1. 三性説の萌芽形態について
2.4 小結
3.1.2 損減の過誤を指摘する論証における vastumātra
「真実義品」は増益をなす者と損減をなす者という、思想的立場の異なる二者を立て、
彼らの思想を否定することを通して、一切諸法には言語表現され得ない自性があるという ことを主張する。増益と損減とをそれぞれ否定するにあたり、増益に基づいては仮設が成 立せず、損減に基づいても仮設が成立しないことを指摘する。高橋[2005: 28]はこれを「増 益の過誤を指摘する論証」と、「損減の過誤を指摘する論証」と表現しており、どちらの論 証も仮設の所依であるvastuの実在を前提としている点で、論点は同じであると指摘する。
たしかに、どちらもvastuの実在を前提にした議論が展開されるが、しかし、損減の過誤を 指摘する論証の方だけ、仮設の所依がvastuではなくvastumātraと表現されている点は看過 できない。
yathā punā rūpādikeṣu dharmeṣu vastumātram apy apavadan sarvavaināśikaḥ praṇaṣṭo bhavaty asmād dharmavinayāt tathā vakṣyāmi // rūpādīnāṃ dharmāṇāṃ vastumātram apavadato naiva tattvaṃ nāpi prajñaptis tadubhayam etan na yujyate // tad yathā satsu rūpādiṣu skandheṣu pudgalaprajñaptir yujyate nāsatsu nirvastukā pudgalaprajñapti evam eva sati rūpādīnāṃ dharmāṇāṃ vastumātre sa rūpādidharmaprajñaptivādopacāro yujyate nāsati nirvastukaḥ prajñaptivādopacāraḥ // tatra prajñapter vastu nāstīti niradhiṣṭhānā prajñaptir api nāsti //239 また、色などの諸法において、vastumātraをも損減する一切滅論者はこの法・律から逸 脱した者となることを私は説明しよう。色などの諸法のvastumātraを損減する者には、
決して真実はなく、また仮設もなく、その両者は妥当しない。たとえば、色などの諸 蘊が存在するならば、我の仮設は妥当する。[色などの諸蘊が]存在しないならば、事 物を伴わない我の仮設は[妥当し]ない。まさにこのように、色などの諸法にとって
の vastumātra が存在するならば、その色などの[諸]法という仮設の言葉による二次
的表示は妥当するが、[色などの諸法にとってのvastumātraが]存在しないならば、事 物を伴わない仮設の語による二次的表示は[妥当し]ないが、その場合、仮設にとっ ての事物は存在しないから、基体のない仮設もまた存在しない。
この箇所は損減をなす者を批判する導入部に当たる。末尾の波線部からは、高橋氏の指
239 BBh IV-5.3.3 Takahashi 98–99, Wogihara 45.22–46.7, Dutt 31.4–11, Murakami 25, Sugawara 352
摘通り仮設には仮設の所依であるvastuの存在が前提とされていることが分かる。また、こ こでは直接vastumātraが仮設の語の所依(prajñaptivādāśraya)などと表現されてはいないが、
下線部からは vastumātra が仮設の所依として扱われていることが分かる。高橋氏は、仮設 の所依は単にvastuとされることもあれば、vastumātraと表現されることもあり、そのため 両者には厳密な使い分けはなされていないと指摘するが240、少なくともこのような使い分 けが確認できる。
「真実義品」にvastumātraは11例確認され、そのうち7例が理証と教証において見られ るが241、これらは損減を否定するために用いられることはあっても、増益を否定するため
240 このことから高橋[2005: 23–24]はvastuとvastumātraとの関係について、両者には法と法性のよ うな関係を想定して厳密に区別されて用いられていたとは考え難いとする。しかし同[2005: 18]は 従来の指摘通りvastuとは法と法性の両面が集約された概念だとし、それぞれが仮設の基体の側面、
勝義的実在としての側面に相当すると述べる(高橋[2005: 18 fn.3]参照)。
241 「真実義品」にvastumātraは7箇所に11例見られ、4.7に2例、5.3.3に3例、5.3.4に1例、5.4.2
に2例、6.2.3.2に1例、9.2.2に1例、9.3.2.2に1例ある。下線部の用例が理証と教証の文脈に見ら
れる。また、9.3.3.3はvastumātratāという表現である。
『菩薩地』全章におけるvastumātraの用例は、「真実義品」を除けば以下の3例であり、いずれも 菅原[2010]に検討されている。1つ目は、(1)第8章「力種姓品」における止観(śamatha-ipaśyanā)
の説明のうち、止(śamatha)の説明に見られる。2つ目もまた、(2)第17章「菩提分品」における 止観の説明のうち、止の説明に見られる。3 つ目は、(3)第28 章「建立品」において、如来の十力 の一つである、種種界智力の説明に見られる。このうち(3)の用例は後述する(3.3.4「建立品」の種 種界智力の用例)。
(1)と(2)の用例ではどちらもnirabhilāpye vastumātreという表現が見られる。(1)のサーガラメ
ーガ註はvastumātraという複合語の後分mātraを註釈している。それによれば、vastuが名前と分別と
を離れればvastumātraと呼ばれるという。
(1)BBh VIII Yaita 75.10–14, Wogihara 109.11–17, Dutt 77.5–9, Sugawara 332
