第 4 章 日本語とタイ語における自称詞の出現数
4.1 はじめに
本研究では、日本語とタイ語における自称詞の対応関係(両方あるいはどちらかが有形 の場合)を考察することが目的であるため、両言語とも自称詞が非明示である場合は分析 の対象外とするが、本章では日本語とタイ語の自称詞の出現数の考察に入る前に、両言語 の自称詞の非明示条件の共通点について少し触れておく。
日本語とタイ語の両言語ともゼロ代名詞言語25 であり、自称詞の明示は義務的ではな く、文脈から明らかな場合では自称詞を明示しないことが可能である(上原2015: 114)。
この場合の文脈はさらに詳しく述べると、2つに分けられる。
一つ目は文章上の文脈である。つまり、人称詞が非明示になっている台詞の前に、既に 明示されており、次の台詞で自称詞が非明示になっていることである。Uehara(1998)は、
このような文脈を談話(一貫した前方照応)と呼称しており、談話の要因は他称詞が日本 語で無形となる場合のほとんどの用例の説明になると述べている。一方、数は限られてい るが、日本語とタイ語における自称詞の使用でも談話の要因で非明示になっていることが ある。本研究のデータからの具体例は以下の通りである。
(1)場面 姉が妹に言った台詞
〈日:原〉「あの日、入り江に浮かんでるあの子を、わたしも見たよ。」
「海沿いの道をあるいてるときだった。」
〈タ:訳26〉
วันนั้นฉันก็เห็นนะ เด็กคนนั้นลอยอยู่กลางเวิ้งน ้า ตอนที่เดินบนถนนริมทะเล
“wan nán chǎn kɔ̂ɔ hěn ná dèk khon nán lɔɔy yùu klaaŋ wə́əŋ nám”
あの日 自 も 見る 終 あの子 浮かんでいる 中 入り江
25 人称代名詞の明示が義務的でない「代名詞非明示型言語」は、文法的機能(性や数や人称)が形態 的に標示されない「ゼロ代名詞型」と、定型節の主語が表現されずともその文法的機能は動詞の屈折で 体系的に標示される「代名詞省略型」の二種類に分けられる (上原2015: 114)。
26 本研究における日本語のグロスと直訳はタイ語検定 3 級を持つ日本語母語話者に確認してもらった。
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“tɔɔn thîi dəən
bon
thanǒn rim thalee”
とき 歩く 上
道
海沿い
(あの日私もあの子が入り江の中で浮かんでいるのを見たよ。海沿いの道をある いているときだった。)
「なみうちぎわ」より
上記の例(1)で示している通り、日本語とタイ語の両言語とも、最初の文に、日本語 は 「わたし」、タイ語は “chǎn” という自称詞が一回明示されている。そのため、次の文 で自称詞が非明示になっても、話し手が特定できる。
二つ目の文脈は会話上の文脈である。つまり、会話の多くの場合は登場人物が明らかで あるため、自称詞と対称詞が明示されなくても、話し手と聞き手が分かる。そのため、前 の文に明示されなくても自称詞を明示しないことは可能である。例えば、以下の場面であ る。
(2)場面 取調べ中で、「あのメモリーカードの中身は?」という質問に答えなかった 犯人に職員が言った台詞
〈タ:原〉
ถามอีกครั้ง
thǎam ʔiìk khráŋ 訊く もう一度
(もう一度訊く。)
〈日:訳〉もう一度訊く。
「二十九番目の人間」より
英語の場合は “I’ll ask you again.” など自称詞が明示される形になるが、例(2)のよう に、日本語とタイ語の自称詞は明示しないことが可能である点で共通している。しかしな がら、後述するように対訳コーパスを見ると、タイ語は日本語より自称詞の出現数が明ら かに多い。つまり、同じ文脈において、日本語では自称詞の非明示の数(無形)はタイ語 より多いということである。
日本語とタイ語に関する自称詞の出現数(明示・非明示)の対照研究は、先行研究ので 紹介した通り、Uehara(2012)や Ratitamkul & Uehara(2012)、ルンキーラティクン(2017)
56 などが挙げられる。
