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周作人による翻訳された俳句の全体像

第 3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳

4.2 周作人による翻訳された俳句の全体像

ころにあったと言えよう。

表5.周作人が翻訳した俳句の原作者ごとの句数の一覧表

出典:「日本的詩歌」(1921)、「一茶的詩」(1921)、「俺的春天」(1923)、「日本的小詩」(1923)、

「蒼蠅」(1924)により筆者作成。

表5に示した通り、小林一茶以外の俳人では、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規を除いて ほぼ1回前後と均衡して分散している。さまざまな俳人の作品をバランスよく取り入れて 紹介したいという周作人の意図も窺える。

また表5から、小林一茶の俳句が延べ81句のうち53句を占めており、全体の65%を占 めていることが分かる。なぜ周作人が特に一茶の句を取り上げたのか、その理由について ここで考えてみたい。

まず、周作人が1916年の段階で既に「俳句は芭蕉と蕪村の時期が最盛期である。ただ、

私は一茶の句が特に好きなのだ」43と述べ、松尾芭蕉や与謝蕪村より小林一茶の句に強い 関心を示していた。さらに、一茶の句の表現上の特徴について、1921年の「日本的詩歌」、

「一茶的詩」では、以下のように述べている。

一茶は俗語を上手に使いこなし、俳諧的手段で真摯に情を描いている。それゆえ、彼の俳 句は非常に巧妙であり、人情味に溢れ、他人は及ばないところがある44。(筆者訳)

一茶は詩を作る際、良い句を作ること、さらに句を作ることさえ考えていない。(中略)彼 の「発句帳」からみると、一見して技巧が設定されたように見えるが、これは精々自分の 感想を表現するための苦心の技であり、句には美詞で句を飾るところは見られない45。(筆 者訳)

このように、周作人は一茶について、「俗語を上手に使いこなし」、他人は一茶には及ば ないところがあると述べ、彼の句に「美詞」がなく、修辞技巧が入っていないことが特徴 的であると考えていた。実際、島津彰(2015)は、「一茶の詠んだ俳句の数は約二万句余り で、芭蕉の約千句、蕪村の約三千句と比べると比較にならない多作であった」46と指摘し、

原作者 句数 原作者 句数 原作者 句数 原作者 句数 小林一茶 53 松尾芭蕉 7 正岡子規 4 与謝蕪村 4 山崎宗鑑 2 松永貞徳 2 雲桂楼 1 寒山 1 八重桜 1 高井几董 1 服部嵐雪 1 大島蓼太 1 加賀千代女 1 河東碧梧桐 1 西山宗因 1

「一茶の俳句は江戸期の他の俳人と比較しても、孤高の地位を占めている」47と高く評価 している。また、田中(1957)は、一茶の句と芭蕉や蕪村の句を比較し、「一茶俳諧は両者 よりも近世的であり俳諧的である」と述べ、そのため、「俳諧の源流的意義たる『をかし』

を表現特質」としている一茶の句は「芸術的に稍々劣る一茶的通俗性」を持っていると指 摘している48。これらから、周作人の俳人としての一茶や一茶の俳句についての見解は、

いずれも的に射たものであると思われる。

それでは、なぜ周作人が一茶の句に深い関心を寄せたのか。その背景にも、新詩との関 わりを見出すことができる。1910年代後半になると、文壇では多くの新詩が創作されたが、

新詩の質に対して、周作人は「口語詩の本当の長所」を示した作品がないと指摘した49。 一方、彼は一茶が「俗語を上手に使いこなし」、句には「美詞で句を飾るところは見られな い」ため、「真摯に情を描」き、「非常に巧妙」であると考えていた。つまり、句に使われ ている言葉の面では、周作人は一茶の句について、「口語詩の本当の長所」を示した作品で あると考えていたことが分かる。そのような点を踏まえると、周作人は、新詩の質を向上 させるためにに参考としうる要素を発見できるものとして、一茶の句に深い関心を寄せた のではないかと考えられる。

また、上記の周作人の文面で特に注目すべきは、一茶の俳句について、周作人は「人情 味」に溢れていると評価した点である。実際、「日本的詩歌」(1921)だけではなく、「一茶 的詩」(1921)の中でも、周作人は「人情味」という言葉を使って一茶の俳句の特徴につい て以下のように述べている。

一茶の句は、松尾芭蕉の閑寂の禅味から離れ、まるで松永貞徳の洒落に戻ったかのようで ある。しかし、彼らと根本的に異なるのは、一茶の句が人情的で、彼のユーモアに熱い涙 が含まれているということである。強大な勢力への反抗、微弱のものへの同情は、まさに 彼の人情味の表れである50。(筆者訳)

このように、周作人は一茶の句に「人情味」が溢れ、強い勢力への反抗、弱いものへの 同情が特徴的であると考えていた。周知のように、一茶は3歳で母を失い、8歳で継母を 迎えたが継母と不和で、15歳の頃江戸に修業に出た。しかし、江戸に出た一茶は、あちこ ちの奉公先を転々として、苦しい生活を送った。さらに、一茶は3人の妻から3男1女を もうけたが、いずれも幼くして亡くなしてしまった。一茶の生涯は不幸の連続だと言え、

