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1. 三性説の萌芽形態について

2.4 小結

3.1.6 まとめ

  『菩薩地』「真実義品」は一切諸法にはnirabhilāpyasvabhāvaがあるという主張を、自身と は思想的立場の異なる二者、すなわち(1)増益をなす者と(2)損減をなす者とを立て、

彼らの思想を否定することによって証明する。増益とは、諸法が仮設の語を自性としてい るという思想であり、損減とは、仮設の語だけでなく仮設の所依であるvastuさえも無自性 であり非実在だとする思想である。

  このような文脈におけるsvabhāvaという概念は、諸法や vastuが存在することの根拠で あると考えられ、反対にniḥsvabhāvaという概念は、非存在の根拠であると考えられた。し たがって、(1)増益をなす者は有自性の立場にあり、(2)損減をなす者は仮設の語にも仮 設の所依にも自性を認めない点で無自性の立場にあると言える。とくに損減をなす者は虚 無 論 者 と 呼 ば れ て 強 く 批 難 さ れ て い た 。 そ し て 、(3)「 真 実 義 品 」 は vastu に は

nirabhilāpyasvabhāva があると主張する点で、増益をなす者とは異なった有自性の立場にあ

ると考えられる。

  このような有自性の立場にある瑜伽行派は、諸法が仮設の語を自性としているという増 益に対しては、prajñaptimātraという表現によって、仮設の語は仮設に過ぎず自性ではない と否定している。したがって、複合語の後分 mātra は自性を否定し、同時に仮設そのもの は肯定していると考えられる。また、仮設の語ばかりか仮設の所依であるvastuにさえも自 性を認めないという損減に対しては、vastumātraという表現によって、仮設の所依は非実在 であって無自性なのではなく、vastuだけは唯一実在するのだと否定している。だからこそ、

損減を否定する際には、vastuではなくあえてvastumātraが仮設の所依として用いられてい ると考えられた。したがって、複合語の後分mātraはvastuが存在しないという虚無論を否 定し、同時にvastuの実在を肯定していると考えられた。そして、prajñaptimātraとvastumātra との両方を如実に知った者は、一切諸法にはnirabhilāpyasvabhāvaがあることを如実に知る のであって、それを知った菩薩の法無我の智慧によって把握されるからこそ、vastuは勝義 的実在とみなされるのだと考えられた。つまり、vastuという概念はたしかに2つの側面が あると言えるが、それはvastuを把握する主体に応じて把握されるvastuの見え方も変わる からであり、したがってvastuという概念がはじめから2つの意味を備えているというわけ ではないと考えられた。

  本研究第 1 章で確認したように(1.3 三性説に対する二諦説の影響の再検討)、『中論頌』に

おいては、(1)有自性に基づく実在論者と(2)無自性に基づくナーガールジュナとの二者 間において、有自性と無自性との単純な二項対立の議論が見られた。しかし『菩薩地』に 至ると、同じ自性の有無を巡る議論が、今度は(1)有自性の立場にある増益をなす者、(2)

無自性の立場にある損減をなす者、そして(3)言語表現され得ない自性を認める点で有自 性の立場にある瑜伽行派、この三者間において展開するようになる。そして、『中論頌』に 見られた(1)有自性に基づく実在論者と(2)無自性に基づくナーガールジュナとの2 つ の思想的立場は、『菩薩地』の(1)増益をなす者と(2)損減をなす者との2つの思想的立 場にそれぞれ対応すると考えられるだろう。つまり、『菩薩地』は既存の有自性と無自性と の単純な二項対立の中に、それらとは異なる有自性に基づく思想的立場として加わること になる。そして三性説の萌芽形態は、『菩薩地』とは異なる(1)と(2)の思想的立場を否 定し、(3)自身の思想的立場に論理的整合性を持たせるための概念装置として機能してい ると考えられるのである。

