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1. 三性説の萌芽形態について

2.4 小結

3.1.4 損減を否定する文脈に見られる vatumātra —— 有自性と無自性の交渉 ——

3.1.4.2 vastumātra と prajñaptimātra の関係

文脈にある。すなわち、『小空経』に基づく「真実義品」の空性理解を示す箇所である。こ れについては本研究第3 章で検討する(3.1.4.2 vastumātraとprajñaptimātraの関係)。もう1 つは、一切諸法には言語表現され得ない自性があるということを、教証によって証明する 文脈にある。すなわち、『転有経』(Bhavasaṃkrāntisūtra)第2偈を引用してそれを註釈する 箇所である。

16 兵藤[2010: 291]は「竹村氏は、三性説の起源を『般若経』、『成実論』、『菩薩地』の「真実義品」

との関連を検討した上で、三性説の直接的な萌芽を『菩薩地』の「真実義品」の中に見出しているが、

そのことは妥当なように思われる」と述べている。その理由として、「「真実義品」には三性それぞれ に相当する語は見られないが、そこに説かれる真実観の中に三性説の基本的な考え方が見られるから である」とする。

  池田[1996C: 47]もまた三性説を存在論的な観点から理解し、竹村氏と同様に3つの要素を三性説 に対応させ、『菩薩地』「真実義品」におけるvastuについて、「ここで「事物(vastu)」と表現されて いるものが依他起性であることをあらためて論証する必要はないであろう」と述べる。

yathoktaṃ bhagavataitam17 evārthaṃ gāthābhigītena paridīpayatā18 Bhavasaṃkrāntisūtre //

yena yena hi nāmnā vai yo yo dharmo 'bhilapyate / na sa saṃvidyate tatra dharmāṇāṃ sā hi dharmatā // iti /19

kathaṃ ca20 punar iyaṃ gāthaitam21 evārthaṃ paridīpayati // rūpādisaṃjñakasya dharmasya yad rūpam ity evamādi nāma yena22 rūpam ity evamādinā nāmnā te rūpādisaṃjñakā dharmā abhilapyante 'nuvyavahriyante23 rūpam iti vā vedaneti vā vistareṇa yāvan nirvāṇam iti vā //

tatra na ca rūpādisaṃjñakā dharmāḥ svayaṃ rūpādyātmakāḥ // na ca teṣu tadanyo rūpādyātmako dharmo vidyate // yā punas teṣāṃ rūpādisaṃjñakānāṃ dharmāṇāṃ nirabhilāpyārthena24 vidyamānatā, saiṣā paramārthataḥ svabhāvadharmatā veditavyā //25

17 bhagavataitam T : bhagavatā evam W D M

18 paridīpayatā T W D : paridīpyate M

19 BBh IV-6.2.1.1 Takahashi 102, Wogihara 48.10–13, Dutt 32.24–33.2, Murakami 31 BBh-Tib D27a4–5, P32a6–7

bcom ldan 'das kyis kyang sRid pa 'pho ba'i mdo las / don 'di nyid tshigs su bcad pa'i dbyangs kyis 'di skad du /

ming ni (P32a7) gang dang gang gis su // chos rnams gang dang gang brjod (D27a5) pa //

de la de ni yod ma yin // 'di ni chos rnams chos nyid do //

zhes gsungs te /

求那跋摩訳『菩薩善戒經』T30.970a25–28 是故大乘經中説偈

一法有多名  實法中則無  不失法性故  流布於世間 曇無讖訳『菩薩地持經』T30.894c23–895a1

從佛所聞。一切法離言説自性。今當説如佛世尊趣有契經説偈顯示 如以種種名  用説種種法  此亦無有彼  是法法如是

玄奘訳『瑜伽師地論』T30.489a13–16

復由至教。應知諸法離言自性。如佛世尊轉有經中爲顯此義而説頌曰 以彼彼諸名  詮彼彼諸法  此中無有彼  是諸法法性

20 ca T D M : om. W

21 gāthaitam T : gāthā etam W D M

22 yena T D M : tena W

23 'nuvyavahriyante T D M : om. W

24 nirabhilāpyārthena T W : nirabhilāpyenārthena D M

25 BBh IV-6.2.1.2 Takahashi 103, Wogihara 48.14–22, Dutt 33.3–9, Murakami 31 BBh-Tib C27a5–7, D27a5–7, G39a3–6, N30a4–7, P32a7–b3

tshigs su bcad pa 'dis don ji ltar (N30a5) bstan ce na / gzugs la sogs (P32a8) par ming btags pa'i chos (G39a4)

kyi gzugs zhes bya ba la sogs pa'i ming gang yin pa gzugs zhes bya ba la sogs pa'i ming (D27a6) des gzugs la sogs par ming btags (C27a6) pa'i chos de dag la gzugs zhes bya ba (N30a6) 'am / (P32b1) tshor ba zhes bya ba nas rgyas par mya ngan las (G39a5) 'das pa zhes bya ba'i bar du brjod cing bsnyad pa de la gzugs zhes bya ba la sogs pa'i chos rnams bdag nyid kyis kyang gzugs kyi bdag nyid ma (D27a7) yin la / de dag la yang (P32b2) de (C27a7) las gzhan pa (N30a7) gzugs la sogs pa'i bdag nyid kyi (G39a6) chos med de / gzugs la

