1. 三性説の萌芽形態について
2.4 小結
3.2.2 有自性と無自性とを会通する理由
3.2.2.3 転入に関する密意 ——無性釈と安慧釈——
転入に関する密意に対する無性釈と安慧釈では、声聞たちが恐怖する理由として、長尾 氏が指摘する空や空性は直接言及されない。しかし、どちらにも諸法を非存在だと理解し ては人無我に転入できないという趣旨が述べられている。以下が無性釈である。
転入に関する密意 ̶̶無性釈̶̶
gzhug (P120a4) pa (N116b6) la ldem por dgongs pa ni nyan (G132a4) thos rnams la blta bar bya ste / bstan pa la 'jug par bya ba'i don du mi skrag par bya (C108a5) ba'i phyir (D107a5) gzugs la sogs pa yod pa nyid du bstan pa'i phyir ro zhes bya ba ni nyan thos (P120a5) rnams kyi gzugs la sogs pa'i chos rnams (N116b7) yod do zhes chos yod pa nyid du zhal gyis bzhes (G132a5) nas gang zag la bdag med par (289-gzud par-289) spyod do // de lta ma yin na gang zag kyang med (C108a6)
la290 gzugs la sogs pa'i (D107a6) (P120a6) chos rnams kyang med do snyam nas / bcom ldan 'das
288 長尾[1982: 397 fn.2]は、「すなわちすべてが空であると説けば、声聞たちはその虚無感に怖れを
いだくであろうから、それを慮って、彼らを導入するために物質等が存在すると説かれた、とするも のである。」と解釈する。また長尾[2007: 200–201]は、「あらゆるものがすべて空であると説けば、
声聞乗の人達は大いに驚き且つ恐怖を抱いて仏法から遠ざかるでもあろう。それ故、仏教の法印の一 つである人無我は説かねばならぬが、物質などの存在の有、いわゆる法有が説かれる。すなわち人空 法有である。このことをk.17で、声聞に関してこの密語があると述べている。」と解釈する。
289 gzog CD : bzung bar GNP
290 la CD : pa GNP
kyis bstan pas (291-gang zhig-291)(N117a1) 'jug par mi 'gyur ro // de bas na bstan pa la 'dzud pa la292 ltos (G132a6) nas gzugs la sogs pa293 yod pa nyid du ston par294 mdzad do295 //296
「「転入に関する密語」とは声聞たちに対して見られるべきである。教説に転入させる ために、すなわち、恐怖を抱かせないために、色などの存在が説示されるからである。」
( avatāraṇābhisaṃdhiḥ śrāvakeṣu draṣṭavyaḥ / śāsanāvatāraṇārtham anuttrāsāya rūpādyastitvadeśanāt)とは、声聞たちに、「色などの諸法は存在する」という、法が存 在することを認めさせてから、人無我への転入を行うのである。そうでないならば、「プ ドガラも存在せず、色などの諸法も存在しない」と思って、世尊が説示したことによ っては誰も297転入しないだろう。したがって、教説への転入に観待して、色などが存 在するということを説示されたのである。
下線部には、プドガラも諸法も存在しないと思っては、世尊の教説に転入できないとさ れている。声聞たちが恐怖を抱く理由は明示されていないが、プドガラと諸法との非存在 が恐怖の原因だと想定される。しかし、ここでの教説とは人無我のことであり、人無我へ 声聞を転入させることを目的に、その手段としてあえて法有説を説示するという文脈が理 解される。したがって、人無我へ転入する段階にあっては、諸法の非存在こそが恐怖の直 接の理由だと考えるのが妥当であろう。無性釈の解釈は安慧釈とも一致する。以下が安慧 釈である。
転入に関する密意 ̶̶安慧釈̶̶
mi skrag par bstan pas 'jug par bya ba'i phyir gzugs la sogs pa yod par bshad pa'i phyir ro zhes bya ba la / gal te gang zag kyang med gzugs (P267b3) la sogs pa'i chos (C242a2) kyang med do zhes bshad na ni 'phags pa nyan thos dag skrag par 'gyur ro // skrag (D240b6) par gyur na de
291 em. gang zhig : dang zhing CDGNP
292 la CD : la sogs pa GNP
293 pa CD : om. GNP
294 par CD : pa GNP
295 do N : de CDGP
296 MSAṬ XII C108a4–6, D107a4–6, G132a3–6, N116b5–117a1, P120a3–6
297 文意を通すためにテキストをgang zhigに訂正し「誰も」と訳したが、五大版本のすべてがdang zhing となっている。dang zhingの場合はどう訳すべきか筆者には判然としない。
bzhin gshegs pa'i bstan pa la mi 'jug ste / de bas na nyan thos dag mi skrag cing bstan pa la gzud298 pa dang / (P267b4) chos yod par bshad pa'i sgo nas (299-gang zag-299) bdag med par rtogs par bya (C242a3) ba'i phyir gzugs la sogs pa'i chos yod do zhes bshad pas300 ni rjes su (D240b7) 'jug pa'i dgongs pa zhes bya'o //
「教説に転入させるために、恐怖を抱かせないために、色などの存在が説示されるか らである。」(śāsanāvatāraṇārtham anuttrāsāya rūpādyastitvadeśanāt)ということについて、
もし「プドガラが存在せず、色などの法も存在しない」と説示したならば、聖なる声 聞たちは恐れるだろう。恐れたならば、如来の教説に転入しない。したがって、声聞 たちが恐れず、教説に転入することは、法が存在すると述べることに基づいて、人無 我が理解されるべきであるから、「色などの法が存在する」と述べることをもって、
転入の密意と言われる。
下線部では、プドガラと諸法とが存在しないと説示しては、声聞たちが恐れることにな るとされている。無性釈とは異なり、安慧釈ではプドガラと諸法の非存在が、声聞たちが 恐怖を抱く理由だと明示されている。しかし、無性釈と同様に、人無我へ声聞を転入させ ることを目的に、その手段としてあえて法有説を説示するという文脈が理解される。した がって、人無我へ転入する段階にあっては、諸法の非存在こそが恐怖の直接の理由だと考 えるのが妥当であろう。
以上の『荘厳経論』の諸註釈に基づけば、人無我へ転入しようとする声聞にとって、諸 法の無こそが恐怖の直接の原因であるため、彼らには諸法の有が説示されるのだと考えら れる。そして、この声聞にとっての諸法の有というものが、諸法には自性があるというこ とだと理解するのが妥当に思われる。
したがって、声聞乗は法有説という有自性の思想的立場に基づいているために、大乗に おける諸法の無自性と法無我とは、彼らにとっては他ならぬ虚無論であって、恐怖の原因 なのだと考えられる。
298 gzud CD : bzud P
299 gang zag CD : gang zag la P
300 pas CD : par P