3.2 『菩薩地』における有自性と無自性との会通

  『菩薩地』は三性説の萌芽形態という概念装置によって、既存の有自性と無自性との単 純な二項対立を否定し、一切諸法にはnirabhilāpyasvabhāvaがあると主張した(3.1.6 まとめ)。 したがって、このnirabhilāpyasvabhāvaを認める点で『菩薩地』は有自性の立場にあると言 える。それでは、『菩薩地』はアビダルマ仏教と同様に無自性を説かなかったのかといえば、

そうではない。『般若経』の「一切諸法無自性」という教説を自身の思想的立場から解釈し ている。この『般若経』は『菩薩地』では「空性相応経典」と呼ばれ、その経典において 如来が「一切諸法無自性」を説いたが、そこにが密意があるとされる。この密意を『菩薩 地』は理解し、従来とは異なる無自性解釈をなすのである。しかし一方で、この密意を理 解しない者たちがいることも示されており、その中には「一切諸法無自性」を恐れる者が いるという。この空性相応経典とは初期仏教においても見られ、その内容に対して否定的 な態度を取る比丘がいたことが指摘されている。そこで、『菩薩地』がnirabhilāpyasvabhāva を主張すると同時に、どのように無自性解釈をなしたのかを検討することで、『菩薩地』に おける有自性と無自性との会通を考察する。また、なぜそのような会通をせねばならなか ったのか、その理由を「一切諸法無自性」を恐れる者との関係から考察する。

3.2.1『菩薩地』の無自性解釈

  『菩薩地』第17章「菩提分品」において、菩薩が方便によって衆生を救済することを説 明する文脈のうち、随順善巧方便の箇所に『般若経』の「一切諸法無自性」が解釈されて いる265

ye ca sattvā gambhīrāṇāṃ tathāgatabhāṣitānāṃ śūnyatāpratisaṃyuktānāṃ sūtrāntānām ābhiprāyikaṃ tathāgatānām artham avijñāya ye te sūtrāntāḥ niḥsvabhāvatāṃ dharmāṇām

abhivadanti, nirvastukatām anutpannāniruddhatām ākāśasamatāṃ māyāsvapnopamatāṃ dharmāṇām abhivadanti / teṣāṃ yathāvad artham avijñāyottrasta266-mānasāḥ tān sūtrāntān sarveṇa sarvaṃ pratikṣipanti naite tathāgatabhāṣitā iti / teṣām api sattvānāṃ sa bodhisattvaḥ ānulomikenopāyakauśalyena267 teṣāṃ sūtrāntānāṃ tathāgatābhiprāyikam arthaṃ yathāvad anulomayati / tāṃś ca sattvān grāhayati /

evaṃ ca punar anulomayati268 / yathā neme dharmāḥ sarveṇa sarvaṃ na saṃvidyante / api tv abhilāpātmakaḥ svabhāva eṣāṃ nāsti / teneme niḥsvabhāvā ity ucyante /269

265 高橋[2005: 18 fn.1]はこの箇所を『菩薩地』におけるniḥsvabhāvaの定義であるとみなしている。

また、松田[1977]は『解深密経』が「一切諸法無自性」を三無自性説でもって解釈するより以前の、

瑜伽行派の無自性解釈が知られる箇所であると述べている。前註49参照。

  『菩薩地』におけるniḥsvabhāvaの用例は3例確認され、当該箇所に2例見られる。もう1つは、

前節で取り上げた第4章「真実義品」の増益の過誤を指摘する論証に見られる(3.1.3.2 svabhāvaの意 味)

266 °ottrasta° W : °otrasta D

267 °lyena D : °lena W

268 anulomayati W : anulobhamayati D

269 BBh XVII Wogihara 265.3–16, Dutt 180.16–24 BBh-Tib D140b1–5, P159b3–8

sems can gang dag de bzhin gshegs pas (D140b2) gsungs pa'i mdo sde zab mo stong pa nyid dang ldan pa rnams kyi(1) de bzhin gshegs pa rnams kyi (P159b4) dgongs pa'i don ma shes te / mdo sde gang dag las chos rnams kyi ngo bo nyid med par ston pa dang / chos rnams dngos po med pa dang / skye ba med pa dang / 'gag pa med pa dang / nam mkha' dang (D140b3) 'dra ba dang / sgyu ma dang rmi (P159b5) lam lta bur ston pa de dag gi don ji lta ba bzhin du ma shes nas / sems skrag ste / 'di dag ni de bzhin gshegs pas gsungs pa ma yin no zhes mdo sde de dag thams cad kyi thams cad du spong bar byed pa'i sems (P159b6)

