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政治小説からはじまった日本近代文学の翻訳

第 3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳

2.1 政治小説からはじまった日本近代文学の翻訳

アヘン戦争以来、中国は次第に半植民地に転落し、中国民衆は亡国の危機に直面した。

日清戦争の敗北により、多くの中国人が日本に目を向け、日本の新しい教育や思想を求め て日本に留学するようになった。譚・小川(1980)によると、この時日本語で書かれた作品 の翻訳が盛んに行われ、中国で最初の日本書籍の翻訳ブームが起きた。つまり、中国にお ける日本書籍の翻訳ブームは国家存亡の危機を打開する一連の試みの中で起こった。

中国における日本文学の翻訳は、日本に亡命した梁啓超が東海散士の『佳人之奇偶』

(1898)という政治小説を翻訳したことから始まった。その後、梁啓超は矢野龍渓の『経 国美談』(1899)を翻訳し、1902 年に中国最初の小説専門誌『新小説』を創刊した。梁啓 超はその創刊号で「論小説与群治之関係」(「小説と群治との関係を論ず」)という文章を発 表し、その中で、「一国の民衆を新しくするためには、まずその国の小説を新しくしなけれ ばならない」3と述べ、小説の思想啓蒙的役割の重要性を強調し、政治小説の翻訳を勧めた。

それを受け、徳富健次郎『歴史の片影』(1902)や東洋奇人『世界列国の行末』(1903)な ど、特に政治小説の翻訳が盛んに行われることになった。このことについて、康東元(2004)

は、日本の政治小説の翻訳は、中国近代文学の転換に重要な役割を果たした」4と指摘して いる。即ち、当時政治小説の翻訳が盛んに行われたのは、梁啓超のような当時中国が置か れていた状況を打開したいと考えていた知識人らが、小説の通俗性を通して、自らの社会 を変えていくために、必要な西洋や日本の思想や知識を多くの人々に伝え、啓蒙するため には翻訳が不可欠とみなしていたためであった。このような梁啓超らと同様の志向を周作 人がもっていたことは以下の事例からも明らかである。

1918年4月19日、周作人は北京大学文科研究所小説研究会で「日本近三十年小説之発 達」というテーマで講演を行い、政治小説だけでなく、坪内逍遥の『小説神髄』、『当世書 生気質』、二葉亭四迷の『浮雲』、『其面影』、『平凡』、また、国木田独歩、鳥崎藤村、田山 花袋を代表とする自然主義の小説、夏目漱石、森鴎外を代表とする反自然主義の文学、永 井荷風、谷崎潤一郎を代表とする耽美派の文学など、幅広い範囲の日本文学を紹介した。

さらに講演の中で、彼は当時の文壇において、小説が発達していない理由を創作と翻訳の 両面から分析した。そして、翻訳面の理由として、彼は世界名著が殆ど翻訳されていない ためであると指摘し、外国の著作を翻訳・研究することを呼びかけた 5。その後、彼は日

本小説の翻訳に力を入れ、1923 年6 月に周作人編『現代日本小説集』6を上海商務印書館 から出版した。

このような周作人の翻訳活動について、永田小絵(2007)は、20世紀初頭の中国翻訳史 における小説翻訳の中で、「周樹人(魯迅)、周作人兄弟の翻訳への貢献は非常に大きい」

と指摘し、「翻訳小説は、中国人がそれまで抱いていた小説への軽視を一変させ、中国文学 が外国文学に学ぶ窓口ともなった」と述べている7。つまり、周作人による小説の翻訳は、

当時の文壇に新たな息吹きを与え、文学革命の重要な一環をなしていたと言える。

さらにこの時期の中国において、小説の翻訳に続き、脚本、散文などさまざまなジャン ルの翻訳が活発に行われるようになった。その一方で、日本古典文学の翻訳はほとんど行 われていなかった。その理由について、周作人は1921年に「翻訳文学の討論」において以 下のように述べている。

陳、胡氏等が古典主義の著作を翻訳することを主張しているのは、確かに理にかなってい る。しかし、今の中国では、そこまでする必要はないと思う。(中略)人情はどうも復古 に傾いているところがあるため、近代の作品を十年間翻訳すれば、社会に多少影響を与え ることができるが、『神曲』の翻訳が出て、人々に古代に対する羡望の念を抱かせるには 遠く及ばない。中国の特殊な状況(盲従しやすく、古代的なものが好まれ、客観性に欠け る)の下では、古典の翻訳は後回しにした方がいい。古典を読んで自分に役に立つ人は、

おそらく外国語の原文を読めるだろう。しかも今の中国では、人材が不足、近代の作品を 翻訳するのにまだ足りないのに、どうしてそういうことをする余裕があるのだろう8。(筆 者訳)

また、1929 年に謝六逸(1898-1945)は当時の日本古典文学の翻訳について、自著であ る『日本文学史』の「序」において以下のように述べている。

時代は絶えず進化している。日本の古典文学作品に対して、我々は紹介する時間がない。

ところが、近代文学作品を中国に紹介することによって、参考とする価値のあるものは確 かに多くある9。(筆者訳)

