限界消費性向と乗数
原文:http://bit.ly/pbEQd0
第八章で、雇用は投資と並行して増えるしかないのだ、と示しました。こんどはこれを もう一歩先に進めましょう。どの状況についても、所得と投資の間には明確な比率(これ を乗数と呼ぶことにします)が決まるし、少し単純化すれば、総雇用とその投資で直接雇 われた雇用(これを一次雇用と呼びましょう)との間にもその乗数が決まるのです。この 追加の一歩は、本書の雇用理論の不可欠な一部です。消費性向が与えられているとき、総 雇用と所得と投資率の間に、この議論が厳密な関係を構築してくれるからです。乗数のア イデアを最初に経済理論に導入したのは、R. F.カーン氏の論文「国内投資と失業の関係 について」(『エコノミック・ジャーナル』1931年6月)です。この論文でのカーン氏の 議論は、各種の仮想的な状況における消費性向(と他のいくつかの条件)が一定として、
金融当局などの公共が投資を刺激したり抑えたりする手段を取ると考えたとき、雇用量の 変化は投資総量の純変化の関数になる、という根本的なアイデアに基づいています。そし て同論文は、純投資の増大と、それに伴う総雇用の増加との実際の定量関係を推計するた めの一般原理を定めようとしています。でも乗数の話に入る前に、限界消費性向というア イデアを紹介しておくほうが便利でしょう。
セクション I
本書で検討している実質所得変動は、決まった資本設備に各種の雇用量(つまり労働ユ ニット)を適用することで生じます。実質所得は、雇用労働ユニット数に応じて増減しま す。もし決まった資本設備で働く労働ユニット数が増えるにつれて、限界での収益は減る と想定すれば、賃金単位で計測した所得は雇用量に対し、比例以上の増え方となり、つま りは製品の数で計測した実質所得(それが可能ならばの話ですが)に対しても比例以上の 増え方を見せます。 でも、製品の数で計測した実質所得と、賃金単位で測った所得は(資 本設備がほぼ変わらない短期では)いっしょに増減します。だから、製品の数で見た実質 所得は厳密に数字で測れないかもしれないので、賃金単位で測った所得(Yw)を実質所得 の便宜的な指標と考えるのが便利です。文脈によっては、Ywが実質所得よりも一般に大 きな比率で増減する、というのを見すごしてはいけません。でもそうでなければ、この二 つが常に並行して増えたり減ったりする、という事実のために、両者はほぼ入れ替え可能 です。
通常の心理法則では、ある社会の実質所得が増減したら、その消費も増減しますが、そ の変動幅は所得ほどではありません。いまの論点を使えbは、これを定式化できます。完 全に正確な記述ではありませんが、自明で完全に定式化できる条件をいくつかつければ
̶̶∆Cwと∆Ywは符号は同じで∆Yw>∆Cwだというという命題になるのです。ここ でCwは賃金単位で測った消費です。これは単に、59 ですでに述べた命題を繰り返した だけです。
ではdCw/dYwを限界消費性向と定義しましょう。
この量はとても重要です。産出が1増えたときに、それが消費と投資でどう山分けさ れるかを教えてくれるからです。∆Cwと∆Iwをそれぞれ消費と投資の増分としたとき、
∆Yw = ∆Cw+ ∆Iwとなります。ですから∆Yw =k∆Iw、ただし1−(1/k)は限界消 費性向に等しいものとします。
kを投資乗数と呼びましょう。これは総投資が増えたときに、所得は投資増分のk倍増 える、ということです。
セクション II
カーン氏の乗数は、今のとはちょっとちがっていて、k′ で示される雇用乗数とでも 言うべきものです。投資産業における一次雇用の増分と、総雇用の増分との関係を示す ものだからです。つまり投資増分∆Iw が一次雇用を∆N2増やしたら、総雇用の増分
∆N =k′∆N2ということになります。
一般的に、k=k′となるべき理由はありません。というのもそれぞれの産業に関連する 総供給関数の部分を見たとき、雇用の増大とそれを刺激した需要の増加の比が、どの産業 でも同じになるという想定に必然性はないからです*1。たとえば、消費性向が平均の性向 と大幅にちがっていて、消費財と投資財の需要変化がかなりちがった比率変化を見せて、
∆Yw/∆Nと∆Iw/∆N2がそれぞれ大きくなるとしましょう。もしこうしたそれぞれの 産業群が総供給関数上で対応している部分について、考えられる形の差を考慮したいので あれば、以下の議論をもっと一般化した形で書くのは簡単です。でもそこに含まれる考え 方を明確にしたいので、k=k′の単純な場合を扱うほうが便利です。
