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中国における俳句の受容と展開に関する研究

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博士論文

中国における俳句の受容と展開に関する研究

1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動を中心に―

2017 年 3 月

宇都宮大学国際学研究科博士後期課程

国際学研究専攻

144601A

張 婷婷

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目 次 目次 ... i 図·表 ... iv 序章 ... 1 1.研究の背景 ... 1 1.1 研究の動機 ... 1 1.2 1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性研究の必要性 ... 2 1.3 文学革命期における周作人の文学活動と俳句の翻訳活動の関連性研究の必要性 ... 3 2.研究の目的 ... 4 3.先行研究の概観 ... 4 3.1 中国における俳句の受容をめぐる研究 ... 4 3.1.1 俳句の受容に関する研究 ... 4 3.1.2 1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性に関する研究 ... 5 3.2 文学革命期における周作人の文学活動と翻訳活動の関連性をめぐる研究 ... 6 3.2.1 周作人の文学観に関する研究 ... 7 3.2.2 周作人の詩作に関する研究 ... 8 3.2.3 周作人の翻訳活動に関する研究 ... 9 4.本研究の構成 ... 11 第1 章 中国の近代化過程における文学革命と周作人の文学活動 ... 14 1.はじめに ... 14 2.日清戦争と周作人の日本留学 ... 14 2.1 日清戦争 ... 14 2.2 周作人の日本留学 ... 16 2.2.1 20 世紀初頭の日本留学ブーム ... 16 2.2.2 周作人の日本認識 ... 17 3. 近代国家への模索:辛亥革命から文学革命へ ... 20 3.1 辛亥革命と五・四新文化運動 ... 20 3.2 文学革命の勃興 ... 22 3.2.1 白話を正統とする文学改良 ... 22 3.2.2 文学改良から文学革命へ ... 24 4.文学革命期における周作人の文学観:「人の文学」と「平民の文学」を中心に ... 26 4.1 帰国後の周作人と張勲復辟事件 ... 27 4.1.1 帰国後の周作人 ... 27 4.1.2 張勲復辟事件と周作人 ... 28 4.2 「人の文学」における新文学の定義 ... 29 4.2.1 人間についての解説 ... 29 4.2.2 人道主義の表現としての新文学への提唱 ... 32

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4.2.3 「非人の文学」としての古典文学への批判 ... 33 4.2.4 世界的文学観から人の生活を表現できる文学翻訳へ ... 35 4.3 「平民の文学」における新文学の定義 ... 37 4.3.1 「平民の文学」と「貴族の文学」についての解説 ... 37 4.3.2 「貴族の文学」としての古典文学への批判 ... 38 4.3.3 普遍的で真摯な文学観から平民の生活を表現できる翻訳理念へ ... 39 5.まとめ ... 41 第2 章 胡適における新詩運動の提唱と周作人における新詩の詩作 ... 47 1.はじめに ... 47 2.胡適における白話詩の提唱 ... 47 2.1 胡適における白話詩の提唱のきっかけ ... 47 2.2 白話と詩との衝突 ... 49 2.3 胡適における新詩の創作 ... 50 3.白話詩から「詩体の大解放」へ ... 52 3.1 胡適における「詩体の大解放」の提唱 ... 53 3.2 「詩体の大解放」に見られる新詩の問題 ... 54 3.2.1 古典的定型詩への批判 ... 54 3.2.2 「話すように書く」新詩の提唱 ... 56 4.新詩の創作 ... 57 4.1 人力車夫の新詩の素材として取り上げた理由 ... 58 4.1.1 文学革命期における人力車夫の社会的位置 ... 59 4.1.2 胡適における新文学の創作素材の提唱... 60 4.2 新詩における人力車夫の創作 ... 61 4.2.1 人力車夫を取り上げた新詩の全体像 ... 61 4.2.2 胡適の「人力車夫」と沈尹黙の「人力車夫」 ... 62 4.3 周作人における新詩の創作 ... 65 4.3.1 周作人による創作された新詩の全体像... 65 4.3.2 周作人の「二個掃雪的人」 ... 67 5.まとめ ... 70 第3 章 1920 年代の周作人による俳句の紹介と翻訳 ... 74 1.はじめに ... 74 2.19 世紀末 20 世紀初頭における日本文学翻訳の概況 ... 74 2.1 政治小説からはじまった日本近代文学の翻訳 ... 75 2.2 1920 年代における周作人の日本古典文学の翻訳... 77 3.周作人における俳句翻訳の背景と目的... 78 3.1 新詩への不満 ... 78 3.2 俳句における日本文化的要素の発見 ... 83 3.3 国民性の改造 ... 85

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4.周作人における俳句の翻訳と新詩の質の向上に向けての構想 ... 89 4.1 周作人の俳句観 ... 89 4.2 周作人による翻訳された俳句の全体像 ... 93 4.3 俳句の翻訳から小詩の誕生へ ... 97 4.3.1 俳句における新詩に参考としうる要素の発見 ... 98 4.3.2 新たな詩の構想と俳句の翻訳 ... 99 4.3.3 「論小詩」の発表 ... 101 4.4 周作人による俳句の翻訳とその特徴 ... 102 5.まとめ ... 104 第4 章 1920 年代の小詩に見られる俳句の翻訳の影響 ... 110 1.はじめに ... 110 2.小詩運動の発生 ... 110 3.小詩に見られる俳句の翻訳の影響 ... 113 3.1 小詩における俳句的要素の発見 ... 114 3.1.1 季語が与えた影響 ... 114 3.1.2 切れ字が与えた影響 ... 115 3.1.3 「ある場所の景色」、「一時の情緒」が与えた影響 ... 116 3.2 小詩における弱きものの描写 ... 117 3.3 小詩における俳句のイメージの借用 ... 119 4.小詩の衰退の理由 ... 122 4.1 小詩の詩形 ... 122 4.2 小詩の内容 ... 127 4.3 小詩の詩法 ... 131 5.まとめ ... 132 終章 ... 137 1.本研究で明らかになったこと ... 137 2. 本研究の意義 ... 141 2.1 中国における俳句の受容研究 ... 142 2.2 文学革命期における周作人の文学活動と俳句の翻訳活動の関連性研究 ... 143 3.今後の課題 ... 144 参考文献 ... 146 初出一覧 ... 155 謝辞 ... 156

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図·表 1. 図 【図 1】「白話詩八首」のテクスト···51 【図 2】「黄鶴楼送孟浩然之广陵」のテクスト···51 2. 表 【表 1】1918 年から 1924 年までの人力車夫を取り上げた新詩の一覧表···61 【表 2】周作人が創作した新詩の一覧表···66 【表 3】1920 年代における周作人の日本古典文学の翻訳作品一覧表···77 【表 4】周作人が翻訳した俳句に関する論稿の一覧表···93 【表 5】周作人が翻訳した俳句の原作者ごとの句数の一覧表···94 【表 6】周作人による俳句と小詩に関する論稿···98 【表 7】俳句の翻訳の例···102

