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人道主義の表現としての新文学への提唱

第 1 章 中国の近代化過程における文学革命と周作人の文学活動

3. 近代国家への模索:辛亥革命から文学革命へ

4.1 帰国後の周作人と張勲復辟事件

4.2.2 人道主義の表現としての新文学への提唱

このような“人”は理想的にどのように生活すべきか。まず、人間同士の関係を改良すべ きだ。我々はお互い人間であり、個人が人間の一分子である。それ故、利己であると同時 に利他、利他であると同時に利己のような生活を営むべきである。第一、物質的生活面に おいては、人力を尽くして人事が必要とされるものを取る。換言すれば、各人は心力を持 って働き、それにより適当な衣食住と医療を獲得し、健康的生存を維持する。第二、道徳 的生活面においては、愛智信勇を基本的道徳として、人道以下或は人力以上の因習や礼法 を廃棄し、自由かつ真実性のある生活を享受できる。(中略)それらについてのことを知る

人は数少なく、それ故、我々は文学上にもそれらを提唱して人間愛を尽くす47。(筆者訳)

このように、周作人は社会を構成する個体としての人間は、社会との調和を取れた生活 を送るべきと主張し、「人」を定義した霊肉一致の論説から理想的な人間関係、さらに自分 の文学観を引き出した。彼が考える理想的な人間関係は利己と利他を両立させたものであ り、またそれらを文学上に提唱していくべきだと主張し、「人間愛」という自らの文学観の 一端を示した。この周作人の「人間愛」という新文学の主張について、阿部幹雄(2010)

は、「中国において、教条的なまでに習慣化してしまった儒教倫理からの『人間の解放』と いうことを意味し、当時根強く残存していた伝統的な封建的諸関係の完全な否定となった ため、当時においてはかなりの衝撃をもって受容された」48と指摘している。つまり、周 作人が唱えた「人間愛」という新文学は、当時儒教道徳で支配された社会から人間を解放 するためであると考えられる。

意味である。それ故、私のいう人道主義は、個人から始めるものである。人道を行い、人 類を愛するためには、まず自分に人間としての資格を得て、人の位置に立つことから始め なければならない。(中略)このような人道主義を根本として、人生の諸問題に対して記録 研究をする文字、これを人の文学というのである49。(筆者訳)

周作人は、このように単刀直入に人道主義の根本的な意義から説き起こし、自分が提唱 する文学は個人から始める人道主義を根本とする「人の文学」であると述べた。それ故、

文学作品は人道を行い、人類を愛する内容を表現すべきだと指摘した。ここで彼の主張の 最大の眼目は、各個人は同じ人間であり、そのため、自分を軽視せず、他人も軽視しては いけない点にある。つまり、彼は個人主義に基づいて平等な人間関係を築く要望を提出し た。その理由は、当時の中国はまだ半封建的な国家であったため、個人主義が重視されず、

周作人は個人の価値を封建社会の束縛から解放しようという認識があったためと考えられ る。こうして周作人は、人類の平等に基づいて人道主義の文学を唱え、これは彼の霊肉一 致の論説における反封建の精神と通底している。この意味で、彼の「人の文学」とは、人 間の解放に基づく新文学の社会への効用を論ずるものであり、彼は文学作品をもって人間 の生活を改善する立場から人道主義論を提示したのであると考えられる。

4.2.3 「非人の文学」としての古典文学への批判

上述の人道主義に基づく「人の文学」の説明に続き、彼は文学には「非人の文学」があ ると指摘し、「人の文学」と「非人の文学」の相違について、以下のように述べている。

フランスのギ・ド・モーパッサン(莫泊三、Maupassant)の小説『女の一生』(Une Vie)

は、人間の獣欲を描いた人の文学であるのに対して、中国の『肉蒲団』は非人の文学であ る。ロシアのアレクサンドル・クプリーン(庫普林、Kuprin)の小説『魔窟』(Jama)は娼 妓生活を描いた人の文学であるのに対して、中国の『九尾魚』は非人の文学である。これ らは創作態度の違いによって分類された。つまり、一方は厳粛であり、一方は遊戯である。

一方は人間的生活を望み、それ故、非人間的生活を怒り悲しみ、一方は非人間的生活に満 足し、それ故、非人間的生活を弄り挑んだ。要するに、人の文学と非人の文学の相違点は 作者の態度にある。即ち、人の生活を是とするか、或は非人の生活を是とするか点にあり、

材料方法は関係ないのである。例えば、女性の殉葬を提唱する文章、一見“風教維持”の

ように見えるが、実際はそれを道徳にして人間の自殺を脅迫するためであり、それも非人 の文学である50。(筆者訳)

周作人はこのように、それぞれ外国と中国の文学作品を例に挙げ、「人の文学」と称する ことができる外国文学と「非人の文学」である中国の伝統的文学の相違を作者の異なる創 作態度に求め、つまり「一方は厳粛であり、一方は遊戯である」と区分していた。この解 説で注意を引くのは、「非人の文学」に表現された作者の態度は、非人間的な生活を受け入 れ、それに満足していると周作人が考えた点である。これに続き、彼は「中国文学の中に は、人の文学たる作品が極めて少なく、とりわけ儒教、道教的文章は殆ど不合格である」51

(筆者訳)と指摘し、中国文学の中から「非人の文学」として十種類のタイプのものを例 として挙げている。

(一)色情狂的淫書の類

(二)迷信的鬼神書の類(『封神伝』『西遊記』等)

(三)神仙書の類(『緑野仙蹤』等)

(四)妖怪書の類(『聊斎志異』『子不語』等)

(五)奴隷書の類(甲種の主題は皇帝状元宰相、乙種の主題は神聖な父と夫)

(六)強盗書の類(『水滸』『七侠五義』『施公案』等)

(七)才子佳人書の類(『三笑縁姻』等)

(八)下等な諧謔書の類(『笑林広記』等)

(九)黒幕の類

(十)以上各種の思想から結晶した旧劇52

(筆者訳)

以上の周作人の分類から、中国で佳作と認められてきた『封神伝』、『聊斎志異』などだ けでなく、四大名作とされる著作のうちの『西遊記』、『水滸伝』さえ「非人の文学」の具 体例として名指して挙げられていたことが分かる。つまり、これらの作品に表現された作 者の態度は、いずれも非人間的生活に対し満足していると周作人は考えていた。これは当 時、古典文学に親しんできた知識人に大きな衝撃を与えたに違いない。周作人によればこ れらの作品は、民族心理を研究する上で非常に価値あるものであるが、人間性の成長を阻

害し、人類の平和を破壊するものでもあり、一切排斥すべきものであった。