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科博本館は平成 20 年(2008)6 月 9 日付で重要文化財に指定された。その際に「月刊文 化財」に次のように説明されている。これをふまえて、改めて科博本館の文化財的価値に ついて確認する。(※下線部は筆者加筆)

「①旧東京科学博物館本館(国立科学博物館日本館)は、東京都台東区・上野公園内に 位置し、国立西洋美術館の北方、日本学士院の西方に西面して建つ。文部省博物館に起源 をもつ東京博物館の震災復興施設として建設されたのが東京科学博物館の本館であり、昭 和三年四月に起工、同六年九月に竣工し、同年十一月二日に正式開館した。②設計は文部 省大臣官房建築課で、文部技師糟谷謙三が担当し、建築課上野出張所を設けて工事監督に 当たった。施工は大林組である。

糟谷謙三は明治四十一年(1908)名古屋高等工業学校建築科を卒業し、文部技手から大 正八年(1919)文部技師となり、文部省大臣官房建築課松本出張所長などを務め、昭和三 年三月に上野出張所就いた。東京科学博物館建築工事の目途が立った昭和六年四月営繕管 財局技師に転任した。

旧東京科学博物館本館は、③鉄筋コンクリート造一部鉄骨鉄筋コンクリート造、地上三 階一部四階地下一階建、建築面積 194.46 平方メートルで、④飛行機型の平面形状を採り、

機首部を車寄玄関とし、胴体と主翼の交差部にドームを戴く吹き抜けの中央広間を設け、

主翼部に陳列室、尾翼部に講堂、図書閲覧室、事務室等を配する。⑤外装は、釉薬掛けス クラッチタイル張を基本とし、⑥正面車寄および、建物周囲の腰、蛇腹、笠石等に稲田産 の花崗石を廻す。

平面は、中央広間をエントランスホールとし、吹抜けの二・三階には回廊を廻し、南北 に陳列室、東側に中央階段、西側に二階は貴賓室、三階は記念室を配する。三階陳列室は 外周に窓を設けず、トップライトから採光するつくりとする。⑦中央広間上部の四面およ び展示棟階段室天井には半円形のステインドグラスが設置されている。これは小川三知が 主宰する小川スタジオの製作品で、意匠は伊東忠太とされる。陳列室の南北端部は半円形 平面の階段室とし、地階は、車寄下を団体携帯品置場、陳列室下を標本室とする。

尾翼部一階は、東西中央に玄関、北面中央に通用玄関を設け、北翼に委員室、調査室等、

南翼に館長室、応接室、会議室、事務室等を配する。二階は、北翼の北端を講義室、南翼

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を講演映写室(講堂)とし、三階北翼には図書閲覧室を設けるほか、北翼の屋上には天文 鏡(赤道儀室)を設置する。地階は、公衆食堂、汽罐室等に充てる。

旧東京科学博物館本館は、展示室はもとより、⑧映写室付きの講堂や天体観測の赤道儀 室を備えた博物館であり、わが国最初の本格的な社会教育施設としての博物館建築として 高い歴史的価値を有する。また、均整の取れた立面構成を持つとともに、中央広間、貴賓 室、館長室、講堂等室内意匠の密度も濃く、震災復興期における文部省営繕の設計水準を 示す建築作品として重要である。」

① 「旧東京科学博物館本館(国立科学博物館日本館)は東京都台東区・上野公園に位置 する。」とある。明治 10 年(1877)には現在の東京芸術大学の敷地内に教育博物館が 竣工している。また、これに少し遅れて、明治 14 年(1881)に東京国立博物館の旧本 館が建築され、この博物館の付属施設として明治 15 年(1882)に上野動物園が開園し ている。上野公園は、明治 23(1890)に宮内省の管轄となるが、大正 13 年(1924)に 上野公園と上野動物園は東京市に下賜され、より市民に親しまれる場所となった。明 治期から既に上野公園内には博物館や動物園など文化施設が作られていた。各施設で は展示などの公開が行わており、旧東京科学博物館もそのような環境に施設を置くこ とが相応しいと考えられたのであろう。

上野恩賜公園内には東京帝室博物館や上野恩賜動物園があったが、昭和初期に科博 本館が完成したことは、後の西洋美術館や文化会館などの文化施設の集積に繋がり、

また、単に遊山のための公園であった場所を文化や芸術における施設の集合を方向づ けるきっかけになったと考えられる。

本博物館としては、現在の場所から移設することは文化財的価値を損なうことと考 える。したがって、科博本館は現在地で博物館として存続することに意味がある。

② 「設計は文部省大臣官房建築課が行った」とあるが、文部省の営繕組織 は明治 18 年

(1885)に活動を開始した組織で、文部省所管の営繕事業を行ってきた。なかでも国 立の学校施設を中心に活躍しており、昭和初期における文部省営繕組織は学校建築の 設計等が主流であり、後に設計が標準化し、装飾性へのこだわりを無くす以前の文部 省営繕組織が設計した博物館建築として、その技術や意匠性の高さに価値がある。

