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データに見られる日本語の人称名詞系自称詞

第 6 章 日本語とタイ語における人称名詞系自称詞の使い分け

6.3 データに見られる日本語とタイ語の人称名詞系自称詞

6.3.1 データに見られる日本語の人称名詞系自称詞

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とができるため、役割語度が高いと言える。それに対して、「わたし」など特に話し手の イメージを想起させないような人称名詞系自称詞は役割語の特徴が見られないため、役割 語度が低いことになる。

本章では、まず日本語とタイ語それぞれの言語のデータに現れた人称名詞系自称詞とそ の出現数を提示する。それらの人称名詞系自称詞を役割語の度合でグループ分けして、役 割語の度合が高い順から考察する。考察する際、日本語の場合は金水(2014)の『〈役割 語〉小辞典』を、タイ語の場合は Ratchabandittayasatan(2011)のタイ語辞書とタイ語の人 称名詞系自称詞を包括的に扱っているCooke(1965)を踏まえて考察する。ちなみに、言 うまでもなく、ここで取り上げる人称名詞系自称詞は日本語とタイ語それぞれの言語にあ る人称名詞系自称詞の全てではない。方言や職業によって様々な人称名詞系自称詞が存在 する。ここでは、人称名詞系自称詞の種類について論じるのではなく、対訳作品67 にお いてどのようなものが使用されているかに注目し、それぞれの言語の人称名詞系自称詞の 使い分けの傾向を示したい。従って、役割語度の分析も本研究のデータから言えるものと する。

次に、日本語とタイ語の人称名詞系自称詞の対応関係をまとめ、主な傾向を示す。さ らに、補助データとして、漫画による考察結果も紹介する。最後に、それぞれの言語の人 称名詞系自称詞の特徴の背景には何があるか認知言語学の観点から考察する。

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「わたくし」、「あたし」、「わし」、「おれさま」、「おら」、「うち」、である。なお、「私」の 場合、共通語においても様々な読み方があるため、漢字で表記された場合は考察の対象外 とする68。次の表6‐1はデータに見られた日本語の人称名詞系自称詞を作品別に示す。

68 対象外の「私」の数は377である。

6-1データに見られる日本語における人称名詞系自称詞

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次に、短編小説のデータに見られる日本語の人称名詞系自称詞を、1)役割語の特徴が 二つ以上見られるもの、2)役割語の特徴が一つ見られるもの、3)役割語の特徴が見ら れないもの、という三つのグループに分類し、役割語度の高い順から論じる。

1)役割語の特徴が二つ以上見られるもの

本研究の日本語のデータにおいて役割語の特徴が二つ以上見られるものは「ぼく」、

「おれ」「あたし」、「わし」、「おれさま」である。それぞれの詳細の分析は以下の通りで ある。

 「ぼく」

「ぼく」は話し手の〈性別〉が男性であることと後述するように話し手の〈性質〉を 想起させるため、役割語の特徴は二つあると言える。

「ぼく」が表す話し手の性格について金水(2014: 166)は次のように述べている。

フィクションの世界では、明治時代からこのような「ぼく」=知的・先進的、「お れ」=非知的・土着的といった対立が見られる。[…] 戦前から一九七○年代頃ま での少年読み物・マンガ・アニメなどでは、「ぼくら」という複数の代名詞が、世 界の秩序回復に立ち上がる「強く明るい」少年たちの精神的な共同体を象徴する言 葉となっていた。[…] その後、「おれ」が強い男性性を帯びる一方で、「ぼく」は 相対的に弱い男性性を示す代名詞ともなり、さらには弱々しい、マザコン的なニュ アンスも帯びるようになっ た。親の庇護下にある、弱々しい男性を揶揄する

「ぼくちゃん」という言葉も生まれた。『ドラえもん』に登場するのび太が「ぼく」

を使うのは、そのような弱い「ぼく」の好例である。

(金水2014: 166)

データでは「ぼく」は419回あり、様々な作品に使用されている。大きく分類すると話 し手が大人の場合と子どもの場合に分けられる。

話し手が大人の場合は作品によって聞き手が様々であるが、共通しているのは金水

(2014)が指摘している通り、話し手のイメージが知的・先進的な男性の場合が多いこ とである。具体例は以下の通りである。

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(1)場面 1980年代の人間である男性同士の友達が会話するとき

〈日:原〉僕と君とではおそらく考え方も違うし、目指しているものも違うと思う。

「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史―」より

「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史―」では、1980 年代の男性同士の友 達が大人になって久しぶりに会ったときの会話がほとんどである。主人公の二人は大学卒 であり、卒業後、一人は小説家、もう一人はヨーロッパ家具専門の輸入会社の経営者にな る。

