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1. 三性説の萌芽形態について

2.2 三種の学道の適用範囲

2.2.3 先行研究の理解

2.2.3.2 第三持究竟瑜伽処までとするグループ

  三種の学道の適用範囲を第三持究竟瑜伽処までとするものに、早島理[1973: 9–11]、高 崎[1973: 209–210]、袴谷・荒井[1993: 35–38]、袴谷[2008: 476, 489 fn.9]195、高崎[2001:

246–252]、荒牧[2000: 59–60][2009: 165–166][2013A: 436–437][2013B: 29–30]がある。

  早島理[1973]は『菩薩地』末尾に見られる記述に基づき、『菩薩地』全体の主題を「菩 薩の学道(śikṣāmārga)及びその学道の結果(śikṣāmārgaphala)を明らかにすること」だと 理解する196。したがって、三種の学道の適用範囲は『菩薩地』全体、すなわち第三持究竟 瑜伽処にまで及ぶことになる197。この第三持究竟瑜伽処にまで及ぶとする理解は、『菩薩地』

194 加藤[1931: 692 fn.7]は三種の学道が最初に言及される第3章「自利利他品」冒頭の文章(cf. 本

節脚註187)に対して配分を註記している。

195 漢訳『荘厳経論』の国訳において袴谷・荒井[1993: 36‒38]に『荘厳経論』と『菩薩地』の構成 が対照図として示されている。また袴谷[2008: 476, 489 fn.9]は両論の構成を比較する際に根拠は明 示されないものの具体的な適用範囲に言及している。これらから、袴谷氏が (ii) yathā° を第17章「菩 提分品」まで、(iii) ye° を第18章「菩薩功徳品」の最初から第28章「建立品」までとしていること が分かる。

196 早島理氏の理解は『菩薩地』の結論部分、第28章「建立品」の次の記述に基づいている。

BBh XXVIII Pratiṣṭhāpaṭala Wogihara 409.11–15, Dutt 282.8–10

ity ayaṃ paripūrṇo bodhisattvānāṃ śikṣāmārgaḥ / śikṣāmārgaphalaṃ ca prakāśitam / sarvabodhisattvaśikṣāmārgasya śikṣāmārgaphalasya ca sarvākārasya nirdeśāyādhiṣṭhānabhūtam / sā khalv iyaṃ bodhisattvabhūmir bodhisattvapiṭakamātṛkety apy ucyate /

以上、これが諸菩薩の円満なる学道であり、そして学道の結果が顕示された。一切の菩薩の学 道と学道の結果との、一切のあり方を説示するために、依処となったものであり、それこそが この菩薩地であり、菩薩蔵の論母とも言われる。

玄奘訳『瑜伽師地論』T30.575b7–10

如是圓滿顯示一切菩薩學道及學道果、名菩薩地。具説一切菩薩學道及學道果。一切種教實依處 故。又此菩薩地亦名菩薩藏摩怛理迦。

197 なお、早島理[1973: 9–11]では、三種の学道に含まれない第1章「種姓品」と第2章「発心品」

の章構成をほぼ踏襲する『大乗荘厳経論』(Mahāyānasūtrālaṃkāra: MSA,『荘厳経論」)の無 性釈(Mahāyānasūtrālaṃkāraṭīkā: MSAṬ)と安慧釈(Sūtrālaṃkāravṛttibhāṣya: SAVBh)とに よって間接的に支持される。無性釈と安慧釈には『荘厳経論』全体の構成について三種の 学道という枠組みを適用すべきであるという記述があるからである。そして、おそらく高 崎[1973: 209–210]は『荘厳経論』の無性釈と安慧釈の理解を『菩薩地』にも適用し、三 種の学道の適用範囲を『菩薩地』全体としているように見受けられる198。その他の研究も 適用範囲を全体とするが、それがあたかも自明であるかのようであって、根拠は示されて いない。

  また、荒牧氏の一連の論文は三種の学道の適用範囲に直接言及するものではないが、『菩 薩地』を旧層と新層とに分け、その発展過程を文献の編纂という観点から考察している。

とを、三種の学道の前提、序章とみなし、他の章とは区別されるべきだと述べている。その根拠とし て、梵本では第1章「種姓品」と第2章「発心品」の章末にのみsamāpta(完了)の語があることを 指摘する。なお第18章「功徳品」章末のsamāptaは例外だという。

  この「功徳品」のみ例外とする指摘に対し、上野[2015: 20–23 fn.16]は十法の第一である①持が

(a)種姓、(b)初発心、(c)菩提分法を内容としていることを受け、それぞれの末尾の章にsamāpta が置かれていると指摘する。よって、逆に samāpta があるからこそ、(c)菩提分法の終わりが第 18 章「功徳品」だと知られるという。したがって、(c)菩提分法を分類する三種の学道とは『菩薩地』

