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情意者主観性表現

第 4 章 日本語とタイ語における自称詞の出現数

4.4 日本語とタイ語の自称詞の出現数の差の要因

4.4.1 文法形式の違いによるもの

4.4.1.2 情意者主観性表現

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mây wâa ʔaray chǎn kít wâa

なんでも 自 思う と tuaʔeeŋ kɔ̂ɔ khoŋ rian dây dii

自分

推量

勉強 できる うまく

(何でも、私は自分がうまく勉強できたと思う。)

「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」より

(8)場面 恋人同士の会話で男性が女性に言った台詞

〈タ:原〉

ฉันก็ไม่น้อยใจว่าตัวเป็นคนอกตัญญู

chǎn kɔ̂ɔ mây

nɔ́ɔy cay

自 接

否定

恨めしく思う

wâa

tua

pen khon ʔakatanyuu と

自分 繋辞 人

恩知らず

(私は自分が恩知らずだと思われても恨めしく思わない。)

〈日:訳〉恩知らずだと言われても恨めしくは思わない。

「暗闇の隅」より

上記のように、思考も内的状態述語の一つであり、その欲求の主体/主語が話者に限定 されている。日本語では上の例(7)と(8)の主語は話者に限定されており、主語を明 示する場合は、自称詞に限られている。他人の思考を表す場合は「~思っている」にしな ければならない。それに対し、タイ語では、主語を対称詞か他称詞に変えることも可能で ある。そのため、上の例(7)と(8)で示しているように、日本語では自称詞が非明示 になっているが、タイ語では聞き手や読み手が分かりやすいように “chǎn” という自称詞 が明示されていると考えられる。

64 1)敬意の表現

日本語の自称詞に関わるのは素材敬語である謙譲語である。「太郎が先生をお送りした」

など動作主が話者以外の場合も可能であるが、典型的には主語/動作主は話者である(上

原 2016a: 35-36)。また、「太郎が先生をお送りした」の場合も、表現の含意する敬意の主

体は動作主ではなく話者である(動作主が話者であろうと他者であろうと、その行為に対 して謙譲語を採用する、つまりその動作主を卑下し間接的にそれに関わる人物に対する敬 意を表すのは、話者である)と上原(2016a: 36)が指摘している。このように、日本語 では、謙譲語があるため、自称詞を明示しなくても、それが話者の動作であると分かる。

これに対し、タイ語においては、“khàʔ”(女性用)と“khráp”(男性用)という丁寧接尾 辞があるが、一般的には日本語の謙譲語のようなものがないため、動作主を明示するため に自称詞が追加されていると考えられる。具体例は以下の通りである。

(9)場面 亭主がさっちゃんに言った台詞

〈日:原〉しかし、これまでの経緯は一応、奥さんに申し上げて置きます。

〈タ:訳〉

แต่เอาล่ะผมจะเล่าเรื่องที่เกิดขึ้นทั้งหมดให้คุณนายฟัง

tɛ̀ɛ ʔaw là phǒm cà lâw

rɯ̂aŋ thîi kə̀ət khɯ̂n しかし これから 自 未来 話す 経緯

tháŋ mòt hây khun naay faŋ

全部 あげる 奥さん 聞く

(しかし、これから私は全部の経緯を奥様に話して聞かせてあげる。)

「ヴィヨンの妻」より

(10)場面 無名の人から詩人への手紙の内容

〈タ:原〉

ผมเคยส่งให้คุณอ่าน ไม่รู้ว่ามันถึงมือคุณไหม

phǒm khəəy sòŋ hây khun ʔàan 自

経験 送る あげる 対 読む

mây rúu wâa man thɯ̌ŋ mɯɯ khun mǎy

否定 知る と それ 手に届く 対 疑問

(私はあなたが読むのに送ってあげたことがある。あなたの手に届いたかどうか 知らない)

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〈日:訳〉あなたにお送りしたのですが、届いていたでしょうか。

