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新詩への不満

第 3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳

3.1 新詩への不満

表3で示した通り、1920年代、周作人がいち早く中国に翻訳した日本古典文学は、俳句、

和歌であった。実際、周作人は、1916年の段階で既に「日本之俳句」を発表し、その中で 小泉八雲(1850-1904)の『日本雑記』の詩論を引用し、俳句の歴史的展開を中国に紹介し た。5年後の1921年5月10日に彼は「日本的詩歌」において、俳句、川柳の特徴と和歌 の歴史について詳しく紹介するとともに、初めて俳句を13句、和歌を11首訳出した。

また表3から、1920年代の周作人による日本古典文学の翻訳は、1921年から1926年に 集中していることが分かる。その中でも、1921年から1924 年にかけて、彼は俳句と江戸 の俗謡を、それぞれ5回と4回にわたって紹介・翻訳し、日本の庶民文学に強い関心を示 していたことが分かる。この時期の周作人の翻訳活動は、文学革命期における彼の「平民 文学」の提唱、及び文壇の新詩運動と深く関わっていると考えられる。1925 年から 1926 年にかけて、周作人は俳句と江戸の俗謡の翻訳をやめ、『古事記』、『徒然草』、狂言を翻訳 し始めている。ここから、彼の文学翻訳における思想転換の兆しが窺える。

3.周作人における俳句翻訳の背景と目的

上述したように、周作人は1916年に「日本之俳句」を発表し、初めて俳句の歴史的展開 を中国に紹介したものの、俳句の翻訳そのものについては、手を付けようとはしなかった。

しかし、5年後の1921年には「日本的詩歌」を発表し、本格的に俳句を中国語に翻訳し始 めた。なぜ突如として周作人は俳句を翻訳するようになったのだろうか。そこには、訳者 である周作人の意図が隠されていると考えられる。ここでは、周作人はどのような動機か ら俳句を翻訳し始めたのかを考察したい。

このように、1910年代後半に登場した新詩は多くの人に愛され、胡適をはじめ、沈尹黙、

劉半農、劉大白、鄭振鐸、兪平伯(1900-1990)など、新文学の確立に貢献した多くの知識 人らは競って新詩を創作した。しかし、彼らによって作られた新詩の多くは古典詩の口語 訳か、叙情性に欠けた口語詩であり、徐々に新鮮さを失っていった。その背景には、東山 拓志(2009)が指摘したように、胡適らの目的が白話を詩に持ち込むことで、白話を正統 文学の地位に押し上げていきたいという狙いがあったということが考えられ12、新詩には 当初から詩法が欠けていたという欠点があることが挙げられる13。周作人は1921年6月の

「新詩」において、同時期の新詩の状況について以下のように述べている。

現在の新詩壇は実に消沈している。数人の老詩人は晩秋の蝉のように、あまり鳴かず、ま た鳴いても鳴き声が弱々しく、あたかも苦労をして開いた新詩壇の盛時が過ぎ去ったこと を表しているようである。芸術生活の弾丸は、老衰の坂へ向かっている。詩壇に新しく入 ってきた詩人らが、詩壇から身を引く傾向は見られない。作詩する者は少なくないものの、

聖書の中で書かれたように、召される者は多いが、選ばれる者は少ない。皆が苦労して開 発した新詩壇が、中途半端な状態で荒廃させられた。“相思の苦しみ”や“詩の何主義”の先 生らは現在中国の詩壇を牛耳っている。詩の改造は途上だと言わざるを得ない。口語詩の 本当の長所を完全に示した者はいない。それゆえ、その土台が非常に不安定だ。老詩人ら は、詩の改造が成功したと思って詩壇から引退し、楽観的すぎるのである14。(筆者訳)

上の言葉から周作人は当時の新詩に佳作が少ないという不満を持っていたことが読み取 れるだろう。それは、「口語詩の本当の長所」を示した作品がないという新詩の質に対する 不満であった。それゆえ、彼は新詩壇の停滞ぶりに対して黙していることができず、新た な詩を創作するという構想を持つことになった。このことは、1年後の1922年に「論小詩」

と題する論稿を発表し、消沈していた新詩壇の回復のために、口語詩の長所を表現できる 新しい詩を創造しようとしたことからも明らかである。そして、同時期に行われた俳句の 翻訳もこのような周作人の構想と関わっていたと考えられる。

また、この段落の中で、周作人は新詩の作者を2種類に分けた。それは「老詩人」と「詩 壇に新しく入ってきた詩人」である。新詩壇の「老詩人」について、「晩秋の蝉のように、

あまり鳴かず」や「詩壇から引退し、楽観的すぎる」と語っている。これらの言葉から、

当時、最も早い時期に新詩を作った詩人らは、新詩の創作をしなくなったことが窺える。

実際、新詩の提唱者である胡適は、1920年3月に新詩集『嘗試集』を出版した後、古代の 学術思想を系統的に整理し、『水滸伝』、『紅楼夢』など古典小説の考証を行うという「整理 国故」15に力を注ぎ、新詩の発表が少なくなった。