最終章にまで通底するものではなく、第18章「功徳品」で終わるのだと指摘する。

  しかし、samāpta の有無は写本によって異なるため、そこに特別な意味を見出すことは難しいだろ う。章の終わりを示すsamāptaは、萩原本では1章、2章、12章、18章、27章、28章にあり、Dutt 本では1、2章、3章、11章、12章、18章にある。瑜伽処の終わりを示すものは、萩原本では初持地

瑜伽処(18章)とanukramaにのみあり、Dutt本では18章(初持瑜伽処)、22章(第二持隨法処)に

ある。『菩薩地』全体の終わりを示すものは、萩原本ではanukramaの後にあり、Dutt本では28章の 後にある。

198 高崎[1973: 209–210]はおそらく三種の学道の適用範囲を第三持究竟瑜伽処までとしている。高

崎氏は『菩薩地』と『荘厳経論』の種姓論を考察する中で、『荘厳経論』安慧釈および無性釈が『荘 厳経論』全体の大綱を (a) 種姓、 (b) 発心、 (c) 菩提分法として、さらに (c) を (i) yatra°、(ii) yathā°、

(iii) ye°に分けて説明していることを指摘している(高崎[1973: 220 fn.8]は無性釈にも同趣旨の文章

があることを指摘しており、後に小谷[1984]は無性、安慧両釈の該当箇所を詳細に分析している)。

SAVBh I D1a5–2a1

theg pa chen po mdo sde'i rgyan gyi lus su bzhag pa ni / mdor na rigs la gnas pa'i byang chub sems dpas bla na med pa yang dag par rdzogs pa'i byang chub tu sems bskyed nas / byang chub sems dpa'i spyod pa la bslab par bya ba de ston to //

『大乗荘厳経[論]』の綱要(*śarīra)の設定は、要略すれば、種姓に住する(*gotra-stha)菩 薩が無上正等覚に向けて発心して、菩薩行を学ぶべきである、そのことを説示する。

  したがって、三種の学道を論の末尾まで適用させる『荘厳経論』に基づいて『菩薩地』を解釈して いるのであろう。ただし高崎氏は (i) yatra°、(ii) yathā°、(iii) ye° の具体的な配当までは述べていない。 

まず、Aramaki[2000]において旧層と新層との分類案が提起される199。新層の根拠として、

第 28 章「建立品」において、如来の十力によって菩薩が教授(avavāda)を受ける記述を 指摘する200。ただし、新層の要素は諸章において断片的に散見されるため、章単位で新旧 を分類することはできないとした上で、便宜的に分類表を提示している。ただし、とくに 第4章「真実義品」後半部分と第8章「力種姓品」は新層であると明言する。第8章「力 種姓品」では、初学者なる菩薩に備わる「力種姓」(balagotra)201が如来の「教授」(avavāda)

199 Aramaki[2000]の時点で『菩薩地』の章構成を旧層と新層とに分け、その上に三種の学道を配当

している。ただしそれぞれの章がいかなる基準で旧層と新層とのどちらかに分類されるのかは示され ておらず、三種の学道の適用範囲についてはまったく言及されていない(Aramaki[2000: 59–60]の 対照表参照)。

  Aramaki[2000]は、『声聞地』の修行道体系(the old mārga-system of śrāvakas in the Śrāvakabhūmi) を土台として、『菩薩地』が新しく菩薩の加行道(prayogamārga: path of preliminary endeavor)が構築 されていることを指摘し、その根拠を如来によるavavāda(instruction receiving and delivering, 教授)

に関する記述に見出している。つまりavavādaの要素が見られる箇所を新層だと規定する。

200 BBh Wogihara 394.20–395.1, Dutt 272.12–15

tatra yathā tathāgatāḥ śrāvakāṇāṃ teṣu teṣv avatāramukheṣv avavādam anuprayacchanti, tathā śrāvakabhūmau sarveṇa sarvaṃ nirantaram ākhyātam uttānaṃ vivṛtaṃ prajñaptaṃ prakāśitam / kathañ ca punas tathāgatā bodhisattvam ādikarmikaṃ tatprathamakarmikaṃ samādhisambhāraparigrahe 'vasthitañ cittasthitikāmaṃ cittasthitaye 'vavadanti /

そのうち、如来たちが声聞たちにそれぞれの趣入門に応じて教授(avavāda)を与えるように、

『声聞地』において[趣入門は]完全に、間断なく述べられ、鮮明に顕わされ、施設され、開 示された。それなのにどうして再び如来たちは、初心者であり初学者であって、すでに三昧の 資糧の把握に住しており、心を安住させようとしている菩薩に、心を安住させるために教授す るのか。

Aramaki訳2000: 41

Hereon it has been expounded completely in the Śrāvakabhūmi how the Tathāgatas instruct avavāda to the śrāvakas on their respective initiatory mārgas (the Paths). How, then, do the Tathāgatas deliver avavāda to the initiatory bodhisattvas well prepared to practise samādhi (ecstatic concentration) and wishing to concentrate their mind in order for them to concentrate their mind? (Aramaki[2000: 41 fn.6]

"The repetitionsare simplified in the translation.")