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序章 1.研究の背景 1.1 研究の動機 20 世紀初頭の中国は、内戦や欧米列強からの侵略などの問題を抱え、社会情勢が不安定 な状態であった。そのような状況の下で、辛亥革命(1911)や五・四運動(1919)などが起 こった。一方、当時の文学者らは新文化運動を通じて自国を救う方法を模索し、胡適 (1891-1962)1や陳独秀(1879-1942)らによって新文化運動 2の一環としての新文学を志 す文学革命(1917)が起こった。 文学革命の狼煙をあげたのは胡適である。1917 年 1 月、胡適は雑誌『新青年』において 「文学改良芻議」を発表し、難解な文言を捨てて生きた白話文学を推進することを提唱し た。1917 年 2 月、陳独秀は胡適に呼応して「文学革命論」を発表し、旧思想と文学を破壊 して新文学を建設しようと呼びかけた。後に胡適は陳独秀とともに、白話文運動を「文学 改良」から「文学革命」にまで前進させ、詩歌がそれまでの伝統詩の韻律、文語などの束 縛から解放されるべきだと呼びかけた。以後、文壇では白話文運動が『新青年』を中心に 展開され、胡適、沈尹黙(1883-1971)、劉半農(1891-1934)などの白話詩が次々と発表さ れた。彼らの詩は、それまでの文語定型詩、即ち旧詩に対して新詩と呼ばれ、当時の知識 人らから関心が寄せられるようになった。 このような 1922 年から 1924 年の 3 年間、新詩の創作が盛んに行われていくという動き の中で、のちに小詩運動と呼ばれることになる現象が起こった。小詩は 1 行から数行まで で 完結 する 短詩 型で 、こ の小 詩と いう 新し い形 式の 詩を 最初 に考 えた のは 周作 人 (1885-1967)である。彼は新文化運動の先駆的思想家である。文学革命期に、胡適、魯迅 (1881-1936)などとともに新文学の創作を提唱し、「人の文学」(1918)、「平民の文学」(1919) など一連の著名な論稿を発表し、「両個掃雪的人」(1919)、「小河」(1919)などの新詩を創 作した。 さらに、周作人は日本文学を紹介した第一人者と言われてきた。彼は 1906 年から 5 年間 日本に留学し、その間、日本文学に深く関わった 3。帰国後、彼は中国新文学の提唱に力 を入れるとともに、日本文学の紹介者としても活躍し、俳句、俗謡を皮切りに、数多くの 日本の文学作品を次々と中国に紹介・翻訳し、中国の文壇に多大な影響を与えた。俳句は

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1921 年に周作人によって翻訳された後、3 年間は盛んに行われたが、1924 年以後、その翻 訳は途絶えてしまった 4 。周作人が俳句を最初に中国語に翻訳した時期は小詩の隆盛の時 期と重なっており、小詩の隆盛と深い関わりがあると考えられる。 中国文学界では、「中国文学の近代化に当たる時期を、中国現代文学史という特定の歴史 単位」5で規定し、20 世紀初頭に現れた文学は「近代文学」から「現代文学」への転換期 に位置づけられている6。呉紅華(2013)は、中国「現代文学」の始まりについて、「中国 の現代文学は、一九一七年胡適の『文学改良芻議』に始まり、翌一八年の周作人による『人 間の文学』の提唱や魯迅の実作『狂人日記』の発表により、本格的に五・四新文化運動が 始動した」7と述べている。さらに、李鐘振(2004)は「中国は 1911 年の辛亥革命を経験 する過程で、近代への指向性がより明確になってきた」8 と指摘したように、同じ時期に周 作人が行った俳句の翻訳は、彼自身の文学思想を代弁し、中国文学の近代化と深く関わっ ていると考えられる。 そこで、本研究は文学革命期における周作人の文学活動に焦点をあて、彼による俳句の 翻訳と小詩運動の関連性を考察する。その主な論点は以下の 2 つがある。 1.2 周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性研究の必要性 先述したように、中国文壇において新詩の創作が盛んに行われていた 1922 年から 1924 年の 3 年間に小詩運動が起こった。この小詩という新しい形式の詩を最初に考えたのは周 作人である。彼は新詩の創作活動に取り組む一方で、1920 年代初頭から俳句を精力的に翻 訳した。この小詩の隆盛の時期は彼が俳句を最初に中国語に翻訳した時期と重なっており、 俳句の翻訳と深い関わりがあると考えられる。 この小詩運動の高まりは、インドの詩人、ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagoret、1861-1941)(以下タゴールと略する)の詩から影響を受けたとする先行研究が多 数ある。代表的なものは、張娟(2005)による詩集“Stray Birds” (1916)の分析で、小詩 の理知的な特徴はタゴールに影響を受けていると指摘している。 しかし、このタゴールの“Stray Birds”について、内山眞理子はこの詩集は、タゴールが 1916 年 5 月の日本訪問をきっかけに書き始めた短詩集であると述べている9。さらに、川 名澄は「タゴールが初めて日本を訪れたとき、俳句の表現形式に創作意欲をそそられて短 詩づくりに熱中したことは想像に難くない」10と論及している。これらから、タゴールが 詩集“Stray Birds”を創作する際、俳句の影響を受けていたことが推察され、小詩の理知的な

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特徴が“Stray Birds”からの影響を受け、さらに間接的に俳句からの影響を受けた可能性が高 いと考えられる。 一方、1924 年以降小詩の創作について、劉雨珍(1995)が「小詩は二十年代の初期、確 かに一時的には流行したが、一九二四年以後、中国の文壇においては、小詩に対する興味 が一気に失われていくようになる」11と指摘しているように、1924 年以降小詩ブームは去 ってしまい、その創作は全く行われなくなった。当時、知識人らがなぜ小詩を大量に創作 したのか。また、1924 年以後、なぜ急速に小詩の創作がなされなくなっていったのか。こ れらを考察することを通じて、小詩運動における俳句の影響を明らかにすることが可能と なる。また、中国詩歌における日本詩歌の受容過程を知る上でも非常に価値があると考え られる。そこで、本研究では 1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性を考察 し、中国近代文学における俳句の影響を検証する。 1.3 文学革命期における周作人の文学活動と俳句の翻訳活動の関連性研究の必要性 呉紅華(2005)は、20 世紀初頭の文学と時代情勢の関係について、「周作人が生きた時 代の中国は、長期にわたる封建専制の制度がようやく終息したものの、革命と反乱が入り 混じり、繰り返されており、文学も自ずとそれに巻き込まれざるを得ない状態であった」12 と述べている。事実、20 世紀初頭に勃発した新文化運動の一環としての文学革命は、旧思 想と文学を破壊して新文学を建設しようという狙いがあった。当時、中国の知識人らは雑 誌『新青年』を拠点として、様々な政治改革や思想革命に関わる文筆活動を展開するよう になり、新文学の提唱者らも、文学とは何か、如何なる新文学を築き上げるべきかなどの 問いについて議論し始めた。そういう中で、周作人は中国新文学の理論的支えとなる「人 の文学」(1918)、「平民の文学」(1919)を発表し、その中で、外国文学の翻訳・紹介は、 文学革命を実現するための不可欠な手段であると唱えた。これらの論稿は、中国初の重要 な近代文学理論と見なされている。 中国の文壇に新文学として最初に登場したのは、1917 年 2 月、『新青年』第 2 巻 6 号に おいて発表された胡適の白話詩「朋友」である。以後、文壇では新詩運動が展開され、魯 迅、聞一多(1899-1946)など多くの知識人らが新詩を創作した。新文学の提唱者としての 周作人は、1919 年から新詩を創作し始めた。彼は 1919 年に「両個掃雪的人」、「小河」な どを創作した後、1923 年までの 5 年間は創作を続けたが、その後、新詩を殆ど書かなくな った。