この同じ意味を26、偈頌の解説によって明らかにしている。世尊は『転有経』に次のよ うに説かれた。

実に、あれこれの名前によって、あれこれの法が言語表現される。しかしその場 合には、それは存在しない。まさにそれが諸法の法性である。

それではまた、どうしてこの偈頌がこの同じ意味を明らかにするのか。「色」などの名 称を持つ法には27、何らか「色」などという名前があり、何らか「色」などという名前 によって、「色」などの名称を持つそれら諸法が、「色」や「受」、乃至「涅槃」と言語 表現され、言語的に慣習化される。そしてその場合、「色」などの名称を持つ諸法は、

自ら「色」などを本質とするのではない。また、それら[「色」などの名称を持つ諸法]

の中には、そ[の名称]とは別の「色」などを本質とする法は存在しない。さらに、

それら「色」などの名称を持つ諸法には、言語表現され得ない対象としては、現存在 性があり、そ[の現存在性]が勝義としては自性という法性であると知られるべきで ある。

  この『転有経』の註釈と、正しく理解された空性の説明との二箇所の記述に基づき、竹

sogs par ming btags pa'i chos de dag gis brjod du med pa'i don du yod pa nyid gang yin pa de ni yang dag par ngo bo nyid kyi (P32b3) chos nyid yin par rig par bya'o //

求那跋摩訳『菩薩善戒經』T30.970a29–b1

如色乃至涅槃則有多名。色無自性。無自性者則無多名。有多名者名爲流布。

曇無讖訳『菩薩地持經』T30.894a2–6

此偈顯示施設假名名色等諸法以色等名。宣説諸法。流通言教。説色乃至涅槃。色等假名。無色 等自性。色等法亦無餘自性。此色等假名。諸法離言説。義無所有。是名第一義自性法。

玄奘訳『瑜伽師地論』T30.489a17–23

云何此頌顯如是義。謂於色等想法。建立色等法名。即以如是色等法名詮表。隨説色等想法。或 説爲色、或説爲受、或説爲想、廣説乃至説爲涅槃。於此一切色等想法色等自性。都無所有。亦 無有餘色等性法。而於其中色等想法離言義性。眞實是有。當知即是勝義自性、亦是法性。

26「この同じ意味」が指す内容は直前の「一切諸法は言語表現され得ない自性を持つ」ということだ と考えられるだろうか。

BBh IV-6.1 Takahashi 102, Wogihara 48.9–10, Dutt 32.24, Murakami 30 āptāgamato 'pi nirabhilāpyasvabhāvāḥ sarvadharmā veditavyāḥ //

信頼すべき聖典によっても、一切諸法は言語表現し得ない自性を持つと知られるべきである。

27 rūpādisaṃjñakasya dharmasyaという表現におけるsaṃjñāは、チベット訳ではming btags pa(仮設さ れた名前)となっており、直後のnāmanはming(名前)となっている。本研究ではnāmanを「名前」、

saṃjñāを「名称」と翻訳しており、日本語では同義とみなされるこの訳語ではsaṃjñāの持つニュア

ンスを表し得ていないと考えらえるが、便宜的に「名称」と訳す。

村[1995: 55–56]は三性説の萌芽的思想について次のように述べる。番号と下線は筆者の 補いである。

すでにここに、三つの契機が述べられていることになる。(1)仮設の言語によって言 表されたものと、(2)その所依と、(3)真如とである。今、真如といった離言を自性 とするものが、勝義として自性なる法性であると知られるべきである、ともいわれて いる。これら三つの契機を区別しつつ関連して捉える見方は、確かに、『瑜伽師地論』

や『解深密経』、また『摂大乗論』等の三性説の見方と軌を一にするものであり、三性 説の淵源をなすといってよいであろう。

  このような竹村氏の指摘は十分妥当だと考えられ、先述の通り兵藤氏も支持しており、

本研究も『菩薩地』「真実義品」の所説を三性説の萌芽的思想だと考えることに異論はない。

ただし、竹村氏が指摘する萌芽的思想は(1)仮設の語、(2)仮設の所依と、(3)法性/真 如という3 つの概念であるが、本研究では竹村氏の理解を踏まえた上で、三性説の「萌芽 的思想」ではなく、「萌芽形態」という表現を用いて、三性説の思想内容そのものではなく、

