第 2 章 先行研究概観と本研究の位置づけ
2.4 対照研究
従来、ポライトネス理論については、欧米の研究、特に Leech(1983)や B&L (1987)のポ ライトネス理論が注目されている。しかし、近年、日本語や中国語の日常会話を中心とす るポライトネスに関する研究も数多く行われてきている。
2.4.1 日本における対照研究 井出他(1986)
井出他の研究は異なる日米の言語・社会における敬語行動の比較研究の報告である。ま ず、丁寧さに関する言葉の使い方、つまり敬語行動を問題とする。「わきまえ方式」の敬 語行動をコントロールする要因として、相手の人物カテゴリー及び場面を問題とした。ま た、(1)言語表現の丁寧さのルール (2)行動の丁寧さのルール (3)誰に対してどの表現を 使うのか、についての3段階の調査方法をとった。調査を適切なものとするために以下の三 つの条件を設定した。
(1)演繹的考察により敬語行動に関する日米共通の枠組みを設定する。この理論の枠組 みの上で調査すべき問題を限定した。
(2)日米で比較可能なデータを得るために、両者とも大学生を選んで、アンケート調査 を行った。
(3)作業仮説を立て、敬語行動を三段階に分けて調査することにより多角的な角度から 敬語行動の解明を試みた。
このような条件のもと、三段階の調査方法を用いて、日米両国の大学生それぞれ500人に アンケート調査を実施し、表現の丁寧度から見た話し手の人物カテゴリーの位置づけを試 みている。調査の結果から、「敬語行動」は社会慣習に受動的に従うことで敬意を示す<わ きまえ方式>と、話し手が相手に能動的に選択して敬意を示す<働きかけ方式>とがあると いうことが分かった。この二つの方法のうちで日本語は<わきまえ方式>の方が優勢である とされている。井出はB&Lのポライトネス理論は、「働きかけ方式」を中心にした概念であ るとし、理論をより普遍的にするためには、日本語のような敬語体系を有する言語の特徴 である「わきまえ方式」の概念を加える必要があると指摘している9。「わきまえ方式」に よる敬語行動は、社会・文化の習慣・規範に従う受動的な行動であり、地位、力関係,年 齢差、親疎関係などに基づく社会的・心理的距離、話題、場面の改まりなどによって規定 されている。アメリカ英語では、話し手が積極的に相手に敬意を示したり、距離を調節し たりする「働きかけ方式」による敬語行動が優勢であるとされている。
また、言語行動に最も大きな影響を及ぼす社会変数として,①自分と相手との社会的な 距離(地位、力関係、年齢)②自分と相手との心理的な距離(親疎、好き嫌い)③場面や話題 の改まりの度合い④相手への負担度などがあげられている。これらの変数は,それぞれが
9井出(1990)によると、「わきまえ方式」は、話し手は自分と場面を社会の規範に照らして適 切にわきまえることであるとし、これに対して「働きかけ方式」は、話し手が発話効果を考 えて相手に働きかけることであると説明している。
独立しており,変数値の総和が大きいほど,相手のフェイスを脅かす度合いも高くなると 言える。
さらに、言語体系は異なるものの、日米には以下の 4 つが共通することを示した。
(1)表現の丁寧度は多くの言語要素の丁寧度が複合してできあがる複雑なものである。
(2)表現の丁寧度には、要求緩和部分も重要な関わりがある。
(3)丁寧な表現ほど長い傾向がある。
(4)丁寧な表現にはバラエティがたくさんある。
ただし、井出の研究はそれぞれの人物の敬語行動が現れる場面や状況に対して十分に考 慮していない点に限界があると考えられる。
龍城(1989,1990)
龍城は日英の比較という観点から、B&Lの「politeness」を「待遇」と解することによっ て、話し手が聞き手に対して用いるさまざまな待遇方策のうちB&Lが紹介した例文との類似 表現を日本語から抽出した。主に、B&Lが挙げたいろんなポライトネス・ストラテジーの中 ではポジティブ・ポライトネスとネガティブ・ポライトネスが普通の状況で一番よく使わ れているとし、ポジティブ・ポライトネスとネガティブ・ポライトネスについて、B&Lが挙 げた英語の例文に対する日本語相当例を挙げ、日本語において待遇表現がどのように現わ れるかを観察した。さらに、B&Lが挙げたポジティブ・ポライトネスの15種類のストラテジ ーとネガティブ・ポライトネスの10種類のストラテジーについて、日本語の例を挙げ、日 本語における各ストラテジーの表現と特徴を詳しく分析した。しかし、例文はすべて作者 の作例であるため、B&Lのポライトネス理論において、ポライトネスを規定するとされてい る三要因(力関係、社会的距離、相手にかける負荷度)に関しては一切言及されていない。
さらに、実際の会話の中での各ストラテジーの使用頻度はどうなっているのか、B&Lの理論 は日本語同士の会話の中にどう表れるのかについては説明されていない。
2.4.2 日中対照研究
日本語の敬語と中国語の敬語は、形式上の違いもあって、両言語を一つの枠組みの中で 考察するのは容易ではない。そのため、敬語に関する日本語と中国語との対照研究は大き な進展を遂げていないようである。このような中にあって、着目すべき研究として、荻野 (1986)の「日本人と中国人の敬語行動の対照言語学的研究」が挙げられる。
