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1. 三性説の萌芽形態について

1.3 三性説に対する二諦説の影響の再検討

1.3.1.2 約理の二諦の根拠 ——戯論の否定——

  約理の二諦として解釈した場合、言葉を超越した真実こそがparamārthaであるため、た とえ仏陀の教説であっても言葉で表現されている以上はsaṃvṛtiだとみなされる。この解釈 の最大の根拠は、『中論頌』がprapañca(戯論)を否定していることである。

  第24章の冒頭は対論者による空性批判で始まるが、この対論者の持つ実在論的思想が生

75 ただし、大西氏が指摘する散文中のanāgamyaはkhas ma blangs parと訳されている(波線部)。ま た、梵本のYonezawa[2008]とJohnston & Kunst[1951]とで語順が異なるため訳語の対応関係を決 められないが、pratyākhyāyaとanabhyupagamyaとが併記され、それがkhas ma blangs shingとma brten parとに訳されている(下線部)。なお、Lokeshの『蔵梵辞典』ではkhas blangs nasの項にabhyupagamya があり、brten nasの項にāgamyaとāśrityaがあるが、どちらもpratyākhyāyaはない。したがって、khas

ma blangs parと訳されたanāgamyaをma brten parと同義だと判断するにはさらなる検証が必要である。

しかし、khas ma blangs parは「認めずには」や「許可せずには」という意味であり、少なくともma rtogs

parの意味はなく、大西氏の主張を覆すものではないだろう。

VV Yonezawa 266, Johnston & Kunst 127.1‒5

api ca na vayaṃ vyavahārasatyam (1-pratyākhyāya vyavahārasatyaṃ anabhyupagamya-1) kathayāmaḥ / śūnyāḥ sarvabhāvā iti / na hi vyavahārasatyam anāgamya śakyā dharmadeśanā kartum / yathoktaṃ

vyavahāram anāśritya paramārtho na deśyate /

paramārtham anāgamya nirvāṇaṃ nādhigamyata iti // MMK XXIV.10

(1)pratyākhyāya vyavahārasatyaṃ anabhyupagamya Y : vyavahārasatyaṃ anabhyupagamya pratyākhyāya J & K

VV-Tib Yonezawa 267, D128a7–b1, P146a7–146b1

gzhan yang tha snyad kyi bden pa khas ma blangs shing ma brten par dngos po thams cad stong pa'o zhes mi 'chad do // tha snyad kyi bden pa khas ma blangs par ni chos bstan par mi nus te / ji skad du /

tha snyad la ni ma brten par // dam pa'i don ni(1) mi ston la //

dam pa'i don la ma brten par // mya ngan 'das pa mi rtogs so // MMK XXIV.10 zhes gsungs pa lta bu'o //

(1)ni NP : la DC

また、私たちは世俗諦を否定して、世俗諦を認めずに「一切の存在は空である」とは語らない。

なぜなら、世俗諦に依拠せずには、教説を説示することはできないからである。

言語習慣に依拠せずには、勝義は示されない。勝義に依拠せずには、涅槃は証得されない。

(k.10)

と説かれたように。

まれる背景には、そもそもの人間一般の思惟が概念的・言語的にしかなされないものであ り、またこの概念化は主客の二分を伴うものであって、人間は概念化された対象を実在視 してしまう傾向のあることが原因だと考えられている76。そして、このような言語活動の総

体がprapañcaだとされ、客観的な言語表現されたものだけではなく、主観的な発話やその

手段などをも意味する概念である。立川[1980]と丹治[1988: 85–104]は『中論頌』の

prapañcaの意味を用例に基づき分類している77。そしてこのようなprapañcaを梶山[1969: 74]

は「言語的多元性」「ことばの虚構」と訳し、他の研究者も同様に言葉と関連する概念とし て訳している78。『中論頌』諸註釈書においてprapañcaは言葉と関連付けて解釈される場合 が多い。『プラサンナパダー』では「vāc(発話, 言葉)」79、『無畏論』と『般若灯論』では

76 梶山[1969: 63; 79]は「ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だと

いっているのである。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだ、と 教えているのである。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。空とい うことは、ものが本体をもたない、ということである。本体とはじつはことばの実体化されたもので ある…」、「ナーガールジュナが批判するのはこのように一つの事実を二つの概念によって理解する考 え方、人間一般の概念的思惟のあり方である」と述べる(他、兵藤[2011]を参照)。