can de dag la yang byang chub sems dpa' (D140b4) des mthun par byed pa'i thabs la mkhas pas mdo sde de dag gi de bzhin gshegs pa'i dgongs pa'i don ji lta ba bzhin du mthun par byed cing / sems can de (P159b7)

dag kyang 'dzin du 'jug go // 'di lta bur yang mthun par byed do // 'di ltar chos 'di dag ni thams cad kyi thams cad du med (D140b5) pa ma yin gyi / 'di dag la ni brjod pa'i bdag nyid kyi ngo bo nyid med de / de'i phyir de (P159b8) dag ngo bo nyid med pa zhes bya'o //

(1)kyi P : kyis D

また、ある衆生は、甚深なる、如来によって説かれた、空性に相応する諸経典の、如 来の密意を理解しない。[すなわち]それら諸経典が、諸法の無自性性を示し、諸法 の無事物性、不生不滅性、虚空との類似性、幻や夢との類似性を示している、それら

[諸経典]の意味を正しく理解せずに、恐れる[衆生]は、それら諸経典を「これら は如来によって説かれたものでない」と完全に拒絶する。[そのような]彼ら衆生に 対してさえ、かの菩薩は随順善巧方便によって、それら諸経典の如来の密意に正しく 随順させ、彼ら衆生を摂取する。そしてさらに、以下のように随順させる。[すなわ ち、]これら諸法はまったく存在しないのではない。そうではなくて、それら[諸法]

には言語表現を本質とする自性が存在しない。それゆえ、これら[諸法]は「無自性 である」と言われる。

  ここでは、菩薩は「空性相応経典」に示された如来の密意(ābhiprāyikaṃ tathāgatānām artham)

を理解しない衆生に対して、その密意に随順させて摂取するとされている。そのうちの下 線部において『菩薩地』の思想的立場から「一切諸法無自性」が解釈されている。すなわ ち 無 自 性 と は 、 諸 法 が ま っ た く 存 在 し な い の で は な く 、 言 語 表 現 を 本 質 と す る 自 性

(abhilāpātmakaḥ svabhāva)が存在しない、ということだとされている。この内容は、「真 実義品」において増益と損減とが否定され、一切諸法には言語表現され得ない自性がある と主張されたことと同内容だと考えらえる。つまり、ここでの「諸法がまったく存在しな いのではない」という内容は、損減を否定する内容と一致し、諸法にはnirabhilāpyasvabhāva があるからこそ、まったく存在しないのではないのである。また、ここでの「言語表現を 本質とする自性が存在しない」という内容は、「真実義品」において増益を否定する際に、

諸法はprajñaptivādasvabhāvaを持たないとする内容と一致する。先にはprajñaptivādasvabhāva と さ れ 、 こ こ で は abhilāpātmakaḥ svabhāva と さ れ て い る が 、 ど ち ら も 内 容 的 に は

nirabhilāpyasvabhāvaの対立概念であるabhilāpyasvabhāvaを意味していると理解して差し支

玄奘訳『瑜伽師地論』T30.541a12–23

若諸有情於佛所説甚深空性相應經典、不解如來密意義趣、於此經中説一切法皆無自性、皆無有 事、無生無滅。説一切法皆等虚空、皆如幻夢。彼聞是已如其義趣不能解了。心生驚怖。誹謗如 是一切經典、言非佛説。菩薩爲彼諸有情類、方便善巧如理會通。如是經中如來密意甚深義趣、

如實和會攝彼有情。菩薩如是正會通時、爲彼説言、此經不説一切諸法都無所有、但説諸法所言 自性都無所有。是故説言、一切諸法皆無自性。