金利の古典派理論
原文:http://bit.ly/mPCca4
セクション I ( 訳注:実はセクション II 以降はない )
古典派の金利理論とは何でしょうか? それは私たちみんなが教わってきたもので、ご く最近までみんな、あまり文句も言わずに受け入れてきたものです。でも私は、それを厳 密な形で記述できないし、また現代の古典学派における先端的な論考を見ても、はっきり した記述は見つからないのです*1
でもこの伝統が、金利とは投資需要と貯蓄意欲を相互に均衡させる要因だと考えてきた のは、かなりはっきりしています。投資は投資可能なリソースの需要をあらわし、貯蓄は そうしたリソースの供給をあらわします。金利はその両者が等しくなる、投資家のリソー スの「価格」というわけです。商品の価格が必然的に、需要と供給の一致する点で決まる ように、金利もまた市場の力の作用で、その金利での投資量が、その金利での貯蓄と等し くなるような水準に落ち着く、というわけです。
いまの話は、マーシャル『経済学原理』ではこの程度の説明もありません。でも彼の理 論はこういうもののようですし、私自身もそう教わってきたし、また長年他人に教えてき たのもこれです。たとえば『経済学原理』の以下の一節を見てください。「利子は、ある 市場において資本の使用に支払われる価格であるが故に、その利子率においてその市場に おける資本の総需要が、その率で提供される総ストックと等しくせしむる均衡へと傾くの である」*2、あるいはまた、カッセル教授『金利の性質と必要性』においては、投資とい うのは「待つことの需要」を構成し、貯蓄は「待つことの供給」を構成し、利子とはその 二つを等しくするよう機能する「価格」なのだ、と暗黙に述べられていますが、引用でき るような実際の説明は見つかりませんでした。カーヴァー教授の『富の分配』第vi章は 明らかに、金利が待つことの限界的な負の効用と、資本の限界生産性とを均衡させる要因 だと考えています*3アルフレッド・フラックス卿(『経済学原理』p.95)はこう書きます。
「我々の議論全般の論点が正しいものであるなら、貯蓄と、資本を利益のある形で活用す
*1見つけられたものの概要については、本章のおまけを見てください。
*2この一節に関するさらなる議論としては、本章おまけのp.186を参照。
*3カーヴァー教授の金利の議論はとても理解しにくいものです。それは(1)彼が「資本の限界生産性」とい うとき、限界生産量を言っているのか、限界生産物の価値を言っているのか一貫しないこと(2)資本量を まったく定義しようとしないこと、のせいです。
る機会との間に自動的な調整が働くことは認めなくてはならない。(中略)純金利がゼロ 以上である限り(中略)貯蓄はその有益性の可能性を超えてはいないのである」。タウシ グ教授(『原理』vol., ii. p. 29)は、まず「金利は資本の限界生産性が貯蓄の限界的な設置 をもたらすのに十分な点で落ち着く」(p.20)と述べた後で、貯蓄の供給曲線と「いくつか の資本設置による生産性の逓減」をあらわす需要曲線を描いています*4。ワルラスは『純 粋経済学要論』の補遺I (III.)で、「l’´echange d’´epargnes contre capitaux neufs (新規の 資本と貯蓄の交換)」について述べ、明示的に、それぞれの可能な金利に対して個人が貯 金する金額があり、また新資本的資産に投資する金額があって、この二つの総量はおたが いに等しくなる傾向にあり、金利がそれを等しくさせる変数である、と論じています。で すから金利は、貯蓄、つまりは新資本の供給が、それに対する需要と等しくなる点で決ま ります。つまり彼はきっちり古典派の伝統におさまっています。
もちろん伝統的な理論を教わった一般の人――銀行家、公僕、政治家――そして専門の 経済学者も、貯蓄をしたら、それは自動的に金利を引き下げるような行為を実施したのだ、
という発想を抱いています。そしてそれが自動的に資本生産を刺激して、そしてその金利 低下というのは、資本生産が自動的に貯蓄増分と等しくなるのに必要な分と同じになる、
と考えています。さらに、これが自律的な調整プロセスであって、金融当局の特別な介入 や、かいがいしい世話焼きなど必要なしに生じるとも理解しています。さらには――そし てこれは今日ですら、なおさら一般的な信念ですが――投資行為が追加されるたびに、そ れは貯蓄意欲の変化で相殺されない限り、必然的に金利を上げるとも思われています。
さてこれまでの章の分析から、事態のこうした説明はまちがっているはずだ、とすぐに わかるはずです。でも見解の相違をその源までたどるにあたり、まずは合意できている点 から始めることにしましょう。
新古典学派は、貯蓄と投資が本当に等しくならないことがあると信じていますが、普通 の古典派はそれが等しいという見方を受け容れています。たとえばマーシャルは、総貯蓄 と総投資が必然的に等しい、と信じていたのはまちがいありません。ただし実際にそれを 明言はしていませんが。実際、古典派の人々のほとんどは、この信念を広げすぎたほどで す。彼らは、ある個人が貯蓄を殖やす活動をしたら、その活動の一つ一つに対して、投資 増大の活動が伴うのだ、と考えたのです。またこの文脈だと、私の言う資本の限界効率