「ほんとうの死」より

以上の例(9)と(10)で示している通り、日本語では、「申し上げる」と「お送りす る」という謙譲語が使用されている。上述したように、謙譲語が使用される場合、典型的 に主語/動作主は話者である。そのため、日本語では、例(9)と(10)のように、主語 が話者の場合、自称詞が非明示になっているが、タイ語では丁寧な人称名詞系自称詞の

“phǒm” が明示されている。

2)遺憾の表現

日本語では話者の行為を表す動詞に「~てしまう34」が付く表現が使用されている場合 にその対応表現であるタイ語では自称詞が追加・明示化される例が見られる。「~てしま う」が遺憾の表現として使用されるとき、表現の含意する遺憾の気持ちの主体は話者に限 定される(上原2016a: 37)。例えば、「私は子どもを産んでしまった」の主語を「花子」

に代えたとしても、情意の主体は話者である(上原2016a: 37)。特に、その情意の主体と 行為の主体が同一の話者である例で、日本語では自称詞が非明示になり、対応するタイ語 では自称詞が追加・明示化されることが多い。具体例は以下の通りである。

(11)場面 ゴーシュがかっこうに言った台詞

〈日:原〉いやになっちまうなあ。

〈タ:訳〉

ข้าล่ะเบื่อ

khâa là bɯ̀ a

うんざりする

(私はうんざりするよ。)

「セロ弾きのゴーシュ」より

(12)場面 詩人が無名の人に書いた手紙

〈タ:原〉

ผมเขวี้ยงมันแตกไปแล้วดังที่คุณรู้

34 「ご飯を早く食べてしまいなさい」など「~てしまう」には情意の意味を持たない用法もあり、情

意を表す専用の形式ではないことに注意が必要である(上原2016: 37)。

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phǒm khwîaŋ man tɛ̀ɛk pay lɛ́ɛw

投げる それ 割る

完了

daŋ thîi khun rúu 通り

関係 対

知る

(私はそれを投げて割りました。あなたが知っている通り。)

〈日:訳〉ご存知のとおり、鏡は投げて割ってしまいました。

「ほんとうの死」より

上の例(11)は「~ちまう」、(12)は「~てしまいました」が使用されており、両事例 とも情意の主体と行為の主体が同一の話者であるため、日本語では自称詞が非明示になっ ている。一方、タイ語では、「~てしまう」の類似表現で、遺憾を表す「~sǐa lɛ̂ɛw」とい う表現があるが、この表現は過去形しか使用できない。つまり、タイ語には「~てしまう」

と完全に一致する表現がなく、訳は文脈によって異なっており、訳されないときも多い。

例えば、(11)の「~ちまう」と(12)の「~てしまいました」は訳されていない。その ため、タイ語では話者の遺憾であることが分かるように、(11)は “khâa”、(12)は“phǒm”

という人称名詞系自称詞が明示されたと考えられる。

3)謝意の表現

自称詞における日本語非明示‐タイ語明示の対応関係に見られる事例の中には日本語で 謝意表現「~(て)くれる」が使用される場合がある。「~てくれる」の場合は「くれる」

が元々その受け手を話者に限定したものであることから、話者がその恩恵の受け手である ことを意味する(上原2016a: 36)。特に、恩恵・行為両方の受け手が話者である場合に、

この対応関係になりやすいようである。タイ語の “hây”(与える)は、日本語文での「く れる」と「あげる」のような区別がなく、動作の受け手が特定できない。そのため、

日本語では、自称詞が明示されていないが、タイ語ではほぼ明示されることになる。例

(13)で示すように日本語では自称詞が明示されていないが、タイ語では自称詞が明示 されている。また、(14)のように、文脈によって “hây” に訳されていない場合もあるが、

