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周作人の俳句観

第 3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳

4.1 周作人の俳句観

周作人による俳句の翻訳がどのように行われていたかを考察する前に、まず彼がどのよ うな俳句観を持っていたのかについて考えてみたい。

既に述べたように、俳句を最初に中国語に翻訳した人は周作人であり、1921年、彼は「日

本的詩歌」を発表し、俳句を中国語に翻訳し始めた。その10年前の1911年、周作人は日 本から帰国し、1917年までの7年間、浙江省立第五中学の英語教員を務めたが、その際、

中学生徒有志の団体「叒社」の名誉社員に選ばれた。1916年6月、彼は『叒社叢刊』第3 期において「日本之俳句」を発表し、初めて俳句を中国に紹介するにあたり、以下のよう に語っている。

私は日本の俳句を観るたびに、ますますその簡潔微妙なところ、ほとんど墨を着けられな いことを実感する。その体裁は和歌から生まれたが、十七字に区切られ、五七を句とする。

寥々たる数言は情を寄せ、意を写し、悠然として尽きぬ味がある。中国の絶句と似ている が、絶句より含蓄がある36。(筆者訳)

このように、周作人は俳句の「ほとんど墨を着けられぬ」ことや、「悠然として尽きぬ味 がある」ことに重点を置いていたことが分かる。また、彼は初めて俳句を中国に紹介する にあたり、絶句を取り上げて俳句と比較し、俳句は絶句より「含蓄がある」と判断してい た。この後、絶句との比較は、周作人における俳句紹介・翻訳のスタンダードとなり、「日 本的詩歌」(1921)や「日本的小詩」(1923)の中でも、それぞれ絶句を取り上げて俳句と 比較しながら、俳句の特徴を紹介したのである。

ここで、周作人がなぜ中国詩歌の1つのジャンルとしての絶句を選んで俳句と比較した のかについて考えてみたい。周知のように、新詩が文壇に登場するようになるまでの中国 の詩壇では、絶句と律詩が主流を占めていた。絶句と律詩は、唐代に確立された詩の形式 で、それぞれ四句と八句から成され、詩の中で起承転結、押韻、平仄といった規則が貫か れている37。両者は、作詩構造の面では、共に中国古典詩の押韻、平仄といった基本的な 技法などが要求されるが、テクストの構成の面では、絶句は律詩より短い。また、絶句の 詩型について、松浦友久(1984)は、「中国古典詩の独立した詩型のなかでは、『五言絶句』

が最短のものである」38と指摘している。こういった特徴から、周作人は絶句を中国古典 詩の中で最短の詩歌であると考え、日本において最短の詩型を持つ俳句と比較することを 選択したのではないかと考えられる。

周作人は、「日本的小詩」(1923)の中で、絶句と比較しながら、日本詩歌の中から俳句 を選んで翻訳した理由について、以下のように述べている。

古代ギリシアの詩には二行詩があり、中国の絶句も二十字しかないが、日本の俳句のよう な短いものは見当たらない。また、他国の詩は短小なだけで簡潔に省略されたものではな い。そればかりでなく、日本の俳句は特有の助詞を使い、わずか数語で文法上からみると 完全な句とはならないものでも言外に意味をもたせており、これこそ俳句の特色である39

(筆者訳)

ここからも分かるように、周作人は俳句について、絶句と対比しながら、テクストの構 成の面では、俳句は絶句よりさらに短く、作詩構造の面では、絶句は「短小なだけで簡潔 に省略されたものではない」と指摘した。その一方で、俳句は「言外に意味を持たせ」る ことこそが特色であると述べている。つまり、周作人は余韻を残すという俳句の詩法に強 い関心を持ち、また中国には俳句に相当する短詩はないと考え、俳句を広く人々に知って もらい、その優れた点を理解し、自らの新たな詩の創作へと結びつけるために翻訳を行っ たと考えられる。

