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小詩における俳句のイメージの借用

ドキュメント内 中国における俳句の受容と展開に関する研究 (ページ 124-127)

第 4 章 1920 年代の小詩に見られる俳句の翻訳の影響

3.3 小詩における俳句のイメージの借用

1921年、「一茶的詩」の中で、周作人は一茶の一首を次のように翻訳している。

・我と来て遊べや親のない雀 (小林一茶)

和我来遊戯罷,没有母親的雀儿。 (「一茶的詩」)

上記の俳句では、親と離れてしまった雀を親友として扱う一茶の同情の気持ちが表現さ れている。韓玲姫(2012)では、「一茶が小動物に対して殊に愛着を持っているのは、彼の 生まれ育った環境によるものである」28と指摘したように、この俳句は、一茶が母を亡く して継母のもとで過ごしたつらい少年時代を回想して詠んだ句とされ、継母との反目は弟 との間にも溝をつくり、これが一茶を生涯苦しめることになったとされている。この句で は、一茶は自身の境遇を雀の身に重ね合わせ、そこに投影された人と小さい生命の関わり を大切にする一茶の気持ちが窺える。次に、この俳句と似通ったイメージが感じられる小 詩を見てみよう。

・白胡蝶,(白い蝶々)

飛来吧!(おいでよ)

不然,隔住籬笆,(そうしないと、塀の向こう側には)

我不能飛到你那里去啊29!(飛んでいけないよ)

蘇兆讓「春去後之二」

(筆者訳)

・小松樹,(稚い松の樹よ)

容我伴你罷,(そばにいさせてね)

山上白云深了30!(山の雲が濃くなったから)

冰心『春水』四一 (筆者訳)

上記の詩の中で、蘇兆讓の「春去後之二」では白い胡蝶に自分のところへ飛んでくるよ う呼びかけることが描かれ、冰心の「春水」では小松の木を伴いたいことが描かれ、いず れも小生命と一緒にいたいという作者の気持ちが表現されている。上記の一茶の俳句とこ れらの小詩を比較してみると、この2首の小詩は内容の面では必ず一茶の俳句と一致して いないものの、小詩の作者らは一茶の句に示された人間と小さい生命の関わりを大切にす る一茶風の表現効果に感応し、小詩の創作に当たって、雀の代わりに白い胡蝶、小松の木

を試みたのではないだろうか。

さらに、1920年代に創作された小詩のなかで、直接俳句のイメージを借用したと考えら れる作品を見てみたい。

・穿過了楓林,(楓の林を通り抜けた際)

恍惚見了一個影子;(ふと何かの姿が見えた)

我道是隻胡蝶,(胡蝶かと思いきや)

原来是一片落葉31。(それは、ただ一片の落葉であった)

何植三「落葉」

(筆者訳)

何植三の「落葉」では、楓の林を通り抜けた瞬間、一枚の楓の葉が舞い落ちた様子を描 いた。注目すべき点は、この詩では第 3 行目で「胡蝶」というイメージに、第 4 行目の

「一片の落葉」というイメージが重置され、つまり、作者が舞い落ちていた葉を胡蝶に譬 えているという点である。実際、このような胡蝶と落葉の組み合わせを詠んだ作品は、俳 句にも見られる。それは、俳諧の始祖と称される荒木田守武(1473-1549)の句「落花枝に 帰ると見れば胡蝶かな」である。日本では、この句は芭蕉の名句「古池や蛙飛びこむ水の 音」ほど有名ではないように思われるものの、鄭民欽(2008)によると、アメリカ出身の 有名な写象主義の詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound、1885-1972)は、守武の句に触発さ れ、1913年に初めて英語で“In a Station of the Metro”(地下鉄の駅で)という俳句的な詩を 創作し、当時の詩壇では注目を集めた32。また、この句について、佐藤和夫(1980)は、

1896年から1914年までの18年間に、英訳、独訳、仏訳など11種類も訳されていたと述 べた33。これらから、当時、守武のこの句の知名度と影響力が窺えるだろう。劉雨珍(1995)

は、上記の何植三の「落葉」について、守武のこの句にその起源が求められると指摘して いる34。確かに、何植三の「落葉」と守武のこの句を比較してみると、詩の中でそれぞれ 詠まれた散った花びらと落ち葉はイメージ的逆転があるものの、非常に似通ったイメージ で創作されていたとみてよかろう。この点から、何植三は「落葉」を創作するにあたって、

直接に守武の句のイメージを借用したのではないかと考えられる35

このように、1920年代に創作された小詩の中で、俳句のイメージを借用したと考えられ る作品も見られる。

4.小詩の衰退の理由

周作人の紹介・翻訳した俳句を下敷きとした小詩運動が1920年代初頭の中国で盛んとな った。しかし、その流行は長くは続かなかった。小詩の衰退について、劉雨珍(1995)は

「小詩は二十年代の初期、確かに一時的には流行したが、一九二四年以後、中国の文壇に おいては、小詩に対する興味が一気に失われていくようになる」36と指摘している。筆者 が調べたところ、確かに、1924年以後、新詩集は一冊も出版されていない。また、小詩を 掲載していた『詩』も1923年5月、突然休停刊となり、小詩を掲載できる場がなくなった。

また、『新青年』にも 1924 年以降小詩が掲載されることはなかった。このように、1922 年から1924年の3 年間、小詩が文壇に登場し注目され、一時的には当時の新詩壇に新た な生気をもたらしたが、1924年以降小詩ブームは去り、一気に姿を消した。ここでは、小 詩の衰退の理由について考察したい。

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