その思想内容を伝える構造と、萌芽形態との対応をよりシンプルに伝える次の3 つの概念 を挙げる。

(1)仮設の語(prajñaptivāda)

(2)仮設の語の所依であるvastu(prajñaptivādāśrayaṃ vastu: 以下、仮設の所依     *prajñaptyāśraya)28

28 『菩薩地』「真実義品」には「仮設の所依」に直接対応するサンスクリットはなく、「仮設の語の所

依」(prajñaptivādāśraya)などの表現が確認される。本研究では、三性説の萌芽形態の2つ目を、表記

の上では便宜的に「仮設の所依」(*prajñaptyāśraya)とするが、萌芽形態の 1つ目「仮設の語」にと っての所依であるvastuのことを意味している。以下は実際に『菩薩地』「真実義品」に見られる「仮 設の所依」を意味するサンスクリットの用例である。

(1) BBh IV-3.3: Takahashi 89, Wogihara 39.18–22, Dutt 27.1–4, Murakami 13, Sugawara 155 Skt: prajñaptivādāśraya

Tib: 'dogs pa'i tshig gi rten Chn: 假説所依

(2) BBh IV-5.3.1: Takahashi 98, Wogihara 45.13–19, Dutt 30.27–31.2, Murakami 24, Sugawara 345 Skt: prajñaptivādanimittasaṃniśraya

(3)勝義的実在であるvastu(paramārthasadbhūtaṃ vastu: 以下、勝義的実在)

  本研究では、これら3 つの概念からなる構造を三性説の萌芽形態とする。従来と異なる のは、3つ目の概念が(3)法性/真如であったところを、(3)勝義的実在とした点のみで ある。従来の竹村氏が法性とする根拠は、先の『転有経』の註釈箇所の下線部にある

paramārthataḥ svabhāvadharmatāという表現である。竹村氏はこれを「勝義として自性なる法

性」と訳しており、svabhāvadharmatāという複合語の格関係をKdh.Comp.とみなしていると 思われる29。そのため、「自性という法性」だけでなく「法性という自性」という理解も妥 当となるが、このような法性の理解を、竹村氏が言うところの仮設・仮設の所依という「三 性的思惟の原型」の構造に組み込むのは、いささか躊躇される。法性という概念は抽象的 な普遍的性質を想起させるが、その一方で「固有の性質」としばしば訳される自性という 概念とが同置されることは、少しく説明を要するだろう。

Tib: 'dogs pa'i tshig gi mtshan ma'i gzhi Chn: 假説相處

Skt: prajñaptivādanimittaadhiṣṭhāna Tib: 'dogs pa'i tshig gi mtshan ma'i rten

Ch: 假説相依

(3) BBh IV-5.4.2: Takahashi 101–102, Wogihara 47.16–48.7, Dutt 32.12–22, Murakami 29 Skt: prajñaptivādāśraya

Tib: 'dogs pa'i tshig(ママ)

Ch: 假説所依

29 高橋[2005]によればparamārthataḥ svabhāvadharmatāという表現に写本による異読は見られない。

チベット訳と漢訳は次のように訳している。

チベット訳: yang dag par ngo bo nyid kyi chos nyid 求那跋摩訳: (該当箇所なし)

曇無讖訳: 第一義自性法 玄奘訳: 勝義自性、亦是法性 先行訳は次の通り。

村上訳2013: 31: 最高の意義(勝義)から本体(自性)としての法であること

高橋訳2005: 168: 勝義としての自性、すなわち法性

相馬訳1986: 116: 勝義的には本性としての法性

Willis 訳1979: 120: in the ultimate sense, with an inexpressible meaning, is the true mode (dharmatā) of essential nature

  チベット訳と漢訳を参照してもsvabhāvadharmatāをどう理解すべきか判断し難いが、先行訳はみな

Kdh. Comp.として理解していると思われる。本研究でも「自性という法性」と訳し、法性が勝義的な

自性だとみなされていると理解した。後註361, 365参照。

  これに対し、法性や真如という抽象的な概念よりも、勝義的実在としてのvastuという存 在論的な概念の方が、萌芽形態と三性説の構造との対応を、よりシンプルに伝えられると 考えられる。よりシンプルに仮設・仮設の所依という構造を表現できるように思われる。

従来、『菩薩地』のvastuには、(1)仮設の所依としての側面と、(2)勝義的実在としての 側面との、2つの側面があると指摘されている30。この指摘に対する疑義も一方で示されて はいるが31、本研究では vastu には 2 つの側面があると理解するのが妥当だと考えている