なぜ胡適は新詩壇から身を引いたのだろうか。その理由として、周作人が指摘した「老 詩人らは新詩の改造が成功した」と思っていたことが挙げられる。1919年10月10日「談 新詩」において、新詩の量について、胡適は「現在、新詩を作る人は少なくない。北京か ら広州まで、上海から成都まで、広い範囲にわたって新詩が新聞に掲載されている」16と 述べ、全国各地の主な都市に新詩が大量に作られたことを指摘した。また、新詩の質につ いて、胡適は内容とリズムの両面から分析を行った。そして、白話詩しか表現できない内 容の豊富さの具体例として、彼自身の「応該」、康白情(1896-1959)の「窓外」、傅斯年

(1896-1950)の「深秋永定門晩景」、兪平伯の「春水船」など、リズムの自然さの具体例 として、周作人の「両個掃雪的人」と「小河」、康白情の「送客黄浦」などを良い例として 取り上げた。このことから、1919年末の段階では、胡適は新詩の質量ともに満足したこと が窺える。

しかし、同じアメリカ留学経験者、詩に深い造詣を持つ胡先驌(1894-1968)は、1922 年1月、雑誌『学衡』の創刊号に「評『嘗試集』」を掲載し、胡適の『嘗試集』を強く批判 した。その中で、『嘗試集』に収められた詩について、彼は以下のように述べている。

『嘗試集』には44首の詩が収められた。しかし、胡適自身が認めたように、新詩たるもの はわずか14首であり、そのうちの「老洛伯」、「関不住了」、「希望」の3首は翻訳詩である。

(中略)古今東西どんな視点でみても、その形式・精神に取り柄がないのである。(中略)

「人力車夫」、「你莫忘記」、「示威」は、退屈な教訓主義の詩であり、「一顆遭劫的星」、「老 烏」、「楽観」、「上山」、「週歳」は、表面的な象徴主義の詩である。さらに、最も佳作と思 われる「新婚雑誌」、「十二月一日奔喪到家」、「送叔永回四川」の詩には純粋な感情がない のである。(中略)胡適はこれらの詩作をもって、果たして李杜蘇黄を打倒できるのか17

(筆者訳)

このように胡先驌は、『嘗試集』に収められた44首詩のうち、翻訳詩を除く、新詩は11 首しかないと指摘した。しかも、これら11首の新詩について、彼は形式と精神の両面、い ずれにおいても取り柄がなく、李白、杜甫らが創作した中国の古典詩と比較にならないの

だと考えたのである。実は、胡適の新詩を強く批判した人は胡先驌だけではない。新文化 運動の重要な人物であるも成仿吾(1897-1984)も、胡適の新詩を厳しく批判している。例 えば、1923 年、彼は「詩之防御戦」で胡適の新詩「人力車夫」について、「人力車に乗っ て貧困問題、労働問題を語る」とうことは、まるで「娼妓を抱いていながら、世界を改造 する夢を見るようだ」と語っている。成仿吾のこの批判は、詩の内容面に対して発したも のである。つまり、人力車に乗る人には「貧困問題、労働問題を語る」資格がないという 批判である。彼のこのような考えは、周作人が提唱した人類の平等を求める「人の文学」

と一致すると考えられる。

当時、最も早い時期に新詩を創作していた詩人は、胡適のほか、劉半農、劉大白、鄭振 鐸などが挙げられる。しかし、彼らは古典詩の教育や薫陶を受けた経験があるため、白話 新詩の創作にあたって、文語で詩を作るという習慣から完全に脱出できないのである。結 局、彼らが作った新詩には依然として、五七言のリズムや文語と白話の混入があり、古典 詩的規範から逸脱できていないと言える。

また、上の周作人の言葉から、当時、「詩壇に新しく入ってきた詩人」も積極的に新詩を 創作していたことが分かった。しかし、彼らが作った新詩の中には、質が低下しているも のが数多くみられる。以下はその一例である。

她説:(彼女は言った)

『親愛的!(あなた)

不要淘気了,(いたずらしないで)

譲我好好的睡吧!』(寝かせてください)

我説:(私は言った)

『只要你給我軽軽的一吻,(あなたがちょっとキスしてくれれば)

我也就不再動手了』(おとなしくするよ)

欧陽蘭「愛」18

(筆者訳)

この七行の詩の中で、五言一句で構成される一行がある。三行目の「不要淘気了」であ る。しかし、これは白話の文法によって書かれた句であり、偶然に伝統五言詩のリズムと なったのである。詩に使われている言葉をみると、文語がなく、全て「親愛的」、「淘気」、