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小詩の詩形

ドキュメント内 中国における俳句の受容と展開に関する研究 (ページ 127-132)

第 4 章 1920 年代の小詩に見られる俳句の翻訳の影響

4.1 小詩の詩形

4.小詩の衰退の理由

周作人の紹介・翻訳した俳句を下敷きとした小詩運動が1920年代初頭の中国で盛んとな った。しかし、その流行は長くは続かなかった。小詩の衰退について、劉雨珍(1995)は

「小詩は二十年代の初期、確かに一時的には流行したが、一九二四年以後、中国の文壇に おいては、小詩に対する興味が一気に失われていくようになる」36と指摘している。筆者 が調べたところ、確かに、1924年以後、新詩集は一冊も出版されていない。また、小詩を 掲載していた『詩』も1923年5月、突然休停刊となり、小詩を掲載できる場がなくなった。

また、『新青年』にも 1924 年以降小詩が掲載されることはなかった。このように、1922 年から1924年の3 年間、小詩が文壇に登場し注目され、一時的には当時の新詩壇に新た な生気をもたらしたが、1924年以降小詩ブームは去り、一気に姿を消した。ここでは、小 詩の衰退の理由について考察したい。

と全く異なる無韻詩について、呉景超(1900-1968)38が以下のように述べている。

詩体が変わっても、詩の構成要素まで変わることはない。情感、想像、音節は詩の不可欠 な要素である。我々が下らぬ旧詩に反対するのは、それらが情感、想像に欠けているもの で、また一読すればリズムに響くものの、細かく見れば余韻がないからである。従って、

仮に新詩が旧詩の代わりに新たな領土を開拓しようとするなら、上述の全ての要素を考慮 すべきである。しかし、残念なことに現代詩を作る者の多くは誰もこの道理が分からない のである39。(筆者訳)

このように、呉景超は韻律が詩にとって不可欠なものであると考え、当時の無韻詩を批 判している。彼が指摘した無韻詩は必ず小詩に限定されるものではないが、小詩も確かに 口語による無韻詩の1つであると言えよう。なぜ小詩が無韻詩になっているのか。それは、

周作人による俳句の翻訳の方法に大きく関わっていると考えられる。以下はその翻訳例で ある。

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (松尾芭蕉)

初下雨的時候,猿猴也好像很想着小蓑衣的様子。 (「日本的詩歌」)

この訳例からも分かるように、周作人は俳句を口語で綴る散文体によって翻訳した。こ のように、1920年代に周作人によって中国に紹介された俳句は、すべて口語で綴る散文体 によって翻訳され、小詩という口語自由詩の詩形によって表現された。

それでは、周作人はなぜ俳句をすべて散文形式の白話文によって翻訳し、一度も5・7・5 の韻律を紹介することはなかったのか。その理由として、以下の2点が考えられる。

1つ目に、周作人の詩の翻訳観が挙げられる。「『古詩今訳』Aplolgia(題記)」(1918)で

は、周作人は詩の翻訳について以下のように述べている。

原作を完璧に再現することを目指すならば、翻訳することをやめるしかない。外国作品が 翻訳された時、常に二つの欠点が存在する。一つはそれが中国語に翻訳された以上、原文 に及ばない。(中略)もう一つは漢文らしくない。もし漢文と同じように見えるなら、そ れは自分勝手に書き直したものとなり、真の翻訳にならないだろう40。(筆者訳)

このように、周作人は詩の翻訳については、原作を完璧に再現できる翻訳は存在しない と考えていたのである。そして、翻訳された作品が読者にあたかも中国の作品を読んでい るように受け取られることに反対しているのが窺える。

また、「談翻訳」(1944)によると、周作人は翻訳する際、訳文を白話体41と文語体、ど ちらにすべきかについても以下のように述べている。

文言による翻訳方法は一見難しそうに見えるが、実際そうでもない。個人的な経験では、

白話よりずっと簡単である。少なくとも、簡単にごまかせるのである。(中略)原作のた めに翻訳するのなら、信・達がもっとも重要であるため、白話による翻訳方法が勧められ る42。(筆者訳)

すなわち周作人は実際に、翻訳する際、文語が白話より翻訳しやすいと考えていた。彼 のこのような考え方について、東山拓志は「それにも一理がある」と述べ、「文語は一定の ルールと夥しい手本があるから習得しやすい面もある」43と指摘している。また、周作人 は翻訳の目的を「信」・「達」、言い換えれば原文に忠実なことと、読者に理解してもらうこ ととして捉えた。それ故、外国作品を翻訳する際、文言文より白話文による翻訳方法を取 るべきだと考えていたのである。これは周作人が俳句を翻訳した後に書いた文であるが、

これは、1920年代の白話文による俳句の翻訳方法と一致する。

さらに、1921年の「日本的詩歌」、「一茶的詩」では、周作人は散文体による俳句の翻訳 方法について以下のように述べている。

俳句は言葉が短く、意味が深いので、その暗示によって想像力を働かせないと、俳句の真 意を理解できない。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は日本詩歌を翻訳する時、まずロー マ字で、音読みにしてから散文形式によってその意味を直訳し、音、義、法とも完璧な翻 訳をした。それをそのまま移行することはできないが、それこそ詩を翻訳する方法だと思 う44。(筆者訳)