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文学革命期、周作人は新詩の創作活動に取り組む一方、俳句を中国に紹介・翻訳し、「俳 句的小詩(俳句のような小詩)」13 の創作を呼びかけた。これをきっかけに、俳句が当時の 中国の知識人の間で広く知られるようになった。それまで近代中国では周作人を除いて、 俳句を紹介・翻訳する人はほとんど存在しなかったが、なぜ周作人は俳句を翻訳するよう になったのだろうか。それは、当時の周作人の文学志向と深く関わっていると考えられる。 伊藤徳也(2013)は、中国の近代文学史における周作人の影響力について、「周作人は単 に日本文化に詳しい中国人というのではない。彼の名に触れずに中国の近代文学史を語る ことは難しい。誠実にそして緻密に近代中国の文学史的事象を拾っていけば、いかに周作 人の影響が多方面にまで及んでいたかがわかる」14と高く評価している。そこで、本研究 では文学革命期における周作人の文学観、詩作及び翻訳活動に焦点をあて、周作人の文学 志向と俳句の翻訳との関連性を明らかにし、中国文学近代史における周作人の役割を検証 する。 2.研究の目的 本研究は、20 世紀初頭の中国における文学革命に焦点をあて、周作人による俳句の翻訳 と小詩との関係性を明らかにすることを主なる目的とする。分析にあたっては、まず周作 人がどのような課題をもって俳句の翻訳を行ったかについて彼の文学活動全体の中で整理 する。その上で、なぜ周作人が提起した「俳句的小詩(俳句のような小詩)」の創作という 呼びかけに多くの知識人が呼応し、小詩が広まったのか、また、その後、なぜ小詩は急速 に衰退したのか、という点を考察する。そうすることによって、新文化運動の先駆的思想 家である周作人が、中国文学の近代化の中でいかなる役割を果たし、どのように位置づけ られるかを提示する。 3.先行研究の概観 ここでは、中国における俳句の受容と展開についての研究が今までどのように行われて きたかを概観する。 1920 年代の中国における俳句の受容と展開についての先行研究は 2 つに分けることがで きる。1 つ目は中国における俳句の受容をめぐる研究である。2 つ目は文学革命期における

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周作人の文学活動と俳句の翻訳活動の関連性をめぐる研究である。 3.1 中国における俳句の受容をめぐる研究 3.1.1 俳句の受容に関する研究 俳句は 1921 年に周作人によって翻訳された後、3年間は盛んに行われたが、1923 年以後、 その翻訳は途絶えてしまった。俳句が再び注目されるようになったのは、俳句の翻訳が再 び始まった 1979 年以降であり、その影響で漢俳という現代詩が生まれた。 近年、中国における俳句に関する研究では、比較文学的な視点から見た俳句と漢詩との 関連性が注目されている。雷石棆(1987)、陸堅・関森勝夫(1996)、莫道才(1997)は、 古代における日本の詩人の多くが中国の古詩を理解していたため、俳句の形成過程や創作 において、中国の古詩の絶句と律詩との関係、あるいは文学流派に影響を受けていたと述 べている。 その一方で、彼らの研究をきっかけに、俳句が中国の文学作品に与えた影響をめぐる研 究が行われるようになった。その中でも、俳句と漢俳との共通点や相違点に関する研究や、 俳句の受容をめぐる研究が注目を浴びている。 これまでの中国における俳句の受容をめぐる先行研究は、朱実(2000)、今田(2002)、 荊瑶(2014)が、1979 年以降の俳句の翻訳と漢俳の出現を中国における俳句の受容の重要 なポイントとして位置づけている。確かに、俳句は中国の現代詩としての漢俳に大きな影 響を与えたと言える。しかし、俳句の受容研究を行うにあたっては、1920 年代の俳句の翻 訳が小詩に与えた影響についての研究を先に行わなければならない。これが分かれば、1979 年以降俳句が受け入れられるようになった理由が分かるかもしれない。これは、日中詩歌 交流史における「逆輸入」という視点から、従来ほとんど顧みられることのない日本詩歌 の中国詩歌へのフィードバックの状況を研究するものであり、中国における日本詩歌の受 容過程を知る上でも非常に価値があると考えられる。 そこで、本研究では、1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動との関わりを 1 つの 課題とした。 3.1.2 周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性に関する研究 1920 年代周作人による俳句の翻訳と小詩運動の関連性については、あまり研究がなされ ていない。この課題を取り扱った研究として、劉珍雨(1995)、呉紅華(2005)、羅振亜(2010)、

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韓玲姫(2011)が挙げられる。 劉珍雨(1995)、呉紅華(2005)は、1920 年代の 3 首の小詩を取り上げ、小詩は俳句か らどのような影響を受けたのかを検証した。その結果、切れ字や季語、余韻を残す表現手 法や「抽象化された心象世界」と自己が一体となった表現手法の面では、俳句から影響を 受けたと指摘している。羅振亜(2010)は、比較文学的視点から、1920 年代の小詩と俳句 との関わりを検証し、小詩の「政治性が薄い」、物哀れ及び理知的な特徴は俳句の影響を受 けていると指摘した。さらに、韓玲姫(2011)は、小詩に見られる俳句の影響について、 切れ字、季語、余韻という 3 つの影響を挙げているほか、『湖畔』詩集の 2 首の小詩を取り 上げ、「『湖畔』詩集には万物を友として、人間として接する一茶風の詩が多く見られる」15 と指摘している。 このように、劉珍雨(1995)、呉紅華(2005)、韓玲姫(2011)は、1920 年代の主な詩集 に掲載された小詩を取り上げ、周作人による俳句の翻訳と小詩との関わりについて検証し、 俳句の季語や切れ字、余韻を残すなどの面では、小詩は日本の俳句から影響を受けている と指摘しているが、検証が不十分なところがあるように考える。羅振亜(2010)は、比較 文学的視点から小詩と日本の俳句との関わりを検証したが、小詩運動における周作人の役 割について、詳細な考察が出来ていない。つまり、これらの研究は、小詩運動における周 作人の俳句訳句の役割について、詳細な考察が出来ていない。また、当時知識人らはなぜ 小詩を大量に創作したのか、1924 年以後、小詩の創作がなぜなくなったのかについてはほ とんど論じていない。 1920 年代における俳句の翻訳と小詩運動との関わりにおいて最も注目すべきは、なぜ周 作人が提起した「俳句的小詩(俳句のような小詩)」の創作という呼びかけに多くの知識人 が呼応し、小詩が急速に流行したのか、また、1924 年以後なぜ小詩が急速に衰退したのか という点である。20 世紀初頭の時代背景と 1920 年代の小詩を調査し、周作人における俳 句翻訳の方法及び中国での反響、小詩と彼による俳句の翻訳との関わりを考察することに よって、日中文学往還の事象を、新たな角度から照らし出すことができる。これは、20 世 紀初頭における日本詩歌の中国詩歌に与えた影響について新たな角度から考察するもので あり、中国における日本文化の受容過程を知る上でも非常に価値があると考えられる。 3.2 文学革命期における周作人の文学活動と翻訳活動の関連性をめぐる研究 日中近代文学史における周氏兄弟、つまり周樹人(魯迅)と周作人に関する研究は、異

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なるものである。于耀明(2001)は、「八十年代の初頭までの中国では、周作人の名前はま だタブー視されていたのであった」16 と述べているように、魯迅の研究は日中を問わず 1940 年代から長い歴史を持っているのに対し、周作人の研究は「漢奸」と認知されたという政 治的な原因によって遅れている17。一方、周作人という人物について、伊藤徳也(2012) は、「周作人は個性の深さということでも、書き残したもののボリュームとその信頼性とい うことでも、目を向けて損はない人物だ」18と高く評価している。 中国における周作人の文学活動の研究について、山口早苗(2014)は、「周作人研究が中 国近現代文学研究の一分野として確立されたのは、近年のことであり、また専門的に周作 人研究を行う研究者が現れ始めたのも、最近のことである」19と指摘している。事実、1980 年代までの中国では、周作人に関する研究は、抗日戦争中の彼の対日協力の経歴を踏まえ つつ、政治的評価について言及するものが多かった。転機が訪れたのは 1980 年代以降のこ とである。1980 年代に入り、中国社会の改革開放に従い、周作人の文学作品が読まれるよ うになり、周作人の思想と創作に関する研究も行われるようになった。『周作人年譜』(1985)、 『周作人日記』(1996)、『周作人散文全集』(2009)など日記や文集が刊行されたことによ って、彼の文学者としての文芸や思想に重点を置いた研究が行われるようになった。それ らの研究は、周作人と日本文学との関わりのあることは認めているが、詳細な考察と論述 が出来ていないのが現状である。 一方で、日本では、周作人に関する研究は、1970 年代から木山英雄によって始められた と言える。木山の研究著作について、山口早苗(2014)は「主に周作人思想を明らかにす ることにあり、その研究対象は多岐にわたっている」と述べ、また、「80 年代に中国大陸 で行われた研究と比べると、より客観的に、加えて同情的に周の行動 ・思想を分析してい る」20と評価している。木山の研究著作以降、日本において周作人に関する書籍が続々と 刊行され、代表的なものとして、伊藤徳也の『「生活の芸術」と周作人――中国のデカダン ス=モダニティ』(2012)が挙げられる。その中で、彼は「私の中には、周作人が従来歴史 的な関心からしか注目されてこなかったことに対して抗議したいという衝動がずっと轟い ている」21 と述べ、周作人の歴史的・政治的研究に重点が置かれたことに不満を示してい る。近年、「周作人の文学観の形成が翻訳活動で摂取した様々な海外思潮を抜きにしては語 れない」22ことと見なされ、周作人の研究では政治的な面から芸術的な面へと転換する動 きが見られるようになり、周作人の翻訳活動や日本文学との関係が注目されるようになっ た。以下、文学革命期における周作人の文学活動と俳句の翻訳の関連性に関わる先行研究

