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胡適における「詩体の大解放」の提唱

第 2 章 胡適における新詩運動の提唱と周作人における新詩の詩作

3.1 胡適における「詩体の大解放」の提唱

文体面の大解放を要求するのである。(中略)新文学の言語は白話で、新文学の文体は自由 で、形に拘らないものである。一見してこうした議論は、「文の形式」のみに対して発せら れていたが、実のところ、形式は内容と密接な関係を持っている。形式上で束縛されては、

精神が自由に伸ばず、優れた内容も十分に表現できないのである。詩に新内容、新精神を 載せるために、精神を束縛する鎖を打ち砕かなければならない24。(筆者訳)

胡適はこのように、世界中の文学革命は、「文の形式」から始まることが多いと述べてお り、その理由は「文の形式」が文の内容と深く関わっていると考えていたためである。つ まり、胡適は詩の形式と内容との繋がりを意識しながら「詩体の大解放」を提唱し、解放 された詩のスタイルを用いて詩に「新内容」、「新精神」を載せようとしたのである。

文学革命期、胡適らは新文学を提唱し、白話を用いて新詩を作り出そうとした。そのた めに詩の新しい表現スタイルが必要とされた、という点では、胡適による提唱した「詩体 の大解放」は高く評価されるべきである。また、徐中玉(1994)が、「文体面の変革は、必 ず思想面に一定の変化をもたらす」25と指摘したように、胡適における白話詩の「詩体の 大解放」の提唱は、詩の言語と詩のスタイルの両方面において、詩がそれまでの古典詩か ら解放され、古典詩と異なる新たな詩が生み出されたことを意味する。これは、封建社会 に生きる人間の思想解放の要求が文学に反映されたものだとも言えるだろう。以後、陳独 秀、魯迅、周作人など多くの知識人らが新詩を創作し、20世紀初頭の文壇では新詩の創作 が盛んに行われるようになった。

3.2 「詩体の大解放」に見られる新詩の問題

上述したように、胡適における新詩の提唱は、穆木天(1900-1971)から「私は、胡適は 中国の新詩運動にとって最大の罪人だと思う」26と厳しく非難されていた。そこで、胡適 における「詩体の大解放」に関する論述を考察し、新詩にどのような問題点が存在してい たのかを検証する。

3.2.1 古典的定型詩への批判

『嘗試集』の「自序」によると、胡適は1916年7月の段階から既に白話詩の創作の試み を行っていた。彼によって創作された白話詩は、アメリカの友人に「俗っぽい」と言われ た一方、銭玄同に「文語的すぎる」と指摘された27。彼らの指摘に対して、胡適は「まさ

にその通りだ」と述べ、自分が試作した白話詩の欠点を反省し、以下のように述べている。

これらの詩の最大の欠点は、五言七言の句法を用いたことである。定型的句法に拘ると、

自然な言語で表現することができなくなる。言い換えれば、言語表現の長い部分を切り取 ったり、短い部分を補ったりしなければならず、白話の文字と白話の文法を犠牲にしなけ ればならないのである28。(筆者訳)

胡適はこのように、自分が試作した白話詩の最大の欠点を、「五言七言の句法を用いたこ と」として捉えた。つまり、彼は作詩する際、五言七言の定型的句法に拘ると、「言語表現 の長い部分を切り取ったり、短い部分を補ったりしなければならない」と考えていた。彼 のこうした論述は、表面上古典詩の五言七言の定型的句法に対して発せられていたが、実 のところ、当時の詩壇で主流を占めていた全ての古典的定型詩に向けられたものであると 考えられる。

しかしながら、胡適のこのような考え方には1つの大きな欠陥が存在する。それは、白 話定型詩を作るためには、「言語表現の長い部分を切り取ったり、短い部分を補ったりしな ければならない」という点である。実際、中国の古典詩には、白話をもって創作された優 れたものが既に存在し、胡適自身も白話詩を書いた本格的な詩人として、東晋から南朝の 宋の時代にかけて活躍した陶潜の名を挙げた29。古代中国の白話詩が優れた作品として認 められたのは、これらの詩が白話文字の配列によって詩的リズムが作り出されたためであ り、詩の作者が白話を流暢に操ることができたためでもあると考えられる。つまり、古代 中国の優れた詩人は、白話詩を創作する際、「言語表現の長い部分を切り取ったり、短い部 分を補ったりしなければならない」という欠陥を克服することができていたのである。こ の点からみると、白話を用いて作詩する際、言語表現上では、古典詩の五言七言の定型的 句法には欠点がなく、ただ唯一の表現形式ではないのであると考えられる。

さらに、胡適は「談新詩」(1919)において、中国の定型的句法に対して、「五言七言八 句の律詩は決して豊富な材料を表現することはできず、二十八文字の絶句は決して綿密な 観察を描けず、長短一定の七言、五言は決して深い思想や複雑な感情を婉曲的に表現する ことはできない」30(筆者訳)と強く批判した。つまり、彼は形式と内容の両面から中国 の古典的定型詩を全面的に否定した。その背景には、1917年に始まった文学革命が挙げら れ、胡適と陳独秀らが宣伝した新文学は白話文学である。それ故、胡適が提唱した白話新