また、周作人は「日本的詩歌」(1921)において、実例をあげて中国と日本の詩歌を比較 し、そのうちの絶句と俳句との違いについて次のように述べている。

日本詩と中国詩を比較すると、相違点が多く、共通点が少ないというべきである。それは、

詩の形式によるものが原因だと言える。第一、日本の詩歌は一二行にすぎず、種々の韻を 踏んでいる長篇がなく、全体的な物事を述べることができない。それゆえ、長恨歌のよう な詩は日本には見当たらない。しかし、日本の詩歌は叙事には向いていないが、ある場所 の景色、一時の情緒を表現するのには向いている。第二、一首の詩歌の中で用いられる字 が少ないため、詩歌では簡潔さ・精練さを求め、長恨歌のように「鴛鴦瓦冷霜華重、翡翠 衾寒誰與共(鴛鴦の瓦冷やにして霜華重く、翡翠の衾寒くして誰と共にせん)」というよう な典故詞藻を差し挟む余地がない。絶句の「孤舟蓑笠翁、独釣寒江雪(孤舟蓑笠の翁、独 り釣る寒江の雪)」はほぼ冬を詠じる俳句に似ているが、孤・独という字が連続して用いら れていることで、言い尽くしたきらいがある40。(筆者訳)

ここで周作人は、中国古典詩の著名な詩人である白居易の長篇叙事詩「長恨歌」を具体 例として挙げて、日本の詩歌と比較している。そして、彼は日本詩歌は中国詩歌より短い ため、簡潔さ・精練さを求め、叙事には向いていないと結論づけている。また、柳宗元の

有名な絶句「江雪」を挙げて、その中の「孤舟蓑笠翁、独釣寒江雪(孤舟蓑笠の翁、独り 釣る寒江の雪)」という2句は冬を詠じる俳句に似ていると指摘した。ただ、そこには俳句 との相違点も見られる。つまり、詩の中には同じ役割を果たした漢字「孤」と「独」が共 に用いられることによって、「言い尽くしたきらいがある」ということである。このように、

周作人は日中両国の詩歌の相違は主に詩型によるものが原因だと考え、日本の詩歌、さら に言えば、俳句の中から日本独特の詩の特徴を見出したのである。つまり、「叙事には向い ていないが、ある場所の景色、一時の情緒を表現するのには向いている」ことと、「簡潔さ・

洗練さを求めている」ことである。

さらに、周作人は「日本的詩歌」(1921)の文末では、俳句と中国の新詩との関係につい て以下のように述べている。

日本では、俳句は旧詩であって特別な制限があり、中国では本来、それをそのまま真似し て創作してはいけない。しかし、新詩はこのような含蓄のある一二行の詩形を一つの詩の スタイルとして借用することで、詩の中に奇妙な詩思を表現するのに役に立たないとは限 らないだろう41。(筆者訳)

このように、周作人は俳句が日本の旧詩であるものの、中国の新詩にとって参考する価 値があると述べ、新詩は俳句の短詩形を借りて、「奇妙な詩思を表現する」可能性があると 述べている。彼がこのような可能性を表明した背景として、当時の中国新詩の置かれた状 況が挙げられる。第2章で述べたように、1910年代後半に「文学革命」が起こり、新詩が 詩壇に登場した。しかし、胡適によって提唱された新詩の詩法は、形式から内容に至るま で十分に構築されてはいなかった。そのため、新詩の多くは、質が低く鑑賞に堪えうるも のではなかった。20世紀20年代初頭になると、新詩壇は落ち込み、停滞した。呉紅華(2005)

は、「中国新詩の発展を長期的視野で見守っているのは、周氏兄弟と一部の人だけ」42と指 摘しているように、周作人は新詩の発展を願っていた。そこで、彼は多くの新詩を創作す るとともに、日本の詩歌にも注目し、俳句から中国新詩に参考できる詩法を見出そうとし たと考えられる。そして、形式の面では一二行という短詩形で簡潔さを求めること、内容 の面では「ある場所の景色、一時の情緒」を表現することという新詩に援用可能な俳句の 特徴を見出したのであった。その後、周作人は俳句を中国語に翻訳し始めたのであるが、

以上のことを考え合わせると、その主な目的は、停滞する新詩の創作水準を向上させると

ころにあったと言えよう。