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俳句の翻訳から小詩の誕生へ

ドキュメント内 中国における俳句の受容と展開に関する研究 (ページ 102-107)

第 3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳

4.3 俳句の翻訳から小詩の誕生へ

係について、「われわれ人間は一種の生き物であり、その生活現象は他の動物と何も変わっ ていないことを認める。そのため、われわれ人間の全ての生活本能は、美であり善であっ て、完全に充足されねばならない。人間の天性に反する習慣・制度を全て排斥すべきであ る」58と述べている。つまり、生活本能の面では、人間は動物と同じく生存の主張をしつ つ現実を生きている生き物であると周作人は考えていた。

一方、田中(1957)は、一茶の俳句の特徴について、一茶の句は「芭蕉や蕪村の句と比 較して遥かに人間的である」59と述べ、それは、彼が自身を取り巻く一切の現象や事件を すべて自己とに関連づけているからであると指摘している60。また、津田(1964)は、「一 茶にとってはあらゆる動物はみな人間と同じものであるのみならず、彼の親しい友であり、

兄弟であり、むしろ彼自身である」61と述べている。さらに、周作人も「一茶的詩」(1921)

において、一茶の動物に対する態度について、「一茶は動物、植物、さらにそれ以外の無生 物、森羅万象を自分の友達と見た。それは通常の所謂風月だけでなく、万物を人間として 扱い、親友の意を表している」62と評した。確かに、一茶の詠んだ俳句をみると、弱さを もった動物が生への追求の姿をリアルに表現し、小動物を自分自身に置き換える、人情味 溢れる句が多い。一茶のこのような小動物を通して描き出された人情味溢れる人間像は、

周作人が提唱した「人の文学」の「人間」の本質と通底するものがある。

このように、周作人が俳句の翻訳において、特に一茶の句を最も多く取り上げたことは、

その当時の新詩の質の向上をはかり、日本の国民性の長所を中国に紹介することに益する と考えられたばかりではなく、彼の文学観である「人の文学」と通底するところが多くか ったことと深く関係していると考えられる。

ようなものがあるのだろうか。以下の表6はその一覧である。ここでは、この表6に示さ れる周作人の論稿に基づき、俳句の翻訳と小詩の誕生とがどのように関わっているのかを 考察していきたい。

表6.周作人による俳句と小詩に関する論稿(掲載順)

発表年月 題目 掲載先 主な内容

1916年5月 「日本之俳句」 『叒社叢刊』3期 俳句の紹介 1921年5月 「日本的詩歌」 『小説月報』12巻5号 俳句の紹介・翻訳 1921年11月 「一茶的詩」 『小説月報』12巻11号 俳句の紹介・翻訳 1922年6月 「論小詩」 『晨報副鐫』21、22日 小詩の構想 1923年2月 「俺的春天」 『晨報副鐫』14日 俳句の紹介・翻訳 1923年4月 「日本的小詩」 『晨報副鐫』3日 俳句の紹介・翻訳  1924年7月 「蒼蠅」 『晨報副鐫』13日 小詩の構想・俳句の翻訳

出典:『叒社叢刊』叒社、『小説月報』上海商務印書館、『晨報副鐫』晨報社により筆者作成。

4.3.1 俳句における新詩に参考としうる要素の発見

周作人は1923年に発表した「日本的小詩」において、「俳句的小詩(俳句のような小詩)」 について以下のように述べている。

俳句のような小詩は刹那的な印象を表現するのに適し、これこそ現代人の一種の需要であ る。その影響は形式のみに及び、閑寂の精神が必ず表現される必要がなく、十七字などの ルールに拘る必要もない。中国で最近流行っている小詩は良い成績を収めたとは言えない が、続けて試作してみてもよい。我々はもう絶句を作ることに興味を持たなくなり、この ような俳句的小詩はちょうどその穴を埋め、刹那的な感興を表現するのに適している 63

(筆者訳)

この発言から、周作人は絶句のような古典詩にまったく興味を失い、その代わりに俳句 に関心を示していたことが窺える。彼が特に俳句に興味を持ったのは、俳句の「刹那的な 印象を表現する」部分に共鳴したからであろう。その理由として、中国の古典詩には叙事 詩が多く、しかも長いものが多いことが挙げられるのではないだろうか。さらに、周作人 は、「刹那的な印象を表現する」俳句は、質の低下した新詩にとって参考にする価値がある

と考え、「俳句的小詩(俳句のような小詩)」の創作を呼びかけた。ここから、周作人によ る俳句の翻訳が彼の小詩の構想と深く関わっていることが分かる。そこで、どのような過 程を経て周作人の小詩の構想が出来上がったのか、彼による小詩の構想と俳句の翻訳との 関わりを検証したい。

4.3.2 新たな詩の構想と俳句の翻訳

前述したように、周作人は、1916年に「日本之俳句」において、その歴史的展開を説明 するなど、俳句を中国に紹介したものの、俳句の翻訳そのものについては、当初手を付け ようとはしなかった。しかし、5年後の1921年には「日本的詩歌」を発表し、俳句を中国 語に翻訳し始め、1924までの4年間次々と翻訳した。このような経緯の背景についてここ で少し考えてみたい。まず、周作人自身は1916年の段階で俳句の翻訳について以下のよう に述べている。

俳句の翻訳は百回試してみても不可能だ。同じ言葉で表現されていても、詩としての境地 は遥かに異なっている。鳩摩羅什曰く、「翻訳とはご飯を噛み砕いてから人に食べさせる ようなことだ」まさにその通りだ。故にその翻訳をやめるしかない64。(筆者訳)