幼年期からの家庭的な不幸が彼の句作に多大な影響を与えたに違いない。一茶の句には子 供や小動物に対する愛情を詠んだものが多い51。島津彰(2015)の統計によると、一茶は 子供のほか、生き物に関する句も詠んでおり、なかには雁(375句)、蝶(362句)が多い。

また、句のなかに詠まれた対象について、「他の俳人があまり詠まなかったハエ、虱、蚤な ど小動物も対象であった」52ため、周作人が翻訳した一茶の俳句の中には、一般的に中国 人に疎まれ、文学に取り上げられもしなかった蠅や蚤などを詠んだ句が多くある53。周作 人は、世間から軽蔑され、如何に小さい存在であっても、自己主張をしつつ現実を生きて いる小動物に対する一茶の描写を「人情味の表れ」と述べている。

1925年、周作人は「日本的人情美」を発表し、その中でも日本の国民性について論述し ている。その中で、彼は芳賀矢一の『国民性十論』に列挙された日本国民の特性を「一 忠 君愛國」とするのは、適当ではないと説き、日本人の国民の長所は「人情に富む」ところ にあると述べている54。周作人の兄の魯迅は、「狂人日記」(1918)の中で、「礼教」(儒教 的封建)が「人を食う」という封建倫理道徳の非人間性を暴き出し、そこから人間を解放 しようと呼びかけた。李冬木(2012)は、「『狂人日記』が読者に衝撃をもたらしたのは、

なによりその『食人』(中国語原語は『吃人』)イメージの創出である」55と指摘したよう に、周作人も「中国人は人食い民族である」56ことに衝撃を受けたに違いない。周作人自 身も国民性の研究を行い、文芸を通じて中国国民の精神を改造したいという思いを抱いて おり、そのため、芳賀矢一の『国民性十論』に深い影響を受けていたことは先述した。周 作人は、「日本的人情美」(1925)において、日本人の長所として芳賀矢一が列挙した「草 木を愛し、自然を喜ぶ」、「淡泊瀟洒」、「繊麗繊巧」に「人情に富む」という項目を追加し た。これは、彼が小動物と享楽を共にする一茶の「人情味」に注目したことと深く関係し ていると考えられる。周作人は一茶の句に溢れた「人情味」というものを、魯迅が指摘し た「人食い民族」の中国人に最も欠如しているものであり、中国国民の精神を改造するの に最も必要とされるものであると捉え直し、一茶の句を紹介することを通じ、実は日本の 国民性の長所を紹介し、中国の国民性の改造に役立たせようとしたのではないだろうか。

さらに、呉紅華(2005)は「周作人が求めたものは常に伝統批判を根底にもつ『人の文 学』であり、『平民の文学』であった」57と指摘したように、周作人が一茶の俳句を量的に 多く翻訳したのは、彼の文学観「人の文学」とも深く関わっていると考えられる。既に述 べたように、1918年に周作人は「人の文学」を提唱した。その中で、彼は「人の文学」を 築き上げるのに、まず人間の本質に対する理解が必要であると指摘し、人間と動物との関

係について、「われわれ人間は一種の生き物であり、その生活現象は他の動物と何も変わっ ていないことを認める。そのため、われわれ人間の全ての生活本能は、美であり善であっ て、完全に充足されねばならない。人間の天性に反する習慣・制度を全て排斥すべきであ る」58と述べている。つまり、生活本能の面では、人間は動物と同じく生存の主張をしつ つ現実を生きている生き物であると周作人は考えていた。

一方、田中(1957)は、一茶の俳句の特徴について、一茶の句は「芭蕉や蕪村の句と比 較して遥かに人間的である」59と述べ、それは、彼が自身を取り巻く一切の現象や事件を すべて自己とに関連づけているからであると指摘している60。また、津田(1964)は、「一 茶にとってはあらゆる動物はみな人間と同じものであるのみならず、彼の親しい友であり、

兄弟であり、むしろ彼自身である」61と述べている。さらに、周作人も「一茶的詩」(1921)

において、一茶の動物に対する態度について、「一茶は動物、植物、さらにそれ以外の無生 物、森羅万象を自分の友達と見た。それは通常の所謂風月だけでなく、万物を人間として 扱い、親友の意を表している」62と評した。確かに、一茶の詠んだ俳句をみると、弱さを もった動物が生への追求の姿をリアルに表現し、小動物を自分自身に置き換える、人情味 溢れる句が多い。一茶のこのような小動物を通して描き出された人情味溢れる人間像は、

周作人が提唱した「人の文学」の「人間」の本質と通底するものがある。

このように、周作人が俳句の翻訳において、特に一茶の句を最も多く取り上げたことは、

その当時の新詩の質の向上をはかり、日本の国民性の長所を中国に紹介することに益する と考えられたばかりではなく、彼の文学観である「人の文学」と通底するところが多くか ったことと深く関係していると考えられる。