はA−A1なので、貯蓄は当然A1−U となり ます。同様に、純所得が消費を上回る余りとして純貯蓄が得られ、これはA1−U−V と なります。
ここでの所得定義はまた、すぐに当期投資の定義も出してくれます。というのも当期投 資というのは、その期における生産活動の結果として得られた、資本設備の価値に対する 当期の追加分を意味するとしか考えられないからです。これは明らかに、いまここで貯蓄 として定義したものと同じです。というのもそれは、その期の所得のうちで消費にまわら なかった部分だからです。上で見たように、ある期の生産結果として、事業者たちはAの 価値を持つ完成品を販売し、それを生み出すために資本設備は、他の事業者からの購入の ためにA1を支払った後で、摩耗U を被った(あるいはU がマイナスなら、−U に相当 する改良をほどこされた)わけです。その同じ期に、A−A1の価値を持つ完成品が消費 にまわったことになります。A−U がA−A1を上回る分、つまりA1−Uは、その期の 生産活動の結果として資本設備に追加されたもので、したがってその期の投資ということ です。同様にA1−U−V は、資本設備への純追加分で、使用による損耗以外の通常の資 本価値低下と、資本勘定に計上できる予想外の設備価値変化を除外したものです。これは その期の純投資となります。
したがって、貯蓄の量は個々の消費者の集合的な行動の結果だし、投資の量は個々の事 業者たちの集合的な行動の結果ですが、この二つは必然的に等しくなるのです。というの も、そのどちらも所得が消費を上回る分だからです。さらにこの結論はいかなる点でも、
上で挙げた所得の定義の細部や特異性に依存したものではありません。所得が当期産出の 価値に等しいこと、そして当期投資は、当期産出のうち消費されなかった部分の価値に等 しいこと、さらには貯蓄が所得のうち消費されなかった余りに等しいことが同意されれば
̶̶このどれも、常識にしっくりなじむし、また大多数の経済学者による伝統的な用法に もなじみます̶̶貯蓄と投資の等価性は自然に出てくるのです。つまり̶̶
所得=産出の価値=消費+投資 (6.1)
貯蓄=所得−消費 (6.2)
よって、貯蓄=投資 (6.3)
したがって、上の条件を満たす定義群はどれも、同じ結論をもたらします。この結論を 避けるには、定義のどれかの有効性を否定するしかありません。
貯蓄量と投資量の等価性は、資本設備の生産者と、その反対にいる消費者または購入者 との取引が双方向的なものだという性質からきます。
所得は、生産者が売却した産出から得た価値のうち、利用者費用を上回る分で創られま す。でもこの産出のすべては、消費者か別の事業者に売られたのはまちがいありません。
そしてそれぞれの事業者の当期投資は、他の事業者から購入した設備のうち、自分自身の 利用者費用を上回る部分となります。したがって経済全体で見れば、所得のうち消費を上 回る部分、つまりここで貯蓄と呼ぶものは、資本設備への追加、つまりは投資と呼ぶもの と等しくならざるを得ないのです。そして純貯蓄と純投資についても話は同じです。貯蓄 というのは、単なる剰余分でしかありません。消費しようという決断と投資しようとする 決断が、共に所得を決定します。投資しようという決定が有効になったら、それは消費を 抑えるか所得を拡大するかで実現されるしかありません。ですから投資という活動自体 が、ここで貯蓄と呼ぶ剰余または余白を同じだけ増やさざるを得ないのです。
もちろん個人がそれぞれ、いくら貯蓄して投資するかという決断においてあまりに混乱 しているため、取引が起こるような価格均衡点は存在しないかもしれません。この場合に はここでの用語はあてはまらなくなります。というのも産出にははっきりした市場価値が なくなり、価格はゼロと無限の間で落ち着き場所がなくなるからです。でも経験から見 て、これは実際には起こらないことがわかります。そして心理的な反応の習慣のおかげ で、売る意欲と買う意欲が等しくなったところで均衡が生じることもわかります。産出の 市場価値なるものが存在するということは、同時に名目所得がはっきりした価値を持つた めの必要条件でもあり、また貯蓄する個人たちが決めた総額が、投資する個人の決めた投 資総額に等しくなるための十分条件でもあります。
この問題について頭をすっきりさせる最高の方法は、貯蓄する決断というものを考えず に、消費するという決断(または消費しないという決断)を考えることかもしれません。
消費するかしないかという決断は、まぎれもなく個人の力の範囲内にあります。投資する かしないかの決断も同じです。総所得の量と総貯蓄の量は、消費するかしないか、投資す るかしないかという個人の自由な選択の結果なのです。でもそれはどちらも、消費と投資 に関する決断を無視した勝手な決断に基づくような、独立した値を採ることはできないの です。この原理にしたがって、本書のこの先では、貯蓄性向または貯蓄傾向のかわりに、
消費性向という概念を使います。