詩歌はどれも訳すのが難しいが、日本のは特にそうである。もし五言二句または七言一句 に翻訳した場合、「ご飯を噛み砕いてから人に食べさせる」というようなことになるだろ

う。散文形式で説明的に訳すのも、レイシの汁を絞り出して飲むようなもので、味がすで に変わっている。しかし、それ以外に適した方法がない。したがって、本文で引用するも のは、当分この方法で解釈するしかない45。(筆者訳)

木山英雄が「中国の文学者で、周作人ほど日本と日本文化に深くかかわった人物は、他 に見当たらない」46と述べているように、周作人は日本文化、特に俳句の余韻などを深く 理解していたと思われる。そのため、俳句の翻訳を難しいものと考え、原句を忠実に再現 できるように、解釈・説明に近い散文体の翻訳方法を選択したのである。

2点目に、周作人の文学観が挙げられる。第1章で述べたように、文学革命期、周作人 は論稿「平民の文学」において、「貴族の文学」を強く批判し、「平民の文学」を表現でき る新文学の創作を唱えた。形式面での両者の区別について、以下のように述べている。

形式の面からみると、古文の多くは貴族の文学であり、白話の多くは平民の文学である。

ただ、すべてがそうであるとは限らない。古文の著作は、部分的で、修飾的で、享楽的あ るいは遊戯的であるため、確実に貴族文学の性質を備えている。白話の著作にいたっては、

これらの要素を持ち込まなくても問題はないだろう47。(筆者訳)

この解説で目立つのは、「形式の面からみると、古文の多くは「貴族の文学」であり、白 話の多くは平民の文学である」とされた点である。上述のように、「平民の文学」が著され た1年前の1917年に、胡適は『新青年』において「文学改良芻議」を発表し、その中で、

それまで難解な文語を用いる古文文学を廃して口語を用いる白話文学を提唱し、白話文運 動の口火を切った。この点から、「貴族の文学」とされる古文の多くは当時の古典文学であ り、「平民の文学」とされる白話の多くは新文学であると言えよう。ただ、文学というジャ ンルの中で「すべてがそうであるとは限らない」という周作人の言葉から、形式上では新 文学と旧文学の間に明確な境界線を引くことができないものの、旧文学は殆ど文語を用い る「貴族の文学」であり、新文学は殆ど白話を用いる「平民の文学」であることを示唆し ている。この点から、周作人が俳句をすべて散文形式の白話文によって翻訳したことは、

彼自身が求める白話を用いる「平民の文学」と一致すると考えていたことを示していると 言えよう。

このように、1920年代に周作人が俳句を口語で綴る散文体で中国語に翻訳しことは、彼

の翻訳観、文学観と深く関わっている。新しい詩が誕生するまでの過程について、于耀明

(2001)は「詩の長い伝統を持つ中国では新しい詩の成長は様々な非難を受けるに決まっ ていた」48と述べている。事実、このような翻訳形式に基づいて翻訳された訳句は当時の 知識人らから強く批判を受けている。以下はその一例である。

古池や蛙飛び込む水の音 (松尾芭蕉)

古池――,青蛙跳入水裏的聲音。 (「日本的小詩」)

周作人が松尾芭蕉の句を上記のような口語で綴る散文体によって翻訳したことは先述し た。この訳句に対して、当時の詩人である成倣吾(1897-1984)49は以下のように述べてい る。

周作人氏のこのような訳し方は、この詩の命を奪い取った。もともと、古池の後ろに感嘆 を表す呀という漢字がある。それこそが原句の命であるが、周君はそれをなくした。さら に、日本語では、古池呀はFuruike-yaという五つの音、二二一の区切りで表現されている のに、周君は古池を二文字で訳出したため、詩の音楽的効果を失っていた50。(筆者訳)

すなわち成倣吾は周作人の訳句について、詩の韻律が崩れているため、詩趣に欠けてい ると考えたのである。新詩が誕生するまでの中国の詩壇では、詩のスタイルは、書き言葉 を一定のリズムに乗せる文語定型詩が主流であった。中国の古典詩において、脚韻を踏む ことはその重要な要素の1つであるが、成倣吾にとって、散文形式の白話文によって翻訳 された芭蕉の句は、「詩の音楽的効果」がなく、詩として受け入れられなかったため、上述 のように述べたと考えられる。

周作人はこの訳句で、感嘆を表す切れ字「や」を、文字の代わりにハイフンで詩の余韻 を醸し出すよう工夫している。しかし、この訳句は、口語で綴る散文体によって訳出され て韻律が崩れているため、詩としての魅力が失われているとみなされた思われる。先述し たように、周作人は俳句をすべて口語で綴る散文体によって翻訳し、一度も5・7・5の韻 律を紹介することはなかった。その背景には、彼が指摘した俳句の翻訳が困難であること が挙げられ、また、5・7・5 の韻律は新詩運動に登場した散文口語詩に合わないことが考 えられる。しかし、彼のこのような考え方には危険性がある。それは、このような考え方

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