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を概観する。 3.2.1 周作人の文学観に関する研究 文学革命期における周作人の文学観に関する研究では、周作人の論稿や文学著作に潜在 している文学思想を解明することが目的となっている。代表的な先行研究としては、小川 利康(1990)、伍鵬(2009)、鄭恵(2011)、鐘観鳳(201417571827)が挙げられる。 小川利康(1990)は、五・四運動期の周作人の論文におけるウィリアム・ブレイク、レ フ・トルストイ(William Blake、1757-1827)の引用文に考察し、周作人によって選びとら れた言葉は、彼の内面に潜む「人道主義」を代弁したものであると述べている。また、そ こから引き出された理念は「人の文学」から「勃来克的詩」へ、「平民の文学」から「聖書 と中国文学」へ、その影響を拡大するにつれ、五・四運動期の周作人の文学観を支える柱 となると主張している。 伍鵬(2009)は、周作人の論稿「人の文学」、「平民の文学」を取り上げ、五・四運動期 の周作人の文学思想と胡適及び陳独秀の文学思想を比較し、周作人の「人の文学」という 文学観は、文学の効用面では、胡適及び陳独秀と同様に、文学を思想啓蒙の道具として見 なしていたが、新文学の理論面では、文学的関心を人の「自然的存在」から「社会的存在」 へ発展させ、文学の新たな方向性を示したと指摘している。 鄭恵(2011)は、周作人のヒューマニズム思想を「人の文学」の「人」に着目し、彼の ヒューマニズム思想の形成過程について検討した。そして、五・四運動期、周作人は「人」 を解釈するに当たり、「人間本位主義」というヒューマニズムの立場から文学理論を提唱し たため、「個人主義」の傾向はまだはっきりとしていなかったものの、五・四運動後、周の 文芸理論は徐々に個人主義の道へ踏み込んでいくと指摘している。さらに、今後の課題と して、歴史背景や人間関係などの方面から彼の思想の変化を考察すると述べている。 鐘観鳳(2014)は、「人の文学」、「平民の文学」を取り上げ、周作人が五・四運動期に 提唱した人的文学という文学観は、当時の個性解放の要求が反映されており、新文学の発 展において啓蒙的な役割を果たしたと指摘している。 3.2.2 周作人の詩作に関する研究 周作人の詩作に関する研究では、周作人の詩歌志向や詩作の特徴を解明することが目的 となっている。秋吉収(2012)は、周作人と詩の関係について、「詩作は極めて少なく、散

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文家、エッセイストとして著名な周作人と『詩 』が容易には結びつかない」23と述べてい る。確かに、詩人としての周作人は、翻訳者や文芸批評家としてさほど知られていない。 これまでの周作人の詩作についての論考は彼の文学思想ほど多くない。代表的なものとし て鳥谷(2008)、王艶珍(2009)、佐藤(2016)が挙げられる。 鳥谷(2008)は、周作人の新詩「両個掃雪的人」と「小河」に焦点をあて、1919 年周作 人の新詩の誕生から、1923 年までの新詩の模索の過程を分析した。その結果、周作人は文 学芸術を深慮するなかで新詩に芸術的余韻を求め、次第に散文詩へと傾斜していくのであ ることがわかった。 王艶珍(2009)は、周作人の新詩「小河」を取り上げ、リズム、日本詩歌の応用、西洋 詩法の応用という 3 つの面から分析した。分析の結果、「小河」は西洋詩法の散文体でヨー ロッパの民謡の内容を書き、日本詩歌の俳句と川柳のリズムの影響を受けていることがわ かった。 佐藤(2016)は、1920 年代に周作人と馮乃超が日本近代詩歌から何を学ぼうとしたのか を検討し、この二人の探索の方向とたどった運命は全く異なると述べている。周作人は日 本近代詩歌から「実感」と理性に裏打ちされた簡素で自然な表現を見出した一方、馮乃超 は曖昧な「気分」の表現と決別し、作品にメッセージを明確にうち出すことになると主張 している。 3.2.3 周作人の翻訳活動に関する研究 文学革命期の周作人の翻訳活動に関する研究では、周作人の日本文学の翻訳活動と彼の 文学志向を解明することが目的となっている。この課題を取り扱った主な研究としては、 呉衛峰(2009)、潘秀蓉(2002)、潘秀蓉(2010)、潘秀蓉(2014)が挙げられる。 周作人の日本古典文学の翻訳活動について、呉衛峰(2009)は、周作人の日本古典文学 の翻訳と彼の翻訳観を検証した。結論として、外国の古典詩歌を安易に古典中国語に翻訳 し、読者にあたかも中国の伝統詩を読んでいるように受け取らせることに反対していると いう周作人の翻訳観の一面が明らかになった。さらに、訳詩・訳歌の面では、「詩の言葉と しての魅力がいささか不足しているところが遺憾な点である」24と述べた。また、潘秀蓉 (2010)は、周作人の 1920 年代における日本古典文学の翻訳活動を検討し、周作人の訳文 は「信・達・雅」の基準を満ちた素晴らしい翻訳であると高く評価している。さらに、周 作人の日本古典文学の翻訳は、当時彼が提唱した「人の文学」、「平民の文学」に合致して

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いるものがほとんどであり、彼の人生観、女性観、児童観、恋愛観などが現れていると指 摘している。 また、潘秀蓉(2002)は、周作人の「『徒然草』抄」翻訳が、郁達夫の『徒然草』選訳 及び王以鋳の『徒然草』完訳の翻訳と異なる訳文があることに注目し、翻訳家としての周 作人の個性の一面を明らかにした。潘秀蓉(2014)は、周作人の狂言に対する評価、狂言 を翻訳した時の選択眼を検討した。そして、周作人は狂言に「支配者の権威に対する軽蔑 と反抗」という精神を見出し、それを翻訳・紹介することによって中国の国民性の改造に 役立たせようとしたのであると述べた。さらに、狂言の翻訳を以て、中国の旧劇の改良及 び新劇の発展に影響を与えようとした意図も窺えると指摘している。 以上、文学革命期における周作人の文学活動と俳句の翻訳活動の関連性に関わる先行研 究を概観してきた。周作人の文学観及び詩作に関する先行研究では、文学革命期の周作人 による新文学が如何に定義され、彼が求める価値とは何か、彼の詩作の特徴は何かを考察 したものがほとんどである。周作人の翻訳活動に関する研究では、潘秀蓉(2010)は、周 作人による日本古典文学の翻訳と彼が提唱した「人の文学」、「平民の文学」に合致してい るものがほとんどであると指摘したものの、具体的にどのように合致しているかについて の論拠が不十分なところがあり、両者の関わりに対しての検証が欠けているように考える。 つまり、周作人の文学活動と俳句の翻訳活動との関わりについての詳細な考察が出来てい ないのが現状である。 1920 年代の中国における俳句について翻訳を行ったのは、周作人のみである。俳句の翻 訳が周作人によって行われたのは、決して偶然ではない。実際、彼は 1916 年に「日本之俳 句」を発表し、初めて俳句を中国に紹介したが、俳句の翻訳そのものについては、難しい と考えて手を付けようとはしなかった。しかし、5 年後の 1921 年には「日本的詩歌」を発 表し、俳句を中国語に翻訳し始め、1924 年までの 4 年間、松尾芭蕉(1644-1694)、与謝蕪 村(1716-1784)、小林一茶(1763-1828)、正岡子規(1867-1902)などの句を次々と翻訳し た。なぜ辞めておこうと思った俳句の翻訳に挑戦する気になったのだろうか。これは、周 作人の文学志向と深く関わっていると考えられる。文学革命期における周作人の文学活動 と俳句の翻訳活動との関わりを考察することによって、周作人がどのような課題をもって 俳句の翻訳を行ったかを知ることができる。これは、周作人と日本文学との関わりについ て新たな角度から考察するものであり、中国近代文学史における周作人の役割を知る上で も非常に価値があると考えられる。