tatra śamathaḥ katamaḥ / yathāpi tad bodhisattvo 'ṣṭākārāyāś cintāyāḥ(1) susamāptatvān(2) nirabhilāpye vastumātre 'rthamātra ālambane cittam upanibadhya sarvaprapañcāpagatena sarvacittapariplavāpagatena saṃjñāmanasikāreṇa sarvālambanāny adhimucyamānaḥ adhyātma-samādhinimitteṣu(3) cittaṃ (4-sthāpayati saṃsthāpayati-4) vistareṇa yāvad ekotīkaroti samādhatte / ayam ucyate śamathaḥ /241
(1)cintāyāḥ W Y S : vintāyāḥ D (2)susamāptatvān D Y : susamāttatvān W S
(3)adhyātma-samādhinimitteṣu D Y : adhyātmaṃ samādhinimitteṣu W S
(4)sthāpayati saṃsthāpayati W Y : saṃsthāpayati avasthāpayati D S
そのうち、止とはいかなるものか。すなわち、菩薩は、八種の思が善く落ち着いているから、
言語表現され得ないvastumātra、[すなわち]arthamātraなる所縁に対して心を繋いで、一切の 戯論を離れ、一切の心の散乱を離れた、想の作意によって、一切の所縁を信解しているとき、
内なる三昧の諸相に心を据えて、固定させて、乃至、一つの対象に集中し、等持する。これが 止と言われる。
BBhVy D129b5–6, P158b2–3
に用いられることはない。一方、増益を否定する際にはprajñaptimātraという類似表現が用 いられている。
そこで、「損減の過誤を指摘する論証」以外の損減を否定する文脈において、vastu では なくあえて vastumātra という表現が用いられている用例と、増益を否定する文脈における
prajñaprimātra の用例との対比を通して、両複合語の後分mātraの否定対象を検討すること
ming dang rnam par rtog pa la gnas pa'i phyir dngos po zhes brjod do // tsam zhes bya ba'i sgra ni de gnyi gas dben241 pa nyid du ston par byed do // dngos po nyid la yongs su ma dag pa'i dus na ni ngo bo zhes bya'o //
(1)dben D : dbyen P
名前と分別の所依であるから、事物と呼ばれる。「唯」(mātra)という語は、それら[名前と 分別との]両方を離れていることを説示している。同じ事物を、[それが]清浄ではないとき には、自体と呼ぶ。
この箇所は、菅原[2010: 333]がvastuには勝義的実在という真理概念としての意味はないと主張 する根拠の1つである。もしvastuに真理概念の側面があるなら、同格で併記されるarthaにも真理概 念の側面があって然るべきであるという。しかし、arthaにそのような側面はないため、vastuも真理 概念ではないと指摘する。
なお、sthāpayatiからsamādhatteまでは、『声聞地』「第二瑜伽処」において、心一境性なる三昧が 止と観とに通じることを示す際に、無分別影像の説明で言及される、九種の心住に相当すると考えら れる(声聞地研究会[2007]参照)。また、『声聞地』「第三瑜伽処」においても止を規定する際に言 及される(声聞地研究会[2018]参照)。他、この止の九種に言及する文献については、御牧[2000:
62]によって『声聞地』、『菩薩地』、『荘厳経論』とその註釈、『集論』とその註釈、『修習次第』、『般 若波羅蜜多論』が指摘されている。
(2)BBh XVIII Wogihara 260.15–22, Dutt 177.19–23, Sugawara 334
tatra bodhisattvasya samāsataś caturākāraḥ śamatho veditavyaḥ / pāramārthikasāṃketikajñāna-pūrvagamaḥ(1) pāramārthikasāṃketikajñānaphalaṃ sarvaprapañcasaṃjñāsu anābhogavāhanaḥ tasmiṃś ca nirabhilāpye vastumātre nirnimittatayā ca nirvikalpacittaśāntyā sarvadharmasamataikarasagāmī / ebhiś caturbhir ākārair bodhisattvānāṃ śamathamārgaḥ pravartate yāvad anuttara-samyaksaṃbodhijñānadarśana-pariniṣpattaye samudāgamāya /
(1)em. pūrvagamaḥ : pūrvaṃgamaḥ W D S
そのうち、菩薩の止は要略すると4つのあり方を持つと知られるべきである。(1)勝義的[知]
と世俗的知(sāṃketikajñāna)の前提となるもの、(2)勝義的[知]と世俗的知の結果である もの、(3)一切の戯論の想に対する無功用な運用、そして(4)かの言語表現され得ないvastumātra に対して、無相であるから、また無分別なる心の寂静であるから、一切諸法の平等な一味に至 るものである。これら4つのあり方によって、諸菩薩の止道は、無上正等菩提なる知見の円満 という完成に至るまではたらく。
『菩薩地』において勝義諦と世俗諦とが併記される用例は2例あり(1.3.2.2 paramārthasatya の用 例)、どちらも世俗はsaṃvṛtiが用いられるが、ここではsāmketikaが玄奘訳では「世俗」と訳されて おり、求那跋摩訳では「期」、曇無讖訳では「俗數」と訳されている。
pariniṣpattayeをsamudāgamāyaに掛かる形容詞として理解したが、チベット訳はyongs su 'grub pa dang / yang dag par grub paと両語を接続詞のdangで並列に結んでいる。
によって、vastumātraの意味を考察する。