(2)場面 大谷男爵次男で、有名な詩人である「大谷」が新聞に自分の悪口について書 かれているのを見つけて、妻の「さっちゃん」に言った台詞

〈日:原〉やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ…

「ヴィヨンの妻」より

「ヴィヨンの妻」話の舞台は戦後であり、主人公の大谷は名家の次男で、大学卒で育ち のいい人物である。

(3)場面 「美濃部」が妻に言った台詞

〈日:原〉僕は初めからうめ女お婆さんに対しては、言亡絶慮といった立場でのぞんでい るのだから、僕の立場に気がねすることはないよ。

「厭がらせの年齢」より

終戦の年に東京の家が焼かれ美濃部と家族は山の中で貧しい暮らしをしているが、美濃 部はフランス帰りの洋画家であり、田舎者ではなく、エリート層の男性である69

詳細については異なっているが、上記の通り「ぼく」を用いる登場人物の共通点は〈教 養のある男性〉である。

また、大人で「ぼく」を用いる登場人物はタイ語原作の訳本の場合でも見られる。例え ば、「ほんとうの死」や「暗闇の隅」や「人にたよらず」や「エムオンの娘のひたすらな

69 対照的に伊丹という登場人物は「わし」で自称する。詳細は「わし」を参照されたい。

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愛」である。ここでは、「ぼく」の出現数が最も多い、「ほんとうの死」と「暗闇の隅」か ら例を挙げる。

「ほんとうの死」の主人公である詩人は祖母と話すように日記を書くとき、以下の例の 通り、自分のことを「ぼく」と称する。

(4)場面 孫が祖母に書いた日記

〈日:訳〉あんまり嬉しくて、ぼくは泣いたんだよ。

「ほんとうの死」より

「ほんとうの死」の話は非現実的で、詩人について詳しく書かれていないが、祖母に書 くとき詩人は子どもに戻るように、タイ語原作では “lǎan”(孫)が使用されている。目下 の親族名称を自称詞として使用できない日本語では自称詞としては「ぼく」が相応しいと 翻訳者が判断したと考えられる。

また、「暗闇の隅」の登場人物であるガンは頭が良く、奨学金をもらい海外留学を予定 している。ガンは彼女に話すときも、父親に話すときも「ぼく」を用いる。具体例は以下 の通りである。

(5)場面 「ガン」が彼女の「ロームジャイ」に言った台詞

〈日:訳〉だから、僕は君の心が折れるまで、必死で君に説明してみせる。

(6)場面 「ガン」が父親に言った台詞

〈日:訳〉今までの父さんは、いつも僕に尋ね、僕の話を聞いてくれていたじゃないか。

「暗闇の隅」より

上記の通り、日本語訳では彼女に対しても、父親に対しても「ぼく」が用いられている。

一方、タイ語原作では、彼女に対して、“phîi”(年上、兄)が使用されている。なぜなら ば、第5章で述べたように、タイでは男性が年上の場合、彼女に対して「兄」を使用する ことが多いからである。

次に、話し手が子どもの場合の例を見てみよう。「ぼく」を用いる子どもの登場人物の 例は「角筈にて」、「セロ弾きのゴーシュ」に見られる。具体例は以下の通りである。

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(7)場面 八歳の「恭一」が父親に言った台詞

〈日:原〉ぼく、うちに帰ってる。

「角筈にて」より

(8) 子狸が「ゴーシュ」に言った台詞

〈日:原〉だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行 って習えと云ったよ。

「セロ弾きのゴーシュ」より

「セロ弾きのゴーシュ」の内容は非現実的であるため、狸が話すことができ、「ぼく」

を使用している場面があるが、ここで言いたいのは「角筈にて」と共通し、「ぼく」は男 の子をイメージさせることができるということである。

男の子が「ぼく」を用いるタイ語原作からの例は「トマトの自殺」にも見られる。「ト マトの自殺」では若いトマトとおじさんトマトがおり、若いトマトは「ぼく」を用いる。

若いトマトは「天才」と呼ばれているほど頭のいい男の子であるため、訳としては、「ぼ く」が合うと翻訳者が解釈したと考えられる。具体例は以下の通りである。

(9)場面 若いトマトが皺くちゃトマトに言った台詞

〈日:訳〉生まれ変わってもそのトマトはまだぼくのままなの?

「トマトの自殺」より

以上、本研究のデータにおける「ぼく」の主な用法について例を挙げて説明した。ど のような人物像か特定できない場合は71回(16.95%)あるが、184回(43.91%)が大人 の場合で〈知的な男性〉のイメージを想起させ、164回(39.14%)が子どもの場合で

〈真面目な男の子〉のイメージを想起させることが確認できた。つまり、〈男性〉という 性別以外、まじめ、〈知的〉など性質に関わる特徴も示していると言える。そのため、「ぼ く」には役割語の特徴は二つあるということができる。

「おれ」

「おれ」について、金水(2014:63)は次のように述べている。