Uehara(2012)では、日本語・英語・タイ語における内的状態述語を比較対照した。その 結果、日本語とタイ語は英語と異なり、自称詞の明示は義務的ではないが、日本語では内 的状態による自称詞の人称制限27があり、自称詞を明示しなくてもその体験主体は話者で あることが分かるのに対し、タイ語には 「caŋ構文」以外、基本的には日本語のような文 法形式がないため、自称詞を明示することが多いとUehara(2012)が指摘している。しか し、後述するように内的状態述語以外にも、日本語では話者を規定する特徴を持つ文法形 式があり、より詳細に明らかにする必要があると考えられる。また、タイ語においても
「caŋ構文」以外にも、話者を規定する文法形式が存在する可能性があるため、この点に ついても検討すべきであると思われる。
Ratitamkul & Uehara(2012)は英語短編小説の原文から日本語とタイ語の対訳コーパス を用いて、自称詞・対称詞・他称詞を分析した。本研究の論点に関わる自称詞のみの結果 を述べると、日本語とタイ語の両言語とも自称詞の非明示は可能であるが、同じ文脈にお いて、日本語の方がタイ語より自称詞の非明示数が多いという(Ratitamkul & Uehara 2012: 142-143)。その原因について、日本語では、内的状態述語による主観性の要因で自 称詞が明示されなくても話者が特定できるのに対し、タイ語には同じような文法形式がな いため、自称詞が明示されることが多いとRatitamkul & Uehara(2012)は述べている。し かし、Ratitamkul & Uehara(2012)の分析対象は主格のみで、所有格と目的格の自称詞に ついて考察していない。また、Ratitamkul & Uehara(2012)のデータの原作は英語のため、
翻訳の影響の可能性もあり、日タイ語対訳資料でも検討することが望ましいと思われる。
ルンキーラティクン(2017)は社会言語学の観点から日本語とタイ語における人称詞 の使用・不使用について、意識調査と対訳資料の分析を通して考察し、以下のことを明ら かにしている(本研究の論点に関わっている自称詞のみ提示する)。
1.日本語では表現の特徴で、人称詞が非明示にされていることが多いため、タイ語の 方が使用頻度が高い。その内訳は次の通りである。
授受表現15.63%、意見を述べる言い方(思う)15.40%、感情を表す形容詞11.07%、
情報・感情を認識する言い方(知る、わかる)10.81%、希望・要求を表す言い方 (~たい、~ほしい)7.61%、受身文・自動詞文8.17%、親族名称の文7.61%、敬語
27 「人称制限」という言葉を使用するが、これはヨーロッパの文法における「人称」に基づくものとは
異なる点に注意が必要である(上原2015)。
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の文5.80%、可能文4.86%、依頼文4.18%、勧誘・勧告の文3.62%、使役文1.43%、
名乗り文1.43%、判断の文1.02%
2.タイ人は年齢の上下と親疎関係を優先的に考慮しながら、自称詞と対称詞を使用す るか否かを判断する傾向が見られる。これに対して日本語の場合では、まず「ウ チ・ソト」と上下関係を考慮し、人称詞の使用・不使用を選ぶ傾向がある。
このように、ルンキーラティクン(2017)は社会的な要因に注目した研究ではあるが、
日本語の文法・表現形式の特徴の要因についても論じている。しかしながら、上記の通り、
ルンキーラティクン(2017)は自称詞と対称詞を区別せず、両言語の文法形式の違いの 背景についても詳しく論じていない。また、後述するように、一つの会話の自称詞の使 用・不使用には様々な要因が絡み合っており、文法形式の特徴にのみ注目しても一つの文 では、一つ以上の文法形式の特徴が存在することもあるため(例えば、「説明させていた だきます」という文は、授受表現と敬意表現の両方を当てはめることができる)、形式ご とに数字で示せないと思われる。さらに、本研究のデータでは、ルンキーラティクン
(2017)が論じた文法形式以外の他の要因も見受けられるため、さらに考察する必要が あると考えられる。
そこで、本章では以上に述べた先行研究の問題点を踏まえ、短編小説の日タイ語対訳 コーパスを用い、日本語とタイ語の自称詞の出現数の差異とその背景にある要因を網羅的 に探ることを課題とする。