以上の周作人と謝六逸のことばから、当時の文学翻訳において、大事なのは外国文学の

発表年 タイトル 掲載誌 作品

「日本俗歌五首」 『晨報副鐫』1921.6.29 江戸の俗謡

「日本俗歌八首」 『晨報副鐫』1921.10.23 江戸の俗謡

「俗歌四十首」 『詩』第1巻第2号 1922.2.20 江戸の俗謡

「俗歌二十首」 『努力週報』第20期 1922.9.17 江戸の俗謡

「俺的春天」 『晨報副鐫』1923.2.14 『自己的園地』、『知堂文集』に収録 俳句

「日本的小詩」 『晨報副鐫』1923.4.3 『芸術与生活』に収録 俳句

「日本的讽刺诗」 『談龍集』に収録 1923.5.26 川柳 1924 「蒼蠅」 『 晨 報 副 鐫 』1924.7.13 『 雨 天 的 書 』 、 『 澤 泻 集 』 、 『知 堂文

集』に収録 俳句

「『古事記』中的恋愛故事」 『語絲』第9期 『陀螺』に収録 『古事記』

「『徒然草』抄」 『語絲』第22期 『徒然草』

「漢訳『古事記』神代巻」 『語絲』第65・67・69・70・78期 『古事記』

『狂言十番』 『狂言十番』北新書局  狂言

1925 1926

『小説月報』第12巻第5号1921.5.10

1923 1921

「日本的詩歌」 俳句、和歌

1922

翻訳によって中国の文学を刷新することであり、古典文学の翻訳は、近代文学の翻訳より さらに人材や時間を必要とするほか、当時の国民には古代的なものが好まれるという傾向 があったため、後回しにした方がいいと考えていたことが分かる。つまり、当時、日本古 典文学の翻訳がほとんど行われなかった背景には、近代文学の翻訳が国民を啓蒙するため の近道と期待された一方で、古典文学の翻訳に必要な人材や時間が足りなかったことがあ ると考えられる。この点からみると、当時の中国における日本文学の翻訳が中国における 社会情勢と強く結び付いていたと言える。

2.2 1920年代における周作人の日本古典文学の翻訳

周作人が本格的に日本の古典文学を翻訳し始めたのは、1920 年代に入ってからである。

1920年代の中国における日本古典文学の翻訳について、潘秀蓉(2010)は、「1920年代の 中国における日本文学の翻訳と紹介は全盛期に入ったと言っても、日本古典文学に注意を 払い、翻訳を手掛けたのは、周作人のみであった」10と述べている。当時、新文化運動を 契機として、魯迅、周作人、郭沫若(1892-1978)など多くの日本留学経験者は日本文学の 翻訳に力を注いだ。しかし、管見の限りでは、当時、周作人の翻訳を除けば、ほかの翻訳 者による日本文学翻訳の対象は基本的に現代文学であった。以下、鐘叔河編『周作人散文 全集』(2009)、張菊香・張鉄栄編『周作人年譜』(2000)に基づき、1920 年代に周作人に よって翻訳された日本古典文学の作品を表3にまとめる。

表3.1920年代における周作人の日本古典文学の翻訳作品一覧表

出典:『小説月報』上海商務印書館、『詩』中華書局、『努力週報』国立北京大学出版部、『談龍 集』開明書店、『晨報副鐫』晨報社、『語絲』北新書局、『狂言十番』北新書局により筆者作成。

表3で示した通り、1920年代、周作人がいち早く中国に翻訳した日本古典文学は、俳句、

和歌であった。実際、周作人は、1916年の段階で既に「日本之俳句」を発表し、その中で 小泉八雲(1850-1904)の『日本雑記』の詩論を引用し、俳句の歴史的展開を中国に紹介し た。5年後の1921年5月10日に彼は「日本的詩歌」において、俳句、川柳の特徴と和歌 の歴史について詳しく紹介するとともに、初めて俳句を13句、和歌を11首訳出した。

また表3から、1920年代の周作人による日本古典文学の翻訳は、1921年から1926年に 集中していることが分かる。その中でも、1921年から1924 年にかけて、彼は俳句と江戸 の俗謡を、それぞれ5回と4回にわたって紹介・翻訳し、日本の庶民文学に強い関心を示 していたことが分かる。この時期の周作人の翻訳活動は、文学革命期における彼の「平民 文学」の提唱、及び文壇の新詩運動と深く関わっていると考えられる。1925 年から 1926 年にかけて、周作人は俳句と江戸の俗謡の翻訳をやめ、『古事記』、『徒然草』、狂言を翻訳 し始めている。ここから、彼の文学翻訳における思想転換の兆しが窺える。

3.周作人における俳句翻訳の背景と目的

上述したように、周作人は1916年に「日本之俳句」を発表し、初めて俳句の歴史的展開 を中国に紹介したものの、俳句の翻訳そのものについては、手を付けようとはしなかった。

しかし、5年後の1921年には「日本的詩歌」を発表し、本格的に俳句を中国語に翻訳し始 めた。なぜ突如として周作人は俳句を翻訳するようになったのだろうか。そこには、訳者 である周作人の意図が隠されていると考えられる。ここでは、周作人はどのような動機か ら俳句を翻訳し始めたのかを考察したい。