このような周作人の言葉から、俳句の翻訳を本格的に始める前に、既に試したものの十 分な成果を挙げることができなかったことが窺える。「同じ言葉で表現されていても、詩と しての境地は遥かに異なっている」と述べていることから分かるように、彼は中国語では 俳句の境地をうまく表現できないと考えていた。しかし、なぜ「百回試しても不可能」と 思った俳句の翻訳に挑戦する気になったのだろうか。

周作人は「日本之俳句」(1916)を発表した2年後、「古詩今譯」(1918)において初めて 新詩の質の向上を念頭において、新しい詩の構想に言及した。彼は、この自身最初の口語 論稿で、外国詩歌の翻訳の方法を紹介し、口語で詩を翻訳する方法を、以下のように述べ ている。

口語で詩を作る際、五七言を使ってはならず、押韻する必要はない。呼吸の長短に従っ て句を作ればよい。現在翻訳している詩歌は、この方法で試みている。これが私の所謂

「自由詩」だ65。(筆者訳)

ここから分かるように、周作人は、詩の翻訳を口語詩の創作と同じ方法で試みることが できるものであると捉えていた。彼は、口語詩の創作は「五七言を使ってはならず」、「押 韻する必要はない」と述べ、押韻や平仄に拘らない「自由詩」という方法を提唱した。つ まり、周作人は口語で綴る散文体という新しい詩の構想を翻訳において実践しようとして いたことが分かる。

また、周作人は「一茶的詩」(1921)において、具体的な翻訳方法について、小泉八雲に よる俳句や川柳の翻訳方法を紹介している。それは、「まずローマ字表記の原詩を載せ、次 に散文でその大意を訳し添える」66という方法であった。彼は、この翻訳方法を「韻律と 意味を並列し、最も完璧な方法だ」67と絶賛していた。

他方、韻律面で俳句の特徴については、「日本的詩歌」(1921)の中で、周作人は日中両 国の言語の相違点について、以下のように述べている。

日本語はもともと複合音節の言語で、仮名で書き、一字一音と決められ、子音と母音から なる。連続して読むと質朴で調和が出てくる。各字は母音で終わり、音には長短の区別が なく、それゆえ押韻や平仄のルールがない。ただ自然のリズムに従い、二三及び三四の二 種類の字音が並べられると詩歌としての形態が整ってくる68。(筆者訳)

周作人が指摘した韻律面での俳句の特徴は、押韻や平仄に拘らず、自然のリズムに従っ て言葉が並べられるという点であった。この点は、胡適が提唱した新詩のリズムへの考え 方、そして、周作人の新しい詩の構想とも相通ずるものであった69。つまり、周作人の示 す俳句の特徴は、いずれも新詩にも通底するものであり、彼が新詩を継承しつつその欠点 を克服するべく構想していた新たな詩の創作において、その文体、韻律面ともに参考にし ていた可能性が高い。

それでは、周作人による俳句の翻訳とは具体的にどのようなものだったのだろうか。

・痩蛙まけるな一茶是に有 (小林一茶)

痩的蛤蟆,不要敗退,一茶在這里。 (「日本的詩歌」)

・我と来て遊べや親のない雀 (小林一茶)

和我来游戏罢,没有母亲的雀儿! (「一茶的詩」)

・四五人に月落ちかかるをどりかな (与謝蕪村)

四五人的上头月将落下的跳舞呵。 (「日本的小詩」)

上記は、小林一茶、与謝蕪村の代表的な俳句と周作人による翻訳である。いずれも押韻 や平仄に拘らず、散文形式の口語を用いている。1921年から1924年までの4年間、同様 の形式で88句に及ぶ俳句の翻訳を行っており、そして、このような特徴は、上述した彼の 新しい詩の構想と一致しているものであった。

4.3.3 「論小詩」の発表

俳句を本格的に中国語に翻訳し始めた1年後の1922年に、周作人は「論小詩」を発表し た。これはそれまで温めてきた新しい詩の構想に小詩という名称を与え、具現化するもの であった。その中で小詩とはどういうものかについて、次のように述べている。

小詩とは1行から4行までの新詩だ。(中略)我々の日常生活の中に、これほど切実でなく ても常にリアルな感情が溢れている。それは突然湧きあがり、また突然消えていく、長く とどまることができず、文芸の精華となった。こうした感情は瞬間的に変化する気持ちの 動きを表現することができ、ある意味でこれこそ我々の真の生活だと言えよう。この慌た だしい生活の中でふと浮かんでは消え去る一瞬の感覚を惜しむ心があり、それを表現した いと思うなら、数行の小詩は最も良い道具だと言える70。(筆者訳)

周作人はこのように、「1行から4行までの新詩」を小詩と名付け、瞬間的な感覚を表現 するのに小詩が最適であると説明している。これは彼が1921年に発表した「日本的詩歌」

での俳句についての説明と類似している。その中では、川柳や俳句のような日本詩歌の主 な特徴として、形式上短いために叙事には向かないが、「ある場所の情景、一時の情緒を表 現するには優れている」こと、また、字数が少ないからこそ表現の簡潔さを求めることが できる点を挙げている71。これらから、周作人が俳句に強い関心を寄せ、小詩を構想する にあたって、俳句本来の表現手法「一地の情景、一時の感情を表現する」を、小詩を介し て当時の新詩壇に取り入れようとしたことが窺える。

以上述べてきたように、周作人による俳句の紹介・翻訳と小詩の誕生は深く関係してい ることは間違いないと思われる。俳句の紹介・翻訳に示唆を受け、新しい詩のスタイルが

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