つまりここから、社会の消費心理が所得増分のたとえば9割を消費したがるなら*2、乗
*1もっと厳密には、eeとe′eが全産業での雇用弾性と投資産業での雇用弾性だとします。さらにN とN2
が、それぞれ全産業と投資産業で雇われている人数だとします。すると
∆Yw= Yw
eeN∆N で、
∆Iw= Iw
e′eN2
∆N2
したがって
∆N=ee
e′e Iw
N2
N Yw
k∆N2
すなわち
k′= Iw
e′eN2
eeN Yw)k
でも、もし全産業の総供給関数と投資産業だけの供給関数の形に、実用的に意味ある差を想定すべき理由 がなければ、Iw/e′eN2=Yw/eeN、したがって∆Yw/∆N= ∆Iw/∆N2、よってk=k′となります。
*2ここでの量はすべて賃金単位で測ったものです。
数kは10になります。そして、たとえば公共事業の増加で引き起こされる総雇用は、投 資が別の方向に減らされないとすれば、公共事業自体がもたらす一次雇用の10倍になり ます。社会が雇用(ひいては実質所得)は増やしたのに消費をそのまま維持した場合に限 り、雇用増は公共事業による一次雇用だけになります。一方、もし所得増分を全額消費し ようとしたら、安定する点はなくて、物価は無限に上がります。通常の心理的な想定から すると、雇用増大が消費の低下をもたらすのは、同時に消費性向の変化が起きた場合だけ です̶̶それはたとえば、戦時中のプロパガンダで個人消費を抑えようとした結果として 起こるかもしれません(訳注:「欲しがりません、勝つまでは」……)。そしてそういう 場合にのみ、投資で増えた雇用が、消費向けの産業の雇用にマイナスの影響をもたらすの です。
これは単に、読者が今やざっとわかっているはずのことを、数式としてまとめただけで す。賃金単位で測った投資の増加は、大衆が賃金単位で測った貯蓄を殖やす気がない限り 実現しません。一般に言えば、人々は賃金単位で見た総所得が増えている場合にしか貯蓄 は殖やしません。ですから増えた所得の一部を消費しようという人々の努力は、産出を刺 激して新しい所得水準(と分配)が投資の増分に対応できるだけの貯蓄余力をもたらしま す。必要な追加貯蓄をしてもらうために必要な実質所得増をもたらすには、雇用をどれだ け増やすべきか教えてくれるのが乗数です。そしてこれは、人々の心理的傾向の関数とな ります*3。もし貯蓄がクスリで消費が(訳注:それを飲むための)ジャムだとすれば、追 加のジャムは、追加のクスリの量に比例する、というわけです。世間の心理傾向がここで 想定しているものとちがうのでない限り、投資のための雇用増が必然的に消費財産業をも 刺激し、投資で必要な一次雇用の倍数となる総雇用の増加につながるのだ、という法則 が、いま確立されたわけです。
以上から、もし限界消費性向が1よりあまり小さくなければ、投資がちょっと変動した だけで、雇用も大幅に上下します。でも同時に、投資をほどほどに増やすだけで完全雇用 は実現できます。一方、限界消費性向がかなりゼロに近ければ、投資がちょっと上下動し ても、雇用の上下動は同じくらい小さなものとなります。でも同時に、完全雇用を生み出 すには投資を大幅に増やさなくてはいけません。前者の場合、非自発失業は楽に治せる病 気ですが、こじらせると面倒になりかねません。後者の場合、雇用の変動はそんなに大き くないのですが、かなり低い水準に落ち着いてしまい、よほど過激な治療を施さないとな かなか治りません。実際の限界消費性向は、この両極端のどこか間にいて、ゼロよりは ずっと1に近いようです。結果として私たちは、ある意味で両方の悪いところ取りをし ているに等しく、雇用の上下動はかなり大きいのに、完全雇用を実現するための投資増分 は大きすぎてなかなか実行できないことになっています。残念ながら上下動が大きいため に、この病気の性質はなかなかわかりにくいのに、かなり悪性なのでその性質をきちんと 理解しないと治療しようがない状態です。
完全雇用が実現すると、それ以上投資を増やそうとがんばっても、限界消費性向がど うあれ物価が無限に上昇しがちとなります。つまり真のインフレ状態に到達するわけで す*4。でもその時点までは、物価上昇は総実質所得の上昇と結びついています。
*3ただしもっと一般化した場合には、それは投資産業と消費財産業における生産の物理条件の関数にもなり ます。
*4第21章p.303を参照。