荻野は詳細な計画と綿密な準備に基づいて質問紙調査を実施し、対照言語学の視点から 待遇行動における日本人と中国人の違いを挙げている。荻野は、「場面による敬語の使い分
け」、「他人との付き合い」、「敬語意識·敬語に対する考え方」などの面から日本人と中国人 を比較している。荻野(1986)は、日中両言語での形式の違いに拘らずに、両言語の機能に 着目して、「日本語には敬語があり、中国語にはあまりないと言うが、それは敬語行動の場 合、日本では相手・場合により言葉の使い分けの慣習が比較的はっきりしているので、そ れが目につきやすいのに対し、中国語ではわかりにくく、慣習がはっきりしないだけで、
使い分けていないのではない」(p.24)とポライトネスでの両言語の共通性を主張している。
また、「話し相手に応じて敬語を使い分けるか」という質問に対して、日本人は「意識して 使い分けている」という回答が多かったのに対して、中国人は「意識しないが使い分けて いると思う」の回答が多かった。中国語は日本語のような発達した敬語体系は持っていな いように見られるが、相手によって敬語を使い分ける敬語行動については、意識はしない ものの、行動自体は行われていると言える。これは日中両言語の待遇表現の対照研究にお いて画期的なものと言えよう。しかし、この研究には不十分な点も存在している。荻野が 質問紙調査を行った 1986 年以来、すでに 30 年近く経過し、とりわけ中国ではこの 30 年、
社会状況や人々の生活や考え方などが著しく変化してきた。その変化は人々の言語使用に も大きな影響を与えた。例えば、80 年代ごろであれば、道を尋ねる場合には、相手の性別 を男女問わず、皆「同志,请问…」(同志:もとは共産党同士の呼称だったが、建国後、一 般に使われるようになった)、「同志」という言葉を使っていたが、90 年代に入って、男女、
年齢別に様々な呼称が使われるようになってきた。例えば、「先生」「女士」「大妈」などが ある。したがって、荻野(1986)以降の多くの日中待遇表現における対照研究では、相手と 用件に用いる丁寧度を予め分類し、それを加算して、丁寧度を算出する「相手レベル+用 件レベル=コード値」(張 1993)、「丁寧度審査員」を設け、丁寧度を判定する(梁 1999)な どの方法が提案されている。しかし、いずれも恣意的な研究であり、応用することは難し いと言わざるを得ない。
毋(2001)
毋(2001)は荻野調査の項目に修正を加えて、新たに「待遇行動についてのアンケート調 査」という質問紙調査を実施した。毋(2001)は B&L のポライトネス理論を人間の待遇行動 にある普遍的なものと考え、アンケート調査を通して、荻野調査の結果を検証すると同時 に、(1)待遇表現はどのように使い分けられるか (2)待遇表現を使用する意識がどのよう に表れるか (3)日本人と中国人の非言語行動の違いなどを明らかにすることを目的とし た。
具体的に、a)公的場面、b)反論の場面、c)苦情を言う場面、d)断る場面、e)お金を 借りる場面など 5 つの場面を設定し、場面ごとに日本語母語話者と中国語母語話者の待遇 行動をアンケート調査し、各会話場面に用いられるポライトネス・ストラテジーを比較し た。
調査は 5 つの項目から構成されている。
(1)A:フェースシート
(2)B:場面による待遇行動の使い分け
(3)C:待遇行動に対する返答
(4)D:非言語行動の使用
(5)E:待遇行動に対する考え方
しかし、各被調査者のそれぞれの回答の理由については、分析の対象外とした。また、
お金を借りるという恩恵関係の場面、中国人の目上意識、待遇表現の使用に左右する要素 及び待遇表現の習得についての四つの項目を加えた。さらに、荻野調査の選択肢を日中両 言語のネイティブ・スピーカそれぞれ 3 人に依頼して検討し、実生活での言葉遣いの多様 性を反映できるように一部の項目の選択肢を増やした。
まず、中国語母語話者は、話をする際、親しくない相手に対しても、相手との親密さを 強調するストラテジーつまり、ポジティブ・ポライトネスを使用する傾向が日本人より強 いということを述べた。また、日本人は意識的に待遇表現を使い分けることが多いが、中 国人は無意識的に使い分けることが多いという結果を得た。さらに、調査から得たデータ を解析した結果、複数の場面において荻野調査との差が表れた。これは 1986 年から 2001 年までの 15 年間の間、中国社会に大きな変化が起こったことも一つの要因ではないかと思 われる。
しかし、この研究では使われる場面や状況にはより現実に近い話し手-聞き手の社会 的・心理的な距離などの考慮がなく、単純な場面設定に限られているという問題点もある。
また、被調査者の年齢分布については日中両方とも 20 代前半が半分以上を占めており、こ れは調査の結果に影響を与えるのではないかと思われる。
また、毋は B&L のポライトネス理論を枠組みとして、日本語と中国語のポライトネスを 詳しく分析したが、中国の言語習慣と独特な文化に関してはあまり考慮されていない。 「上 下関係」「親疎開係」に対する敏感度が異なる日中言語の間で、様々な場面でポライトネス