77 『中論頌』のprapañcaを考察する研究に立川[1980]があり、諸註釈書の解釈を参照させたもの に丹治[1988: 85–104]がある。立川氏はprapañcaを4つに分類する。すなわち、(1)言葉としての prapañca、(2)表現行為としてのprapañca、(3)表象、概念としてのprapañca、(4)表現対象として

のprapañcaである。丹治氏はprapañcaには3つの階層があるとする。すなわち、(1)口業のレベル

に当る言語表現という最も表面的なprapañcaの層、(2)その根底に横たわる分別の層、(3)その深層 として見出される分別の根拠としてのprapañcaの層である。

  またチャンドラキールティの『プラサンナパダー』と『入中論』におけるprapañcaとvyavahāraの 意味を比較検討するものに加藤均[1994]がある。また、prapañcaのパーリ語形とされるpapañcaの 初期仏教における用例を扱うものに、桜部[1991]と中谷[2011]がある。他、2015年開催の第66 回印度学仏教学会学術大会では「煩悩の根源をめぐって̶̶vikalpa(分別)とprapañca(戯論)̶̶」

というテーマでパネル発表がなされている。

78 『中論頌』の和訳において、prapañcaは多くの場合に漢訳語の「戯論」か「プラパンチャ」と表記 される。現代語訳の主なものとして以下を挙げる。

江島[1980: 21] 「虚構的言語」

梶山[1969: 74] 「ことばの虚構」「言語的多元性」「ことばの仮構」

三枝[1985: 4] 「想定された論議」

斉藤[1998: 27] 「言語的多様性」

立川[1994: 7] 「言語的展開」

丹治[1998: 2] 「ことばを本質とするもの」

長尾[1987: 205] 「概念的に虚構すること」

Anne MacDnald[2015B: 41] "manifoldness"

79 PsP XVIII.9 LVP 373.9–10

prapañco hi vāk prapañcayaty arthān iti kṛtvā / prapañcair aprapañcitaṃ vāgbhir avyāhṛtam ity

「*abhilāpa(言語表現)を特徴とするもの」と註釈される80。さらに世俗諦を意味する

saṃvṛtisatya と同義だとされるvyavahārasatyaと関連付けて註釈される用例が『無畏論』と

『般若灯論』に見られる81。ほぼ同文であるため『般若灯論』のみ掲げ、『無畏論』は脚註 にとどめる。

las dang nyon mongs pa'i rgyu rnam par rtog pa gang yin pa de dag ni spros pa las byung bas de dag spros las

zhes (P231a2) bya (D185a7) ba gsungs te / tha snyad kyi bden pa la mngon par zhen pa'i mtshan nyid kyi spros pa las 'byung ngo //82

業と煩悩との原因である分別、それらは戯論から生じるから、

「それらは戯論から」(te prapañcāt: MMK XVIII.5c)

とお説きになられたのである。世俗諦(*vyavahārasatya)への執着を特徴とする戯論か ら生ずるのである。

  ここではprapañcaが世俗諦への執着を特徴とするものだとされている83。また、『プラサ ンナパダー』ではsaṃvṛtiをvyavahāraと言い換え、そのvyavahāraがparamārthaとしてはあ り得ないとする。

arthaḥ //

なぜなら、戯論とは発話である。諸対象を戯論するからである。「諸々の戯論によって戯論さ れない」(MMK XVIII.9b)。諸々の発話によって語られない、という意味である。

80 この註釈は『無畏論』と『般若灯論』とで同文である。

ABh XVIII.9 Yasui 141.6–7, D72a1, P83b7; PPr XVIII.9 D190a4, P237b2–3

spros pa rnams kyid ma spros pa zhes bya ba ni / mngon par brjod pa'i(1) mtshan nyid kyi spros pa nye bar zhi ba'i phyir ro //

「諸々の戯論によって戯論されない」(prapañcair aprapañcitam: MMK XVIII.9b)とは、言語表

現(*abhilāpa)を特徴とする戯論が寂滅するからである。

(1)pa'i ABhY P PPrDP : pa ABhD

81 前註64参照。

82 PPr XVIII.5 D185a6–7, P231a1–2

ABh XVIII.5 Yasui 136.9–10, D70a4–5, P81a1

(P81a1) rnam par rtog pa de dag ni spros pa las 'byung (D70a5) ste / tha snyad kyi bden pa la mngon par zhen pa'i mtshan nyid kyi spros pa las 'byung ba'i phyir ro //