どの場合でもタイ語では自称詞が明示される可能性が高い。

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(13)場面 孫が祖母に書いた手紙の内容

〈タ:原〉

ยายเคยสอนให้หลานเขียน…

yaay

khəəy

sɔ̌ɔn hây lǎan kǐan … 祖母 経験 教える くれる 自 書く (おばあちゃんが書き方を孫に教えてくれた…)

〈日:訳〉おばあちゃんが書き方を教えてくれたから…

「ほんとうの死」より

(14)場面 姉が弟に言った台詞

〈日:原〉おう、よく聴いておくれだ。

〈タ:訳〉

ขอบใจน้องที่เชื่อฟังพี่

khɔ̀ɔp cay nɔ́ɔŋ thîi chɯ̂a faŋ phîi

ありがとう 対 関係

言うことを聞く

(お姉さんの言うことを聞いてくれてありがとう。弟)

「山椒大夫」より

また、「~てくれ」という依頼の形式の場合、謝意を表すわけではないが、依頼行為の 対象を特定する機能を持ちえる。従って、動作主と動作の受け手を明示しなくても、動作 主は聞き手であり、動作の受け手は話者であることが分かるため、日本語では自称詞が非 明示となっているが、タイ語では自称詞が明示化されている場合が多い。具体例を以下

(15)と(16)に示す。

(15)場面 弟が兄に依頼したときの台詞

〈日:原〉どうぞ手を借して抜いてくれ。

〈タ:訳〉

พี่ช่วยดึงมีดออกมาให้ผมทีเถอะ

phîi chûay dɯŋ mîit ʔɔ̀ɔk maa hây phǒm thii thə̀ʔ 対 助ける 抜く 剃刀 出す 補 くれる 自 一回 終 (お兄さん、私に剃刀を抜き出すのを助けてくれ)

「高瀬舟」より

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例(15)の場面では弟が自殺しようとしたが、うまく行かず、剃刀が首に刺さったま まで、兄に発見される。すると、弟は剃刀を抜くよう兄に依頼をする。日本語では、動作 主と動作の受け手が明らかであるため、たとえ自称詞と対称詞が非明示になったとしても その意味を理解することができる。これに対し、タイ語では、自称詞か対称詞が明示され た方が分かりやすいため、対応しているタイ語では “phǒm” という人称名詞系自称詞が明 示されていると考えられる。

(16)場面 チャオクンが使用人に命令した台詞

〈タ:原〉

ผสมเหล้าให้ข้าสองถ้วย

phasǒm lâw hây

khâa sɔ̌ɔŋ thûay

混ぜる

くれる

(私に二杯のお酒を混ぜてくれ)

〈日:訳〉水割りを二杯つくってくれ。

「暗闇の隅」より

(16)も(15)と同じように、依頼としての「~てくれ」が使用されている例である。

(16)では、日本語の場合は例(15)と同じように、自称詞と対称詞が非明示となって いる。一方、タイ語の場合は対称詞が非明示となっているが、 “khâa” という人称名詞系 自称詞が明示されている。つまり、依頼の場合、タイ語では対称詞が非明示になることも あるが、依頼の利益を受ける側が話者であることを示すため、自称詞が明示されることが 多いと考えられる。

さらに、同じく授受表現である「~(て)もらう」のデータを見ると、日本語では自称 詞(話者)が非明示であるが、タイ語の方では明示されている例がいくつかある。これは 日本語では文の主語が話者である場合、話者がその事態に対して感謝の気持ちを表してい

35 ことが推測できるため、自称詞が非明示となる場合が多いと考えられる。一方、ルン

キーラティクン(2017: 37)も指摘しているように、タイ語では「もらう」に相当する

“dây ráp” は補助動詞として使用できないため、タイ語の対応関係を見ると別の表現が使

35 「~てもらう」が用いられる場合、必ずしも話者がその事態に対して感謝の気持ちを持っているとは

限らないことは、その文に続けて「羨ましい!」「ずるい!」等の謝意とは正反対の話者の気持を表す表 現を伴うことができることから明らかである(上原 2016: 39)。