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4.本研究の構成 本研究の構成は以下の通りである。 第 1 章では、20 世紀初頭の社会情勢と文学界の状況を考察し、文学革命の展開を概観し た上で、周作人の新文学の理論的支えとなる論稿「人の文学」、「平民の文学」を分析し、 文学革命期における周作人の文学観を明らかにする。第 2 章では、1910 年代後半の新詩運 動の展開を概観し、胡適が新文学の提唱にあたって詩を選んだ理由を分析し、文学革命に おける新詩運動の意義を考察する。また、当時の新詩の創作状況を調査し、新詩理論の問 題点、周作人の文学観と彼による新詩の創作の関係を明らかにする。第 3 章では、周作人 の俳句翻訳の目的及び方法を考察し、彼による小詩の構想と俳句の翻訳との関わりを検証 する。第 4 章では、周作人による俳句の翻訳と小詩を比較検証し、1920 年代の小詩ブーム の高まりと衰退の理由を考察する。終章では、本研究の意義と今後の課題について述べる。 1 胡適は 1891 年に上海で生まれ、1914 年に米コーネル大学を卒業し、生涯で 30 以上の名誉学位を米国及 び英国より授与された。1917 年「文学革命」運動の指導的人物として、口語運動を唱導した。1920 年 3 月に詩集『嘗試集』を出版した後、「文学革命」運動から身を引き、『水滸伝』、『紅楼夢』等古典小説の 考証を行った。1938 年には駐米大使になり、1945 年には北京大学学長に任命された。1949 年に渡米し、 1957 年に渡台、台湾中央研究院院長をつとめた後、1962 年にこの世を去った。(山田辰雄、『近代中国人 名辞典』、霞山会、1995 年、pp.283-286 参照) 2 新文化運動とは、1910 年代後半に起こった反封建・新文化提唱の運動であり、五・四新文化運動とも呼 ぶ。1915 年 9 月、上海で雑誌「青年雑誌」(後に「新青年」と改題)が創刊されると、編集長の陳独秀 をはじめ、易白沙、呉虞などが、封建家族制度とそれを支える儒教道徳を批判し、さらには孔子批判を 激しく展開した。一方で彼らは、社会改革のためには個人の独立が不可欠だとして、自由平等、個性解 放、社会進化などの西欧近代思想の紹介・宣伝につとめた。「新青年」を中心とするこの運動を総称して 新文化運動と呼ぶ。(天児慧・石原享一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎編、『岩波現代中国事 典』、岩波書店、1999 年、p.577 参照) 3 周作人は日本文化に詳しい。彼は日本人女性と結婚し、日本文化に関するエッセイ「訪日本新村記」、「遊 日本雑感」等数多く書いた。日本文学の紹介と翻訳には、『古事記』、『枕草子』、『日本狂言選』、『浮世

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風呂』などがあり、日本文学の翻訳者としてよく知られている。彼は中国だけでなく、日本においても よく知られた人物であり、『周作人先生のこと』の中で、谷崎潤一郎、佐藤春夫がそれぞれ周作人を語 り、評価していることがある。 4 俳句が再び注目されるようになったのは、俳句の翻訳が再び始まった 1979 年以降であり、その影響で 漢俳という現代詩が生まれた。 5 李鐘振(2004)、「比較文学の観点から見た韓国・日本・中国近代文学の特徴」『グローバル化時代の多 元的人文学の拠点形成』(辛夏寧訳)、京都大学大学院文学研究、p.403。 6 中国現代文学を近代・現代・当代と細分化している。即ち、1840 年のアヘン戦争から 1910 年代後半の 五四新文学運動期までを近代文学、1949 年の中華人民共和国建国までを現代文学、建国以降を当代文学 と区分するのが一般的である。 7 呉紅華(2013)、「周作人の書簡体散文と文人尺牘」『周作人と日中文化史』、勉誠出版、p.111。 8 李鐘振(2004)、前掲論文、p.394。 9 内山眞理子訳(2008)、『迷い鳥たち』、未知谷、p.2。 10 川名澄訳(2009)、『タゴール詩集 迷い鳥』、風媒社、p.155。 11 劉雨珍(1995)、「小詩運動」『日中文化交流史叢書 6』、大修館書店、p.121。 12 呉紅華(2005)、『周作人と江戸庶民文芸』、創土社、p.189。 13 周作人(1923)、「日本的小詩」『晨報副刊』。(鐘叔河編、『周作人散文全集 3』、広西師範大学出版社、 2009 年、p.124 に収録) 14 伊藤徳也(2013)、『周作人と日中文化史』、勉誠出版、p.5。 15 韓玲姫(2011)、「周作人の『小詩論』―小詩運動と俳句の影響を中心に―」『国際文化表現研究』第 7 号、p.204。 16 于耀明(2001)、『周作人と日本近代文学』、翰林書房、p.5。 17 周作人が日中戦争中に対日協力者として、華北政務委員会教育総署弁などの職に就いたことがあり、「漢 奸」として認知されていた。(霞山会編、『現代中国人名辞典』霞山会、1972 年、p.407 参照) 18 伊藤(2012)、前掲書、p.2。 19 山口早苗(2014)、「日中におけるこれまでの周作人研究について」『2014 年度京都大学南京大学社会学 人類学若手ワークショップ報告論文集 』、p.156。 20 同上、p.157。 21 伊藤(2012)、前掲書、p.2。

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22 小川利康(1990)、「五四時期の周作人の文学観―W・ブレイク、L・トルストイの受容を中心に―」 『日本中国学会報』42 号、pp.227-241。 23 秋吉収(2012)、「魯迅『影的告別』に去来する周作人の影」『言語文化論究(29)』、p.91。 24 呉衛峰(2009)、「白話か文言か:日本古典詩歌の中国語訳について(その二)―周作人の場合―」『東 北公益文科大学総合研究論集』第 17 号、p.51。