それら分別は戯論から生じる。世俗諦への執着を特徴とする戯論から生じるからである。

83 Schmithausen[1969: 138]はこれを *vyavahārasatyābhiniveśalakṣaṇaḥ prapañcaḥと還梵する。Anne

[2015B: 42–43 fn.98]参照。

atha vā saṃvṛtiḥ saṃketo lokavyavahāra ity arthaḥ / sa cābhidhānābhidheya-jñānajñeyādilakṣaṇaḥ // loke saṃvṛtir lokasaṃvṛtiḥ /84

... lokasaṃvṛtyā satyaṃ lokasaṃvṛtisatyaṃ / sarva evāyam abhidhānābhidheyajñānajñeyādivyavahāro 'śeṣo lokasaṃvṛtisatyam ity ucyate / na hi paramārthata eva tat saṃbhavati /85

あるいは、世俗とは言語協約、世間の言語習慣という意味である。またそ[の世間の 言語習慣]は名付けるものと名付けられるもの、知るものと知られるものなどを特徴 とする。世間における世俗が世間世俗である。

…世間世俗としての諦が世間世俗諦である。まさにこの一切の名前と名付けられるも の、知識と知られるものなどの言語習慣は、余すところなく世間世俗諦と言われる。

というのも、他ならぬ勝義としてはそ[の世間世俗諦]はあり得ないからである。

  これらから、諸註釈書はsaṃvṛtiとparamārthaの関係を、prapañcaとniḥprapañca(無戯論)

の関係に対応させて解釈していると考えられている86。そしてこの解釈を『中論頌』第 24 章の二諦説に適用すれば、それは約理の二諦として解釈していることになる。あるいは註

84 PsP XXIV.8 LVP 493.9–494.1 PsP-Tib XXIV.8 D163a6, P185a6

yang na kun rdzob ni brda ste / 'jig rten gyi tha snyad ces bya ba'i tha tshig go // de yang brjod pa dang / brjod bya dang / shes pa dang shes bya la sogs pa'i (P185a7) mtshan nyid can no // 'jig rten gyi kun rdzob ni 'jig rten gyi kun rdzob (1-bo //-1)

(1)bo // P : bo zhes D

85 なお、下線部はチベット訳では「というのも、勝義においてこれら諸々の言語習慣はあり得ないか らである」とあり、LVP 494.7 fn.4はチベット訳を(*na hi paramārtha ete vyavahārāḥ saṃbhavanti)と 還梵する。

PsP XXIV.8 LVP 494.5–7

PsP-Tib XXIV.8 D162b2–3, P185b2–3

'jig rten gyi kun rdzob tu bden pa ni / 'jig rten kun rdzob bden pa ste / brjod bya dang / rjod byed dang / shes pa dang / shes bya la sogs pa'i (P185b3) tha snyad ma lus pa 'di dag (D163b3) thams cad ni / 'jig rten gyi kun rdzob kyi bden pa zhes bya'o // don dam pa la ni 'di dag yod pa ma yin te /

86 丹治[1988: 99]は諸註釈書の解釈を比較検討して次のように述べる。「戯論が世間の言説である世

俗諦を意味する限りにおいて、彼(*チャンドラキールティ)も『無畏』や清弁と同じ解釈をしてい ることになる。このように注釈者の多くは戯論寂静を、世俗諦とか言説諦への執着とかの寂静・消滅 によって、無戯論を本性とする勝義が現前することと解釈するから、中観派では戯論とその寂滅を勝 義と世俗の二諦説に依拠した簡単な図式に還元していることになるのである。(*)は筆者による補い。

釈書の解釈を待たずとも、『中論頌』全体の文脈からこのような解釈は導き出されるとも考 えられる。後述するが、第24章第12偈では世尊の説法躊躇を想起させ、言葉を超越した 内容をあえて言葉で表現しようとする葛藤が見て取れる。仏陀の言葉と人間の言葉とは区 別されるべきであるが、およそ言葉であれば仏陀の教説であってもprapañcaとみなされ得 るのである87