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③ 「鉄筋コンクリート造一部鉄骨鉄筋コンクリート造」とあるが、科博本館の前身の建 物は関東大震災で倒壊したため、耐震性を考慮して鉄筋コンクリート造を主な構造と した。ただし、中央広間や大階段室、講堂など、鉄筋コンクリートでは耐震性が劣る 部分を見抜き、部分的に鉄骨鉄筋コンクリート造の採用が考えられた。震災復興期の 建築構造として価値がある。

④ 「飛行機型の平面形状」とあるが、秋保が目指した展示機能と事務機能を一連の建物 の中に配置した際に、主翼部分に展示室、尾翼部分に事務室と講堂等を備え、胴体部 分がこれらの接続部分となり両方を繋ぐ役割を担っている。

本博物館における機能として必要な要素をまとめる際に、当時の科学技術の象徴と 言われる飛行機を平面形に採用し、また、その平面形で過不足なくまとめ、施設の活 用に際し、動線的にも破綻していないことに価値がある。

⑤ 「外装は、釉薬掛けスクラッチタイル」とある。鉄筋コンクリート造の建造物の外壁 タイルとして当時流行した外装材で、昭和初期の建物としての特性を示している。

⑥ 「正面車寄および、建物周囲の腰、蛇腹、笠石等に稲田産の花崗石を廻す。」とある。

外観には、我が国の様式建築では多く使用されてきた花崗岩を用いる。また、建物 の腰や蛇腹など、要所に花崗岩を廻すことで、外壁の釉薬スクラッチタイルと花崗岩 による組み合わせによる外観の意匠にも価値がある。

⑦ 「中央広間上部の四面および展示棟階段室天井には半円形のステインドグラスが設置 されている。これは小川三知が主宰する小川スタジオの製作品で、意匠は伊東忠太と される。」とある35。上記のステンドグラスは作品としては非常に大きなものである。

科博本館には上記の他にもステンドグラスが残るが、中央広間ドーム頂部のステン ドグラスと旧食堂の壁面に残るステンドグラスは小川三知のデザインとされる36。小 川三知は、大正から明治にかけて活躍したステンドグラス作家であり、彼の作品が建 物内部に多く残ることにも価値がある。また、これらのステンドグラスを残すことも 材料、技術としての価値となり得る。

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⑧ 「映写室付きの講堂や天体観測の赤道儀室を備えた博物館」とある。秋保安治が目指 した動的博物館の機能が盛り込まれた科博本館は昭和 6 年に竣工し、その後開館する が、その後の展示手法の変化や事務機能の充実などにより改修が行われたため、現状 では映写付きの講堂および赤道儀室のみが残る。

上記の他に、科博本館における文化財的価値について以下のものをあげることができる。

 材料

建物の内部には多様な石材やタイルなどが採用されている点にも価値がある。

中央階段室や翼階段室の床には「泰山タイル」が採用されている。タイルの裏には

(泰)の文字が刻まれている。科博本館で使用しているタイルは、生地に粗い布を押 して布目をつけた日本の陶芸技法を生かした美術タイルを使用しているとされる 。上 記階段の他に、旧公衆食堂の腰壁や建具周り、旧正面玄関の腰壁にも使用されている。

工事報告書によると、建物の内部には日華石や花崗岩、国産・外国産の大理石が使 用されている。なかでも、中央広間の床面に使用された緑色の蛇紋岩とピンク色の紅 更紗といった大理石は、材料としても稀少であり、また、石材の組み合わせにより施 された意匠性の高さにも価値がある。紅更紗は中央広間の巾木にも使用されている。

この他にも、イタリア産の大理石が中央階段および翼階段室の手すりなどに使用され、

国産の御影石が中央広間の柱や、翼階段室の台座に使用されている。事務棟の旧玄関 の受付カウンターにも大理石が使用されている。

 意匠

講堂の天井の照明周りや、講堂背面、正面舞台には、意匠性の高い吸気用のグリル が残る。グリルは講堂の他に、3 階両翼の陳列室の天井にも配置されている。

中央広間は 2~3 階の吹抜けと上部ドームに、装飾性の高い石膏彫刻が施されている。

意匠性の高い石膏彫刻は、貴賓室の照明周りや長押などにも用いられている。また、

展示室内の柱頭にも意匠性の高い石膏彫刻が残る。

家具の製作には、三越、旭家具株式會社、壽商店、三光株式會社、日本楽器製造株 式會社、二源會社、髙島屋、朝倉商店、宮澤工作所が関わったことがわかっており、

当初の図面も残されている。家具はメモリアルーム(旧館長室)や貴賓室、会議室、

講堂などに保管され使用されており、その意匠性の高さにも価値がある。