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第 1 章 中国の近代化過程における文学革命と周作人の文学活動 1.はじめに 清末民初(19 世紀末から 20 世紀初頭)の中国は、内戦や欧米列強からの侵略などの問 題を抱え、社会情勢が不安定であった。そのような状況の下で、当時の文学者らは文学運 動を通じて自国を救う方法を模索し、胡適と陳独秀を中心に文学革命が起こった。 このような動きの中で、1920 年代に入り、俳句も翻訳され中国に紹介されるようになっ た。俳句を最初に中国に紹介したのは周作人である。彼は新文化運動の先駆的思想家であ り、1906 年から 5 年間日本に留学し、その間、日本文学に深く関わった。俳句の翻訳につ いては、彼は 1921 年には俳句を中国語に翻訳し始め、1924 年までの 4 年間、松尾芭蕉、 与謝蕪村、正岡子規らの句を次々と翻訳した。これをきっかけに、俳句が当時の中国の知 識人の間で広く知られるようになった。それまで近代中国では周作人を除いて、俳句を翻 訳する人はほとんど存在しなかったが1、なぜ突如として周作人は俳句を翻訳するように なったのだろうか。それは、当時の時代背景と深く関わっていると考えられる。 そこで、本章では俳句が中国語に翻訳された当時の社会情勢と文学界の状況を考察し、 周作人がいかなる文学観を備えていたのか、どのような課題をもって自らの文学活動を行 ったのかを明らかにする。 2.日清戦争と周作人の日本留学 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての中国では、まさに激動の時代であった。周作人に よる俳句の翻訳は、1921 年という特定の時期から始まっているが、これは当時の社会変化 と密接な関係があると考えられる。そこで、当時の社会情勢の中で、周作人が俳句を翻訳 し始めたときに何が起きていたかを検証する。 2.1 日清戦争 19 世紀半ば帝国主義膨張の時代に、日中両国は欧米列強によって開国を迫られ、次第に 欧米列強からの侵略という危機に直面した。そうした動きの中で、清国とイギリスとの間 にアヘン戦争が起こり、戦争に勝利したイギリスは、清国と不平等条約である南京条約を

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結び、香港を手に入れた。 アヘン戦争後の悲惨な中国の姿を目の当たりにした当時の日本は、欧米列強の進出に対 抗するため、早急に強力な中央集権体制を確立することの必要性を痛感し、それが 1868 年 の明治維新に結実する。明治政府は、日本を欧米と肩を並べる強国にするために必要なさ まざまな制度の改革を行った。その改革の主要なポイントは、「富国強兵」、「殖産興業」の スローガンの下で、欧米列強にならい、近代的で産業の盛んな国家づくりをするところに あった。このスローガンの下、日本は独立を守り、アジアで最初に欧米列強の進出に対抗 できる国家となった。改革に成功した明治政府は、日清・日露戦争を経て、領土の拡大や 植民地の獲得を果たし、欧米列強の仲間入りを果たした。 このように、日本は明治維新により短期間でアジアの強国となった。一方、日本とほぼ 同じ時期に開国を迫られた清国は、欧米列強の侵略に対抗することができず、亡国の危機 にあった。アヘン戦争に敗戦した後、清国における欧米列強の侵略はさらに深刻な状態と なり、列強によって清国の分割が進められた。その上、地方に軍閥が割拠するなど、極め て不安定な状態が続いた。 このような動きの中で、1894 年から 1895 年にかけて日清戦争が起こった。その背景に は、当時の東アジアの国際情勢の焦点となる朝鮮の支配権があった。1894 年に朝鮮の東学 党の乱(甲午農民戦争)に清国が出兵したのに対し、日本も居留民保護などを名目に出兵 し、7 月に日清両国が開戦した。そして、8 月に黄海海戦で日本は勝利を収めて戦局の大勢 を決し、1895 年 4 月に下関条約を締結した。この下関条約において、清国は朝鮮の独立を 承認し、日本に遼東半島及び台湾、澎湖諸島を割譲し、賠償金 2 億両を支払うことになっ た2 この日清戦争の敗北は、当時の中国人にとって、自国の文化影響圏とみなしていた日本 にすら敗北したという大きな衝撃を与えるものであった。清国政府内には、アヘン戦争以 降自国の文化や政治に対して改革を求める動きが顕在化するようになり、欧米からの侵略 の危機を打開するため、「中体西用」3のスローガンの下で、西欧の技術・制度の移入によ る富国強兵を目指す洋務運動が進められた。しかし日清戦争の敗北は、この洋務運動の限 界を示すものであった。さらに、なぜ東洋の島国である日本が中国に勝利できたのか、と いう問題を考えることを通して、多くの清国の知識人は日本に目を向け、母国を救う方法 をそこに求めるようになった。そのような動きが、「立憲君主制」を目指した「変法自強」 という改革へとつながっていたのである。

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區建英(2009)は「中国の近代国家形成意識の発生に触媒作用を果たしたのは、アヘン 戦争から半世紀もたった後の日清戦争である」4 と指摘しているように、1895 年の日清戦 争の敗北は当時の中国人に亡国の危機をさらに実感させると同時に、主権を守っていち早 く近代国家を作り上げる大切さを認識させた。そのような中で、先行して欧米にならい近 代的中央集権国家を成立させるために、日本に目を向けるようになり、「変法自強」という 明治維新をモデルとした政治改革が試みられるようになった。そして、日本を通じて欧米 の制度や文化、技術を修得し、帰国後近代国家建設に資する人材を育成するために清国に よる日本への留学生の派遣がはじまった。 2.2 周作人の日本留学 2.2.1 20 世紀初頭の日本留学ブーム 中国人の日本留学は清末の変法運動の中で展開した。日清戦争敗北後、清では政治制度 の改革だけでなく、近代教育の導入も主張され、この近代教育の補助手段として海外留学、 殊に日本への留学が必要とされた。当時、日本留学を主張した人物の中で最も影響力を持 っていたのは、湖広総督張之洞(1837-1909)である。張之洞は 1898 年に『勧学篇』にお いて、教育近代化の具体策を提示した。その中で、留学の効用及び日本留学派遣の利点に ついて以下のように述べている。 洋行の 1 年間は西洋書籍を読む 5 年間に勝る。外国の学校に入学する 1 年間は、中国の学 校での勉学の 3 年間に勝る5。(筆者訳) 遊学の国といえば、西洋は東洋に如かず。一、距離が近く、交通費の節約ができるので、 多くの人を派遣できる。一、文化的に近いため、考察が容易である。一、日本語は中国語 と近いため、理解しやすい。一、西洋の学問はかなり難しい。しかし、日本人はすでに西 洋の重要な学問を修得している。中国と日本との情勢風俗は似ており、倣いやすい。従っ て、半分の苦労で倍以上の効果をあげることができる。その上でさらに高いレベルかつ詳 細な学問を求めたいと望むなら、西洋に留学すればよい6(筆者訳) 張之洞はこのように、留学生派遣の必要性を強調したとともに、日本は中国と地理的に 近く、漢字を使った共通の文化を持った国であるほか、中国がいち早く近代国家を作り上

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げる場合、まず西洋の学問を修得している日本で学び、さらに詳細な学問が必要ならば、 欧米に再度留学すればよいなどの理由を挙げ、日本への留学を熱心に鼓吹した。このよう な日本留学についての見方は当時の知識人の間に共通したものだと言えよう。注目すべき は、彼らが日本留学を求めた背景には、日本の文化ではなく、日本の西洋から学んだ近代 的学問を速成的に修得することにあったことが窺える。そのような背景の下、清国は積極 的に日本へ留学生を派遣するようになった。1886 年に清国政府より 13 名の国費留学生が 派遣され、以降、私費留学生も日本に渡るようになり、1906 年には、在日留学生は 1 万人 以上にのぼり、20 世紀初頭日本への留学はブームとでもいうべきものであった7 2.2.2 周作人の日本認識 清国留学生の中には、文学者として最も知られていた魯迅のほか、中国文壇においてデ ビューしてから知日家として高い評価を受けたその弟、周作人もいる。周作人は 1905 年 末海外留学試験に合格し、1906 年から清国留学生として派遣され、日本へ留学することに なった。最初は中華留学生会館の日本語講習班で学び、その後法政大学予科で予備教育を 受け、2 年後の 1908 年に立教大学に入学し、そこで英文学と古典ギリシャ語を修得した8 1909 年に下宿屋で料理の手伝いをしていた日本人、羽太信子と結婚し、2 年後の 1911 年に 妻を連れて帰国した。 前述したように、明治維新と日清戦争から大きな影響を受け、多くの清国知識人は西洋 の学問を修得するために日本へ留学するようになった。そういう中で、周作人の日本留学 の目的はどのようなものだったのか。それについて、彼は 1960 年に書いた回顧録「最初的 印象」において以下のように述べている。 私たちが日本へ留学に行ったのは、日本が明治維新に成功し、速成的に西洋文明を学び得 たからだった。しかし、私たち日本留学生の考え方は必ずしも一致しているわけではなか った。一部の人は日本の長所は外国の文化を容易に吸収できるという一点だけにあり、留 学するのは日本人が西洋から学んだ拳法を盗み取るようなもので、形通りに真似するだけ でよいのだと考えていた。しかし私は異なる考え方をしている。日本が外国の文化を容易 に模倣するのは確かに日本の長所の一つだが、必ずしもそうだとは限らない。例えば、日 本が明治維新の時期にはドイツに学んで、そして現在はアメリカに学んでいるのだが、学 んだことには日本の元の模範がある。従って、日本が模倣して学んだものに注目するより、

