第 5 章 日本語とタイ語における自称詞の種類
5.7 自称詞としての親族名称
5.7.2 日タイ語における自称詞としての親族名称の用法の違いの背景
Langacker (1985: 127)によれば、母親が自分のことを “your mother” と自称すること
は子どもである聞き手の視点から自分を捉えていることである。つまり、親族名称を自称 詞として使用することは聞き手の視点を取るということである。日本語とタイ語における 聞き手の視点の取りやすさの違いについて上原(2018a: 14)は日タイ語における「来る」
の用法の分析を通して、下記の例を挙げている。
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(27)場面:太郎が家にいる時に花子から電話があり、「私の家で明日パーティーするの を知っているよね。太郎君は来るの?」と聞かれたときの台詞
英語 :* I’m going. / I’m coming.
日本語:僕は行くよ / *僕は来るよ。
タイ語:phǒm pay / *phǒm maa
(上原2018a: 14)
上記の例(27)で示されているように、話し手(領域から)の聞き手領域への移動を 表す表現において、方向移動「行く」と「来る」のどちらかを使用するかによって言語が 2 分されており、この場面では日本語とタイ語は前者であり、英語は後者である(上原 2018a: 14)。しかし、別の場面になると、日本語では「来る」が使用されていないが、タ
イ語は “maa” が使用されていることがある。例えば、上原(2018a: 18)によれば、研
究室で一人でヘッドフォンをつけて音楽を聴きながら仕事をしていて、気がついた時には 同僚が部屋のドアを何度もドンドンと叩いて「いないの?」と叫んでいたような状況で、
日本語では「すぐ行くから/すぐ開けるから、待って!」などとは言うが、タイ語ではそ の場で即座に(まだ一歩も踏み出していなくとも、即座に)次のように返事をすることが ある。
(28) maa lɛ́ɛw! maa lɛ́ɛw!
来る 完了 来る 完了
(上原2018a: 18)
上原(2018a)は上記の例以外も、聞き手領域への話者(領域から)の移動を表す場合 に、日本語では「来る」が使用されていないが、タイ語において、話し手が物理的にかつ
/または心理的に聞き手に近いことを聞き手に知らせる場合では、 “maa” (来る)が使 用されている例をいくつか挙げている。この用法の違いは両言語における聞き手の視点の 取りやすさの違いに関わっており、日タイ語間で日本語の方が話者中心性、すなわち体験 者として話者の視座に限定される傾向が強いとしている(上原 2018a)。この現象を図で 表すと以下の図5-7のようになる。図 5-7が示している通り、話し手が聞き手のところに 向うとき、“maa” (来る)を使用することは聞き手の視点を取ることになる。
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日本語の場合 タイ語の場合
=領域、 =物理的方向 、 =聞き手の視点を取る過程
図5-7 日本語とタイ語における「聞き手のところに向う」表現の表す状況
この両言語における聞き手の視点の取りやすさの違いから、親族名称の用法の例を考 えると、次の図5-8で示している通り、父親が自分のことを「お父さん」あるいは、
“phɔ̂ɔ” (タイ語で父親という意味である)と称することができるのは聞き手の領域に入 り、聞き手である子どもの視点で自分を捉えているからである。従って、聞き手の視点を 取ることは聞き手の領域に踏み込むことだと考えられる。
図5-8 親族名称を自称詞として使用するときの表す状況
聞き手の領域に関して、鈴木(1997: 58)は「聞き手の領域」には、聞き手に所属する もの、人、情報など聞き手に関わる全てのことがらが含まれるとし、日本語では、丁寧さ を維持するために、話し手は「聞き手の領域」に踏み込むことを避け、「聞き手の領域」
に言及する場合には、「中立の領域」や「話し手の領域」について述べる形を使用するな
132 どの配慮が行われると指摘している。
日本語とタイ語の親族名称の用法の違いの背景を見ていくと、この聞き手の視点を取 ることが裏付けになると考えられる。つまり、「日本語では親しき仲にも礼儀あり」とい う表現があるように、聞き手の領域に踏み込まないように配慮している(上原 2018a: 26)。
このことは、日本語では聞き手の視点を取るときは下位者の視点のみであり、上位者の視 点を取って、「子ども」「妹」など下位者の親族名称を自称詞として使用する習慣がないこ との要因の一つであると考えられる。また、日本語では下位者が成長すると、人称名詞系 自称詞に変わることが多いことも、大人になると下位者だと捉えにくくなるからであると 言える。一方、第4章で述べたように、タイ語では親族名称を使用することによって、親 しさを表すことができる。この日本語とタイ語の聞き手の視点の取りやすさの違いを図で 表すと、以下の図の通りになる。
日本語の場合 タイ語の場合
聞き手の視点が取りにくい 聞き手の視点が取りやすい
図5-9 日本語とタイ語における聞き手の視点の取りやすさ
この現象についてタイ語をさらに見てみると、タイ語では、聞き手の領域に入ること はタブーではなく、むしろ、親近感を示すため、下位者のみならず、上位者の視点を取る ことも可能である。従って、タイ語では自分のことを “nɔ́ɔŋ”(年下、弟、妹)や “lûuk”
(子ども)、“lǎan”(孫)などで表現することが可能である。
親族名称は目下に対して、愛情を表すとき、対称詞としても用いられる(ケェンチャ
ック 1989)。逆に考えると、下位者の親族名称を自称詞として使用することは目上(上位
者)に対する甘えを表すことにもなると言えるであろう。
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本研究のデータでは上述の通り、目下(下位者)親族名称合計 129 例(46.73%)が観 察された。作品の内容によって偏りがあるが可能性がある。例えば、「ほんとうの死」で は孫が祖母に話す台詞が多く、“lǎan”(孫)が多く使用されている。このように、話の内 容によって親族名称系自称詞の出現数が変わることがある。しかしながら、ケェンチャッ ク(1989)は自称詞として使用する割合は僅かであるため、この用法は衰える傾向にあ ると述べている(それ以外の根拠について述べていない)。本研究の主張は目下(下位者)
親族名称の用法が衰える傾向にあるのではなく、目下・目上の親族名称の機能の違いによ るということである。つまり、家族内では目上に対して話すとき、敬意を表すため目上
(上位者)の親族名称を使用することが一般的である。それに対し、目下の場合ではニッ クネーム、人称名詞など使用できる。目下(下位者)親族名称の使用は目上に対して甘え るときなどに使用する様々な選択肢の中の一つにすぎないため、出現数は目上(上位者)
の親族名称ほど多くないと考えられる。よって、数が少ないからと言って、この用法は衰 えたとは言えないであろう。むしろ、上記の通り、この用法は甘えるときなど特定の場面 にしか使用しないため、その出現数は僅かであっても当然であると思われる。
上記の通り、両言語における聞き手の視点の取りやすさから見ると、日本語は自分の 視座から離れない傾向があり、タイ語より視座の移動が起きにくいことが明らかである。
このことは同じ事態に対する日タイ語の間の捉え方の違いを表しており、日本語は「話し 手中心性」が強いのに対し、タイ語は「聞き手中心性」が強いというそれぞれの言語の特 徴づけができる。その上、この捉え方の違いは本章の論点である日タイ語の自称詞におけ
る subjectivity の度合の違いに帰着することができる。つまり、「話し手中心性が強い」言
語はsubjectivityの度合が高いことになり、「聞き手中心性が強い」言語はsubjectivityの度
合が低いのである。