第 4 章 日本語とタイ語における自称詞の出現数
4.5 認知言語学の観点から見た日タイ語の自称詞の出現数の差異の背景
日本語では、自称詞が明示されていないにもかかわらず、タイ語では自称詞が明示さ れていることの背景には様々な要因がある。前節では、主な要因として、文法形式の違い によるもの、好まれている言い回しの違い(状況中心的言語/人間中心的言語)によるも の、社会・文化の違いによるものという三つの要因を紹介した。この現象をさらに見てい くと、文法形式の違いによるもの、好まれている言い回しの違いによるものの二つの要因 から日タイ語の自称詞の差異は両言語による捉え方の違いを反映していることが分かった。
本節ではこの点について論じていく。
Langacker(1985: 140) の subjectivity 理 論 で は 、“Implicit reference to the speaker correlates with the speaker being construed more subjectively,….”と述べている。つまり(話
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者 の 参 与 す る 同 じ 事 態 を 描 写 す る の に )、 話 者 の 非 明 示 は 話 者 の 明 示 よ り 主 観 性
(subjectivity)の度合が高いとされている。具体例についてはp.32で紹介した通りである。
ここではその例を再掲する。
(51) a. Ed Klima is sitting across the table from me.
b. *Ed Klima is sitting across the table
(Langacker1985: 141)
(51a) はそのときの写真を見せて説明しているというような場面であるのに対し、
(51b) の場合は状況を目で見た通りに説明しているので、話者が言語化されず、話者が より主観的に捉えられており、見られる主体の立場よりも見る主体となっている立場の方 が重要とされている。
上原(2016b: 73-74)は、意味上の話者の有無がその表現上の話者の明示・非明示と対 応すると述べており、客観的には同じ位置関係の事態の異なる捉えを表す Langackerの 2 表現を使用し、図 4-3のように表している(図3-3を再掲する)。すなわち、a)では、概 念化者としての話者によっての見えに話者自身が存在するため、それが明示の表現という 形に表れ、b)では、その意味の中に話者が存在しないため表現としてもゼロ/非明示の 表現になっているのである。
a) b)
Vanessa is sitting across the table from me Vanessa is sitting across the table
図4-3(a)(b)それぞれの表現の表す見え(上原2016b: 73;Uehara 2006: 277より)
上記の図 4-3は一つの言語内での二つの表現の立ち位置の違いの例であるが、日本語と タイ語の自称詞の明示・非明示の現象をはじめ、言語が違う場合でも、同じ原理で説明で
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きると思われる。言い換えれば、上で述べたように、自称詞の明示・非明示は、それぞれ 認知言語学における「客観的把握」と「主観的把握」に関わっている45。日本語とタイ語 における出現数の差異の背景においてもこの事態把握の違いに繋がっているということで ある。4.4.1の文法形式の違いによるものと 4.4.2の好まれている言い回しの違いによるも ので見てきたように、客観的に同じ状況において、日本語は自称詞が非明示になることが 多いが、タイ語訳では自称詞が明示される傾向が強い。
従って、傾向としては日本語では見えの中に話者の姿が存在しないのに対し、タイ語で は話者にとっても見えの中に話者自身が存在することが多いことになる。つまり、日本語
は Uehara(2006)の図 4-3 の b)に対応しており、タイ語は a)に対応している。この
Uehara(2006)の図に基づいて、本章の例文(5)を使用し、図で表すと図 4-4 の通りに
なる。
場面:娘が母親に言った台詞「なみうちぎわ」より
ア)日本語 イ)タイ話
東京に出発したい
หนูอยากไปโตเกียว
nǔu yàak pay tookiaw 自 行きたい 東京
図4-4 日本語とタイ語における話者明示・非明示に関する見え(捉え)の例
図 4-4のア)で示している通り、日本語では見えの中に話者の姿が存在しないため、表 現上においても自称詞が非明示にされている。これに対して、イ)のタイ語では同じ状況
45 主観的把握の場合では自称詞が非明示になるが、自称詞の非明示の場合では主観的な要因以外、談 話的な要因など他の要因もあるため、自称詞の非明示は必ずしも主観的に捉えているわけではないこと に注意されたい。
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において話者が意味上存在しているため、表現上においても、自称詞が明示されているわ けである。
もちろん、日本語では、「~たい」などの内的状態述語が使用されている場合ではかな らずしも自称詞が非明示になるわけではない。対比や強調の場合では日本語においても自 称詞が明示される。一方、タイ語では、先述したように日本語のように内的状態述語によ る人称制限がない。そのため、主語は自称詞(話者)だけではなく、対称詞、他称詞でも 可能である。例えば、上記のイ)の例文の主語を自称詞の “nǔu” から、対称詞の “khǎw”
(彼)や他称詞の “khun 山田” (山田さん)などで入れ替えても可能である。ここでこの 例を取り上げたのは、客観的に同じ文脈状況において、日本語では自称詞が非明示である のに対し、タイ語では自称詞が明示になる傾向があることを示すためである。
自称詞の非明示が多い日本語は体験者型の捉え方が優勢で、話し手が、今まさに体験 しているような臨場感があり、その出来事の場にいるように捉えていることが多い。それ に対し、自称詞の明示が多いタイ語では、傍観者的な捉え方が優勢で、傾向としては話し 手がただ客観的に状況を捉えていることが多い。このことから、日本語は「主観的把握」
を好み、タイ語は「客観的把握」を好む傾向があると言えるであろう。