(あるいは投資需要表)と、上で引用した古典派論者の考える資本の需要曲線とには、実 際的なちがいはまったくありません。消費性向とそれに対応する貯蓄性向となると、意見 の相違らしきものが出てきます。彼らは、金利が貯蓄性向に与える影響のほうを重視して いるのです。でもその彼らとしても、たぶん所得の水準が貯蓄額に重要な影響を与えるこ とは否定したがらないはずです。一方の私も、金利がある所定の所得の元で、貯蓄される 金額に影響するということを否定したりはしません(ただしその影響の種類は、必ずしも 彼らの考えているものとは限りませんが)。こうした合意点はどれも、古典派が認めるは ずで、私も反論しないような命題としてまとめられます。もし所得水準が決まっていると
*4こうした問題についてのごく最近の議論があり(F.H.ナイト教授「資本、時間、金利」、『エコノミカ』
1932年8月)、この議論は資本の性質について多くの興味深く深遠な洞察を含んでおり、マーシャル派の 伝統の有益さと、ベーム=バヴェルク的分析の役立たずぶりを示しておりますが、この議論の中で金利理 論はまさに、伝統的な古典派の型どおりのものとなっています。ナイト教授によれば、資本生産の分野で は均衡という言葉の意味は「貯蓄が市場に流れ込むにあたり、それとまったく同じ時間率または速度でそ れが投資に流れ込み、その投資は資本の利用について貯蓄者に支払われるのと同じ純収益率をもたらすよ うなもの」と述べています。
すれば、現在の金利は、各種の金利と資本の対応を示す需要曲線と、各種の金利に対応す る、所定の所得から貯蓄される額を示す曲線との交点で決まるはずである、と。
でもここぞまさに、明らかなまちがいが古典派理論にしのびこむところなのです。上の 命題から、資本の需要曲線と、一定所得下での貯蓄意欲に金利変化が与える影響がわかれ ば、所得水準と金利とは一意的に相関するはずだ、という話を導出しただけであれば、別 に文句はありません。さらに、この命題は自然に、重要な真理を含む別の命題につながる でしょう。つまり資本の需要曲線と、ある所得水準から貯蓄しようという意欲に金利が与 える影響がわかって、それに加えて金利も与えられれば、貯蓄金額と投資金額を等しくす る要因とは所得水準にちがいない、という命題です。でも実は、古典派理論は単に所得水 準の変化による影響を無視しているだけではなく、定式化でもまちがいをしています。
なぜなら古典派理論は、上の各種引用でもわかる通り、たとえば資本の需要曲線シフト が金利に与える影響を考えるとき、貯蓄の源となる所定の所得についての想定を、消した り変えたりしなくてもいいのだ、と想定してしまうからです。古典派理論だと、金利につ いての独立変数は、資本の需要曲線と、一定の所得から貯蓄される金額に対する金利の影 響です。そしてたとえば資本の需要曲線がシフトしたら、この理論によれば新しい金利 は、新しい資本の需要曲線と、一定の所得で貯蓄される金額を金利と関連づけた曲線との 交点で決まります。金利の古典派理論の想定ではどうやら、もし資本の需要曲線がシフト したり、一定所得からの貯蓄額と金利を関係づける曲線がシフトしたりすれば、あるいは 両方が同時にシフトすれば、新しい金利はその曲線の新しい位置での交点で与えられるよ うです。でもこんな理論はナンセンスです。所得が一定だという想定は、この二つの曲線 がお互いに独立してシフトできるという想定と矛盾しています。どちらかがシフトすれ ば、一般には、所得が変わります。その結果として、所得一定という想定に基づく図式す べてが崩壊します。この立場を救うには、賃金単位が自動的に変わってくれるような、や やこしい想定を設けるしかありません。その自動変化は、想定されるシフトをちょうど相 殺するだけの金利を設定するよう流動性選好に作用するだけの幅でなくてはなりません。
実は、上記の著述家たちを見ても、こうした想定の必要性についてはまったく書かれてい ません。せいぜいが、長期均衡との関連では成り立つかもしれないというだけで、短期理 論の基礎にはなりません。そして、それが長期で成立すると想定すべき根拠もないので す。実を言えば、古典派理論は所得水準の変化が関係してくることにも、所得水準が実は 投資量の関数なのだということにも、気がついていないのです。
以上のことは、以下のように図で示せます*5。
この図では、投資(または貯蓄)の量Iが縦軸で、金利rが横軸です。投資需要関係の 最初の位置はX1−X1′ であり、X2−X2′ がその曲線の第二の位置です。曲線Y1は、所 得がY1のとき、それぞれの金利水準でいくら貯蓄にまわるかを示すもので、Y2、Y3はそ れぞれ所得がY2、Y3の場合を示す曲線です。Y1が投資需要関係X1−X1′ と金利r1に 対応したY 曲線だとしましょう。そこで投資需要関係がX1−X1′ からX2−X2′ にシフ トしたら、一般に所得も変化します。でも上の図は、その新しい所得の値を示せるほど データがありません。ですからどれが適切なY 曲線かわからないので、新しい投資需要 関係がどこでそれと交わるかもわかりません。でも、流動性選好の状態とお金の量を導入
*5この図を示唆してくれたのはR. F.ハロッド氏です。またD.H.ロバートソン氏による部分的に似たよ うな図が『エコノミック・ジャーナル』1934年12月号, p. 652にあるので参照。