詩は、白話文学における創作と実践の突破口となり、そのスタートの第一歩からそれまで の古典文学に反抗する使命を帯びていた。

確かに、清国末期に創作された古典詩の多くは質が低下していまい、胡適が指摘した「理 由もなく深刻ぶる」、「陳腐な常套語」などの欠点がよく見られる31。しかし、謝冕(2005)

が、「中国の古典定型詩において、長い年月を経て蓄えられてきた詩のスタイル、韻律、情 趣、練字、練句などは、既に詩学の精華となった」32と指摘したように、中国の古典的定 型詩には優れた点が存在している。胡適が新詩の提唱にあたって、古典的定型詩を全否定 し、参考しようとはしなかったことから見ると、新詩には詩法が欠けていた可能性がある と考えられる。

3.2.2 「話すように書く」新詩の提唱

1919年の「談新詩」において、胡適は初めて古典詩の固定形式を打破して白話によって 感情などを表現できる新詩の創作活動を呼びかけた33。また、新詩のリズムについて、そ れまでの古典詩の韻律に拘らずに、「語気の自然なリズム」と「文字の自然調和」を提唱し た。その後、1920 年の詩集『嘗試集』の「自序」において、新詩を創作するにあたって、

白話文学の優れた点を表現するために、「従来の桎梏の束縛を打破し、話すように書く」34 ことを提唱した。つまり、胡適は新詩の提唱にあたって、2つのことを試みた。1つは五言 七言の句法を批判し、古典的定型詩の権威を攻撃する。2 つ目は話すように作詩すること を提唱し、詩の言葉の分かりやすさによって詩を平民化させることである。

なぜ胡適は話すように作詩することを提唱し、詩を平民化させようとしたのか。これに ついて、周作人は以下のように述べている。

以前、全ての文は白話を用いて書かれたわけではない。ただ、学識のない一般の平民や労 働者のために、白話を用いたのである。当時の目的は政治改革にあった。全てを古文で書 いたのでは、一般の人は新聞さえ読めないのである35。(筆者訳)

以上の周作人の言葉から、学識のない一般の平民や労働者は文語が分からなく、彼らに 文の内容を理解してもらうために白話を用いたことが分かる。胡適は話すように作詩する ことを鼓吹したのは、「新内容」、「新精神」が載せられていた詩を、知識人だけではなく、

一般の平民や労働者に読んで理解してもらいたいという狙いがあったと考えられる。

新詩の創作について、胡適は、「語気の自然なリズム」、「文字の自然調和」、「話すように 書く」といった新詩法のスタイル面には言及したものの、「新内容」、「新精神」をどのよう に表現すべきかという新詩法の内容面についてはほとんど言及しなかった。それは、文学 革命期に胡適にとって新詩が、古典詩の正統的地位を失墜させる道具であり、「新内容」、

「新精神」を宣伝する道具であったことが挙げられる。それ故、彼は新詩の提唱にあたっ て、文語に基づく古典詩を廃して口語に基づく白話新詩の創作を推進することに重点を置 き、新詩を如何に創作するより、新詩を如何に一般の平民や労働者に理解できる言葉に変 え、それによって社会を変革できる「新内容」、「新精神」を宣伝するかに力を入れたと考 えられる。

当時、新詩を書く有名な作家である梁宗岱(1903-1983)は、胡適が提唱した新詩の創作 方法について、以下のように述べている。

所謂「話すように書く」という主張は、旧詩に反しているだけでなく、詩そのものに反し ていることとなる。これは、旧詩そのものと旧詩の形式を刷新・排除するだけでなく、全 て純粋な詩の真髄を無視しているのである36。(筆者訳)

梁宗岱はこのように、胡適が提唱した「話すように書く」という新詩の創作方法は、中 国の古典詩、さらに詩そのものの「真髄」を無視していると強く批判した。確かに、詩人 らにとって、古典詩と新詩は必ずしも対立するものではなかったのである。しかし胡適が、

新詩に対して提出した「語気の自然なリズム」、「文字の自然調和」、「話すように書く」と いった創作方法は、中国の古典的定型詩のスタイルを全面的に否定することを意味するだ けでなく、文学ジャンルとしての詩のスタイルまでも放棄することを意味していたと捉え られたのである。このように、詩の長い伝統を持つ中国では、新詩の確立は殊に難しかっ た。また、新詩が詩壇に登場した際にはすでに詩法の形式から内容まで試行錯誤が行われ ていたと言えるのではないだろうか。

4.新詩の創作

先述のように、1910年代後半、胡適は白話新詩の創作を呼びかけた。以後、文壇では白 話新詩運動が『新青年』を中心に展開され、1917年『新青年』第2巻6号に胡適の「白話