201 Aramaki[2000: 44]はbalagotraを "innate nature to attain the supernatural powers of knowledge" や

"innate nature of the supernatural powers of knowledge" と英訳する。そして菩薩に備わるbalagotraとは、

如来のavavādaによって浄化される受け手としてだけではなく、他者をavavādaによって浄化する与

え手でもあるという。

BBh VIII Balagotrapaṭala Yaita 2015: 77.21–22, Wogihara 111.18–20, Dutt 78.22–23

evam evāvavādaṃ parato vā labhamāno bodhisattvaḥ pareṣāṃ vānuprayacchann aṣṭānāṃ balānāṃ gotraṃ krameṇa viśodhayati ...

Aramaki訳2000: 43

Just in this way the bodhisattva purifies [his] gotra (innate nature) of the eight [jñāna-]balas [of the Tathāgatas], one by one, while receiving avavāda from others and delivering avavāda to others.

矢板訳2015: 52

によって浄化されるという構造の「加行道」(prayogamārga)が提起されているという202。 第 4 章 「 真 実 義 品 」 で は 、 四 種 真 実 の 第 四 「 所 知 障 浄 知 所 行 真 実 」

(jñeyāvaraṇaviśuddhijñānagocaras tattva)203が旧層と新層の両要素で説明されているとする。

その際に言及される「言語表現され得ない自性」を如来の avavāda の内容とみなし204、つ まりこれを新層における加筆だとみなす。それに伴って第 4 章の後半205もまた増広され、

そのうち菩薩の新しい実践として四尋伺・四如実遍知が組織されたとする。以上の見解は 基本的にその後の論考に引き継がれているが、荒牧[2009]では三種の学道は新層によっ てもたらされた新組織であると述べる206。その際に、Aramaki[2000]では言及していない 根拠として、本来なら旧層にあったと予想される文章が新層に移動、増広された形跡を一

実にこのように菩薩は、あるいは他者から教授を習得しながら、あるいは他者たちに[教授を]

譲与しつつ、[次に挙げられる、自らの]八つの力の資質(gotra, 種姓)を順々に清浄にし…

202 「力種姓品」は以下に示す菩薩にとっての六つの実践を説明する(cf. Aramaki[2000: 42]、Kragh

[2013: 163–166]、矢板[2015: 23])。

(1) adhimuktibahulatā、(2) dharmaparyeṣṭi、(3) dharmadeśanā、(4) dharmānudharmapratipatti、(5) samyagavavādānuśāsana、(6) upāyaparigṛhītaṃ kāyavāṅmanaskarma

  Aramaki[2000: 43]はこれを声聞にとっての四預流支(srotāpattyaṅga)が大乗化したものだと述べ

る。

(1) satpuruṣasaṃseva、(2) saddharmaśravaṇa、(3) yoniśomanaskāra、(4) dharmānudharmapratipatti その根拠として、どちらにも(4)dharmānudharmapratipattiが共通している点が指摘されている。

203 BBh IV Tattvārthapaṭala 2.2.4.2 Takahashi 87–88, Wogihara 38.22–28, Dutt 26.11–14

204 以下はAramaki[2000: 44]の掲げるテキストである。当時参照可能な萩原本とダット本とはわず

かに異なっているが意味上は変わらない。ただし高橋[2005]の再校訂本は別の読みを取っている。

BBh IV Tattvārthapaṭala 2.2.4.2 Aramaki 2000: 44, Takahashi 87, Wogihara 38.24–26, Dutt 26.12–13 sarvadharmāṇāṃ nirabhilāpyasvabhāvatām ārabhya (1-prajñaptivādasvabhāvanirvikalpena jñeyasamena-1) jñānena ...

(1)°nirvikalpasamena jñānena T : °nirvikalpajñeyasamena W D Aramaki訳2000: 44

[This true knowledge of the bodhisattvas and of the Bhagavat Buddhas] is free from any conceptual imagination of [individual] substances appearing in accordance with ordinary language, inasmuch as [it realizes] the essential [being] of all the beings which transcends any [individual] substances conceptually imagined [in accordance with] ordinary language.

205 高橋[2005]の科段では第5節「諸法が言語表現し得ないことに関する論証」以降(Takahashi 96ff., Wogihara 43.24ff., Dutt 30.1ff.)に当たる。

206 荒牧[2009: 151]は次のように述べる。「周知のように『菩薩地』新層は、i) yatra śikṣante、ii) yathā śikṣante、iii) ye śikṣanteという三つの枠組構造を設定し、その中へ旧層部分をも取り込みながら、新 層部分を大きく増広させている。」荒牧氏は『菩薩地』の旧層は龍樹の二諦説に影響を受け、『十地経』

に基づいた菩薩道を構築するために作られたとする。そして新層は三種の学道という新組織を携えて、

旧層を解体、再構成することで、その加行道は次の段階で『解深密経』において唯識観行へ発達し、

さらに『荘厳経論』へ至ると入無相方便相へと深化したという。