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人力車夫の新詩の素材として取り上げた理由

第 2 章 胡適における新詩運動の提唱と周作人における新詩の詩作

4.1 人力車夫の新詩の素材として取り上げた理由

文学革命期に新詩の中で最も集中的に取り上げられた素材として、人力車夫が挙げられ る。ここでは、新詩の作者らの多くが、なぜ人力車夫を取り上げて創作の題材にしたのか を考察する。

4.1.1 文学革命期における人力車夫の社会的位置

人力車は明治初期に日本で発明されたものであったが、1874年に初めて中国に伝わった。

中国で最初に人力車が伝わったのは上海であった。日本から伝来した人力車は、中国の輿 という伝統的な人を運ぶ乗り物より、人力を節約できるという利点があったため、1910年 あたりから北京、広州などの大都市において不可欠な交通手段となっていた39

胡適と周作人が生活していた北京に人力車が姿を見せたのは1900年頃であり、流行した 最盛期は1910年代から1930年代までの20年間であった。邱国盛(2003)によると、当時 の北京では、「人力車夫は北京総人口の7%を占めており、9人に1人の男性が人力車夫に 従事していた」40。つまり、北京では人力車の普及に伴い、1910年代から1930年代にかけ て、人力車夫は多くの労働者が従事していた職業であったことが分かる。北京に生活して いた人、特に知識人らにとって、人力車は極めて身近な乗り物であり、人力車夫は最も接 触する機会の多い労働者であったことが考えられる。

しかしながら、1920 年代になると、知識人の間で人力車廃止論が唱えるようになった。

その背景には、次の2つが考えられる。

1つは、第一次世界大戦後に当時の北京大学学長の蔡元培(1868-1940)により「労工神 聖」という労働者尊重のスローガンが提唱されたことが挙げられる。1918年11 月、ドイ ツの降伏により第一次世界大戦が終了した。連合国の一員として参戦した中国では、帝政 を敷くドイツへの勝利を、連合国の掲げた「デモクラシー」の勝利として捉えた。このよ うな状況の中で、1918年11月16日、蔡元培が「労工神聖」を高らかに唱えた講演会が行 われ、この講演会の内容は『新青年』第5巻第5号に掲載された。蔡元培はこの講演の中 で、「私らは自分の労働の価値を認める必要があり、労働は神聖である」と呼びかけた。以 後、『新青年』をはじめとする新聞や雑誌において、労働者の過酷な労働状況や貧しい生活 実態が報じられるようになり、最下層の労働者と思われる人力車夫が世間の注目を集める ようになった。

2 つ目は、当時、洋行帰りの知識人らが人力車夫の存在を強く批判したことが挙げられ る。例えば、1930 年代北京大学学長の蒋夢麟(1886-1964)は、1908 年アメリカへ留学し、

1917 年コロンビア大学の博士学位を取得して帰国した。彼は中国社会で生活する人間を五

つの階級に分類し、「五つ目の階級、つまり最下層の階級は、人力車夫である」41と述べ、

人力車夫について、次のように語っている。

人力車夫を憐れに思う。彼らはお金を稼ぐために、悲惨な生活をしている。私がアメリカ で得た尺度から見ると、これは非人道だ。時には、野獣のような外国人が人力車夫を犬の ように蹴ったり罵ったりしているのを見たことがある。――実は「犬のようにったり罵っ たりする」という言い方は間違っている。それは、アメリカでは犬を蹴ったりしている人 を見たことがなかったからだ。この情景を見ると、私の血が煮えたぎり、これらの犬畜生 に立ち向かいたいが、彼らの治外法権を思うと、この怒りを抑えるしかない42。(筆者訳)

蒋夢麟はここで、帝国主義列強の被害者としての人力車夫の様子を呈していた。彼はア メリカ人が人力車夫を「犬のように蹴ったり罵ったりする」ということに一種の屈辱を感 じ、アメリカの文化的視点から見ると、これは非人道であると指摘した。周知の通り、ア メリカでは人力車のような人が引く乗り物が日本や中国ほど普及しなかった。その理由と して、剣持武彦(1992)は、欧米人の家畜を群れとして管理していた遊牧民族の動物への 強い差別感を挙げている。留学を通じて西洋式の教育を受けた蒋夢麟は、牛馬の代わりに 人間が車を引くことに衝撃を受けたに違いない。つまり、蒋夢麟のような洋行帰りの知識 人らの目には、人力車夫という職業の存在が人道に反したものとして映ったと考えられる。

4.1.2 胡適における新文学の創作素材の提唱

1918年、胡適は『新青年』第4巻4号に「建設的文学革命論」を発表した。その中で、

新文学の取り上げるべき内容について、以下のように述べている。

材料の範囲を拡大する。官界、妓院、狭量な社会といった三つの面だけでは不十分である。

今日の貧民社会、例えば工場の男女労働者、人力車夫、内地の農民、各地の行商人や小商 人たちのあらゆる苦しい状況は、これまで文学において一定の位置を占めることはなかっ た。(中略)このような様々な問題はすべて文学の材料として取り上げることができる43

(筆者訳)

胡適はこのように、工場の労働者、人力車夫、農民、商人を新文学の創作素材の具体例 として挙げている。先述したように、新詩の創作に関して、胡適は白話を用いて「新内容」、

「新精神」を含む詩を創作することを呼びかけた。彼が考えた「新内容」の1つは、まさ

に労働者の姿を描くことではないだろうか。実際、胡適は1918年『新青年』第4巻1号に

「人力車夫」というタイトルの新詩を発表し、労働者の中でとりわけ人力車夫に強い関心 を抱いていた。その背景には、当時の社会では、人力車夫が最下層の労働者と思われてい たことが挙げられる。以後、文壇では人力車夫が新詩創作の素材として盛んに取り上げら れるようになった。