第 4 章 日本語とタイ語における自称詞の出現数
4.4 日本語とタイ語の自称詞の出現数の差の要因
4.4.1 文法形式の違いによるもの
4.4.1.1 体験者主観性表現
上原(2016a: 34)によれば、体験者主観性表現の典型的なものとして、感覚・感情・
思考・欲求・意図を話者のものと限定して表す日本語の内的状態述語が挙げられる。その ため、日本語では内的状態述語を主節の現在基本形として使用する際、他の人の内的状態 を表すにはそのままの形では使用できず、その情報の拠り所を示す証拠標識(evidential
marker)などが必要となる(上原2011: 75)。このように、日本語の感情、思考、意見を
表す内的状態述語はその感情や意思の主体/主語が話者に限定されているため、自称詞が 明示されていなくても、話者であることが明確である。一方、タイ語の述部においては話 し言葉である “caŋ”(本当に~)という気持ちを強調する言葉を除けば、日本語のような 人称制限はない32(Uehara 2012: 131)。従って、読み手が分かりやすいように、タイ語で は自称詞を明示する傾向が強いと考えられる。具体例は以下の通りである。
31 上述したように一つの文にいくつかの文法形式の特徴が存在することもあるので、本研究では、文 法形式別の数を示さず、その文に文法形式の特徴があるなら一つの用例として数えることにする。
32 Uehara(2012)は「caŋ構文」について指摘しているが、例文は作例のため、実際会話、対訳資料な
どを用い、その数を示したものではない。このことに関しては、本章の4.6で本研究のデータに基づい て論じる。
61 感情
(3)場面 恋人同士で女性が男性に言った台詞
〈日:原〉本当に怖いのよ
〈タ:訳〉
ฉันกลัวเหลือเกิน
chǎn klua lɯ̌a kəən 自 怖い とても
(私33はとても怖い)
「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」より
(4)場面 (空想の世界で)おじさんトマトが若いトマトに言った台詞
〈タ:原〉
ข้าดีใจที่มีโอกาสได้เจอแกนะเดอะจีเนียส
khâa
dii cay
thîi
mii
ʔookàat
自
嬉しい
関係 ある
機会
dây cəə kɛɛ
náʔ
də̀ cii niât
会える
お前
終
ザ・ジーニアス
(私はお前に会える機会があって嬉しいよ、天才さん)
〈日:訳〉お前さんに会えて嬉しいよ、天才トマトさん
「トマトの自殺」より
上述の通り、日本語では「怖い」や「嬉しい」などの感情を表す表現は、話者の感情を 表すことは可能であるが、他人の感情を表すにはそのままの形では使用できず、「彼は怖 がっている」や「彼は嬉しそうだ」など形を変えなければならない。それに対し、タイ語 では主語を問わず、“dii cay”(嬉しい)や“klua”(怖い)などの感情を表す表現はそのま まの形で使用することが可能である。そのため、上の例(3)と(4)に見られるように、
感情を表す表現などの内的状態述語が使用されるとき、日本語では自称詞が非明示になっ ているが、タイ語ではそれぞれ、“chǎn” と “khâa”という人称名詞系自称詞が明示されて いる。
33 先述した通り、日本語とタイ語の人称名詞系自称詞は様々であるが、本章では自称詞の明示と非明 示について論じることが目的であるため、様々なタイ語の人称名詞系自称詞を「私」に訳す。日本語と タイ語の両言語の人称名詞系自称詞の対応関係については第6章で論じる。
62 欲求
(5)場面 娘が母親に言った台詞
〈日:原〉決心がにぶらないうちに、東京に出発したいんだよ。
〈タ:訳〉
ก่อนจะหมดแรงหนูอยากไปโตเกียว
kɔ̀ɔn cà mòt rɛɛŋ nǔu yàak pay tookiaw 前 未来 なくなる 力
自 ~たい
行く 東京
(力がなくなる前に、私は東京に行きたい。)
「なみうちぎわ」より
(6)場面 男性の友だち同士の会話
〈タ:原〉
กูอยากจะตาย
kuu yàak cà taay 自 ~たい 未来 死ぬ (私は死にたい。)
〈日:訳〉もう死にたいよ。
「旧友の呼び声」より
上記のように、欲求も内的状態述の一つであり、その欲求の主体/主語が話者に限定さ れている。例えば、「*彼は東京に行きたい」とは言えず、「彼は東京に行きたいそうだ/
行きたいようだ/行きたいのだ/行きたいらしい」にしなければならない。一方、タイ語 では例(5)と(6)の主語を “khun”(あなた)か “khǎw”(彼、彼女)に変えても述部は そのままの形で可能である。そのため、上の例(5)と(6)で示しているように、日本 語では自称詞が非明示になっているが、タイ語では聞き手や読み手が分かりやすいように
(5)は“nǔu”(6)は“kuu”という人称名詞系自称詞が明示されている。
(7)思考
場面 主人公の男性が友達に言った台詞
〈日:原〉何だってちゃんとできたと思う。
〈タ:訳〉
ไม่ว่าอะไรฉันคิดว่าตัวเองก็คงเรียนได้ดี
63
mây wâa ʔaray chǎn kít wâa
なんでも 自 思う と tuaʔeeŋ kɔ̂ɔ khoŋ rian dây dii
自分
推量
勉強 できる うまく
(何でも、私は自分がうまく勉強できたと思う。)
「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」より
(8)場面 恋人同士の会話で男性が女性に言った台詞
〈タ:原〉
ฉันก็ไม่น้อยใจว่าตัวเป็นคนอกตัญญู
chǎn kɔ̂ɔ mây
nɔ́ɔy cay
自 接
否定
恨めしく思う
wâa
tua
pen khon ʔakatanyuu と
自分 繋辞 人
恩知らず
(私は自分が恩知らずだと思われても恨めしく思わない。)
〈日:訳〉恩知らずだと言われても恨めしくは思わない。
「暗闇の隅」より
上記のように、思考も内的状態述語の一つであり、その欲求の主体/主語が話者に限定 されている。日本語では上の例(7)と(8)の主語は話者に限定されており、主語を明 示する場合は、自称詞に限られている。他人の思考を表す場合は「~思っている」にしな ければならない。それに対し、タイ語では、主語を対称詞か他称詞に変えることも可能で ある。そのため、上の例(7)と(8)で示しているように、日本語では自称詞が非明示 になっているが、タイ語では聞き手や読み手が分かりやすいように “chǎn” という自称詞 が明示されていると考えられる。