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日本の特別な生活習慣、即ち日本の所有・固有しているもののほうがはるかに注目に値す るのではないだろうか9。(筆者訳) 周作人の文面から分かるように、来日した清国留学生の多くは、日本の利点を西洋の学 問を容易に取り入れることにあったと捉えていた。それ故、日本を西洋の近代的学問を習 う場としか考えておらず、日本において西洋の知識を修得することだけを目的とし、日本 そのものを学ぼうとはしないということが読み取れるだろう。しかし、周作人の見方は彼 らと異なる。周作人は日本の利点を日本の特別な生活習慣、日本ならではのものとして捉 え、西洋の学問を習うよりまず日本文化に注目すべきと考えていたのである。 さらに、周作人がどのように一国の文化を理解するのかに関して、以下のように述べて いる。 一国民の、それもとくに外国の文化を理解するのに、単にうわべを眺めるだけでは駄目 だと思う。その感情生活に着目し、自然と人生に対する態度の幾分かを理解することが できてはじめて、少しでもわかったといえるのである。(中略)もし捲土重来を期するな ら、民俗学から入ってゆくほかないのであった。古今の文学芸術の精華は、結局のとこ ろ限られた時代の限られた人々の表現にすぎないので、それと現実とを突き合わせてみ ても、往々にして何事もはっきりしては来ぬばかりか、とんだ見込み違いさえしかねぬ。 もしも礼儀風俗を中心に据えてその自然ならびに人生観を探り、さらに進んで宗教情緒 を理解するところまでゆけば、ようやく六七分の目鼻はついたことになり、その国の事 情を納得しうる希望が出てこよう。愚生はあいにく信仰心を欠き、宗教方面より入るす べを知らぬが、残る民俗に関しては、なおあれこれと知りたく思う 10。(木山英雄訳) 周作人はこのように、一国の文化を理解するには、古今の文学芸術の精華ではなく、民 俗学、さらに宗教に着目する必要があると唱えていた。しかし、彼は宗教的信仰心を持っ ていないこともあり、民俗学に強い関心を持っていたのである。民俗学とは 1 つの民族の 伝統的な生活文化・伝承文化を研究する学問であり、人々の日常生活に深く関わっている ものである11。日本の民俗とは古くから伝承してきた日本人の風俗・習慣のことであり、 日本の日常生活の中に現れていると言えるだろう。周作人は日常生活の中でどのように日 本を受け止めていたのか。彼は 1942 年に「留学的回憶」において、日本式の生活に対する

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印象について以下のように述べている。 最初日本に行った時は、魯迅と一緒に暮らしたが、私たちの東京生活は完全に日本式だっ た。留学生の多くは日本の生活に慣れなくて下宿で立机や椅子を使い、寝台が買えないの で戸棚に寝たり、食事も熱いのでなければ食べなかったりした。こういう連中を私たちは いつも嘲ったものだ。(中略)私たちの住んでいたのは普通の下宿屋だった。(中略)私た ちは学校へ行く時は学生服で、普段は和服に袴をつけ、下駄を履いた。雨の日に革靴を履 いたが、後に足駄を履くようになった。(中略)要するに、衣食住ともに日本式の生活を 送っていたが、不自由はしなかったし、慣れれば面白くさえなった12。(筆者訳) 周作人はこのように、日本の生活に馴染めない多くの中国留学生と異なり、兄の魯迅と ともに和服を着て努めて日本式の生活を送っていた。そして、そのような生活方式から情 趣を見出し、日本の生活に強い愛着を持っていたことが読み取れる。その背景には、先述 した彼の日本留学についての見方、即ち日本へ来て技術ばかり習っては上面を撫でたにす ぎず、生活から体験してかからないと日本のことは理解できないという考え方があること が分かる。こうした日本への関心が、彼を後に日本の文学、殊に日本生活に深く根差して いた庶民的文芸、俳句に目を向けさせていったと言えるのではないだろうか。 周作人はこのように日本のこと、換言すれば日本の文化は民俗から見て初めて分かると 判断し、庶民的な文芸の体験と研究に没頭し、様々な文芸活動を行った。当時、彼の下宿 していた東京の本郷西片町には寄席があり、暇なとき落語などをよく聞きに行った13。そ こからさらに俳句に興味を持つようになり、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶の句を熱心に 読んでいた。また、日本にいる間、当時の文壇の人々と様々な交流をし、ほぼ毎日のよう に『読売新聞』や『朝日新聞』、さらに文学にかかる雑誌も購読していたことは『周作人日 記』から分かる。雑誌や本の出版については、1906 年に魯迅らと協力して西欧文化を紹介 する目的としての雑誌『新生』14の創刊を試みたが実現せず、1907 年に魯迅と共訳になる イギリスの小説『紅星佚史』15 を公刊した。1908 年にはポーランドの作家シェコブィッチ の中編小説『炭画』を翻訳したが、出版社の商務印書館から「古文を読んでいるようで、 分かりにくい」16という理由によって送り返さられてしまった。1909 年に魯迅と共に被圧 迫民族の作品『域外小説集』を翻訳し、一・二巻を出版し、その中には周作人の翻訳した 13 の短編小説が含まれている。こうした周作人と兄の魯迅との翻訳活動は中国において最

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も早い時期に外国文学を紹介したものとして評価できよう。そしてこのような経験が、帰 国後の日本文学作品の翻訳へとつながっていった。1925 年に発表した「日本と中国」にお いて、彼は日本文学と中国文学との関わりについて、以下のように述べている。 事実に照らして、ここ二十五年間ほど歩んできた道がほぼ日本のと同じであって、我々は 中華民国の新文学が既に黄金時代を迎えたように思っているのだが、実は今になってよう やく明治三十年(1897)のあたりまで辿りついたのである。日本が我々の代わりに古代文 化を保存するとともに、我々の代わりに新文化も実験してくれた。これらは、充分に我々 の利用に値するのである17(筆者訳) このように、周作人は日本がすでに古代文化の保存と新文化の実験を中国の代わりにや ってくれたと述べ、日本文学は中国新文学を築き上げるにあたり、重要な役割を持ちうる ものであると考えていた。事実、帰国後の彼は中国新文学の提唱に力を入れた一方、日本 文学の紹介者としても活躍し、俗謡、俳句を皮切りに、数多くの日本の文学作品を次々と 中国に紹介・翻訳した。 3. 近代国家への模索:辛亥革命から文学革命へ 中国の近代文学は、新文化運動期の文学革命から始まるというのが定説となる。周作人 は中国の近代文学の形成過程の中でどのような役割を演じたかを考察するにあたって、新 文学が最初に提唱された時期について言及する必要があると考えられる。ここでは、1917 年に起きた文学革命に焦点を当てて、当時の社会情勢との関わりを考察した上で、胡適と 陳独秀らが提唱した新文学はどのようなものかを明らかにしたい。 3.1 辛亥革命と五・四新文化運動 20 世紀初頭、清国末期の中国では、帝国主義列強によって奪われた鉄道敷設や鉱山採掘 などの利権を回収することをめざした運動が活発になった。代表的な例は、1904 年にアメ リカからベルギーへ売られた粤漢線の敷設権が、沿線地域の地方エリートと当時の湖広総 督張之洞との協力によって、1905 年に買い戻された。この買い戻された敷設権によって民 営の鉄道会社が各地で設立されるようになったが、それに対して清国政府は、1911 年 5 月 に鉄道の国有化政策を宣言した。その目的は、鉄道の敷設権を担保とした外国からの借款

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のほか、地方エリートの自治的な動きに対する統制の強化でもあったと考えられる。それ に対して、中国の各地では民族資本家や学生が中心となって国有化反対の暴動が起こった。 その中で最も激しい暴動として、1911 年 8 月に起こった四川暴動が挙げられ、これが辛亥 革命の発火点となった。当時、革命に参加したのは、職業革命家を含む知識人、工商業や 華僑など民族資本家、さらに労働者・農民などであり、さらに、1911 年に勃発したこの革 命は、そのリーダーである革命派の孫文(1886-1925)が最初に広州に旗を揚げてから 16 年も経ていた18 その後、中国各地では革命運動が活発に起こり、湖北、湖南、陝西を皮切りに、13 省が 相次いで清朝からの独立を宣言した。そして、孫文は各省の代表会議の推薦を得て南京仮 政府の臨時大総統に就任し、翌年の 1912 年 1 月 1 日にアジア初の共和国、中華民国の建国 宣言を行った。しかし当時、北京にはまだ清朝政府が存在し、その実権を握る軍閥である 袁世凱(1859-1916)は革命軍を攻撃しながら、孫文の南京政府と交渉を行っていた。軍事 的基盤が弱かった孫文らの革命派は、清国を廃し、共和政を維持するという条件で、臨時 大総統の座を袁世凱に譲った。そして、袁世凱は 1912 年 2 月に清朝の宣統帝を退位させ、 3 月に臨時大総統に就任した19。 このように、孫文の手によって建国が宣言された中華民国は、専制政体を終末に導きし たものの、社会構造の変革までに至らず、封建勢力はまだ充分に除去されなかった。それ は、軍閥の袁世凱が、臨時大総統の座を横領し、旧官僚組織をそのまま新しい時代に引き 継いだためである20 中華民国が建国後、欧米列強に加え、富国強兵政策によって急激に力をつけた日本も中 国進出を強めるようになった。第一次世界大戦勃発後の 1915 年に、袁世凱は日本の大隈重 信内閣とが求める 21 カ条要求を受け入れた。このように、辛亥革命後、帝国主義の中国に 対する侵略は緩和されないばかりか、封建勢力と見られる軍閥勢力は帝国主義の扶植によ って、さらに強固となったのである21 その後、第一次世界大戦は連合国の勝利に終わり、戦勝国の一員に列した中国は、1919 年 1 月にパリ講和会議に参加した。会議で中国代表団はドイツが保有していた山東省の旧 権益の日本への移譲を承認するなどした 21 カ条要求の無効を訴えたが、拒否された。これ が中国民衆の激しい反発を買い、1919 年 5 月 4 日、北京の学生数千人が天安門広場でデモ を行い、パリ講和会議の山東に関する条項の承認の拒否や親日派要人の罷免などを要求し、それ に続いて全国各地で反帝国主義運動が行われた。これが五・四運動と呼ばれる一連の社会

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運動である。従来の政治運動が革命派や政客・軍閥の勢力争いにとどまったのに対して、 五・四運動が学生、商人、労働者など民衆運動として進められ、中国歴史上画期的なもの だと高く評価されてきた。さらに、この運動を通して民衆の力を実感した知識人や青年学 生は、全国各地に革新を求める結社を作り、多くの雑誌を発刊して平易な口語文体で民衆 に自分たちの主張を訴えた。こうした 1910 年代後半に起こった一連の社会運動は、政治の 面にとどまらず、文化の面からも積極的に革新への実践活動を行い、総称して五・四新文 化運動と呼ばれる。 3.2 文学革命の勃興 先述したように、1911 年に発生した辛亥革命は、清国を倒したものの、封建勢力は帝国 主義の扶植によって、さらに強固となった。そのような状況の中で、当時の社会では封建 勢力に反対する新文化運動が始まり、政治的な面においては学生や農民の間で起きた五・ 四運動が挙げられ、文学的な面においては知識人らを中心に起きた文学革命が挙げられる。 ここでは、文学革命に焦点を当てて、陳独秀と胡適らが提唱した新文学とはどのようなも のであったのかについて明らかにしたい。 3.2.1 白話22を正統とする文学改良 文学革命の狼煙をあげたのは胡適である。1910 年、彼はアメリカ留学生の試験に合格し、 コーネル、コロンビア両大学で文学や哲学を学び、留学中から文学に興味を持つようにな った。1915 年に、彼が中国の文学について、「口語は生きた文字であり、古文は半死の文 字である。そのため、口語は完全に文言に取って代わるべきであり、口語文学は当然文言 文学に取って代わるべきだ」と述べ、それまで文学的表現用語の正統とされていた文語の 代わりに口語を使用すべきことを提案した23 胡適のこうした提案の背景には、当時の文学界に鴛鴦胡蝶派24という文学グループ、ま た、翻訳家である林紓(1852-1924)が活躍したことが挙げられる。鴛鴦胡蝶派の作品は、 中国の六朝以来の修辞を最も重んじる四六駢儷体という文体を用いて創作されたが、林紓 による翻訳された作品は、桐城派の達意を重視する周・漢時代の文体を用いて創作された。 このように、当時の文壇には、古典文学の古文を踏襲した作品が主流であり、自由と民主 主義の国と思われていたアメリカから、胡適が自国に向かって口語文学を提案したのは、 彼が異文化と接触する中で、民主主義制度における自由的な生活様式を実感するとともに、

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自国の封建的儒教倫理の在り方を批判的に見据え、それによって支配された封建的社会を 破壊しようとしたことを目指したと考えられる。 陳独秀は胡適の提案に賛同の意を表し、彼にそれを一文にまとめるよう勧めた。そして、 1917 年 1 月に留学中の胡適は陳独秀が主宰する『新青年』1 月号において「文学改良芻議」 を発表し、文学革命の口火を切った。その中で、胡適は文学改良の方法を 8 つの項目に要 約して提案した。以下はその内容である。 一曰,須言之有物(内容のあることをいうべし)。 二曰,不模仿古人(古人の模倣をせず)。 三曰,須講求文法(文法に適う文章を書くべし)。 四曰,不作无病之呻吟(理由なくむやみに深刻がらず)。 五曰,務去爛調套語(陳腐な常套語は必ず避けるべし)。 六曰,不用典(典故は用いず)。 七曰,不講対仗(対句にとらわれず)。 八曰,不避俗字俗語(俗字俗語を避けず)25 (筆者訳) 胡適はそれぞれの項目において、具体例を挙げながら中国の古典文学の問題点を指摘し た。その中で、「内容のあることをいうべし」、「古人の模倣をせず」、「理由なくむやみに深 刻がらず」は、いずれも中国文学の内容に関する指摘であり、残りの「文法に適う文章を 書くべし」、「陳腐な常套語は必ず避けるべし」、「典故は用いず」、「対句にとらわれず」、「俗 字俗語を避けず」は、皆中国文学の形式に関する指摘であると言える26。つまり、胡適は 従来の中国の文学には、内容と形式の双方において重大な問題が存在すると判断したので ある。ただ、その中で内容の面について取り上げた問題点は 3 つの項目のみであるのに対 して形式の面は 5 つの項目であることから、彼が内容より形式の面の改良に強い関心を持 っていたことが窺える。その理由については、「中国新文学運動小史」(1935)において、 以下のように記されている。 我々は、新文学にはどのような内容があるべきかについて言及する余裕がなかった。世界 の新文芸はまだ中国に紹介されず、社会上のすべての西洋文学作品は林紓によって翻訳さ

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