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1. 三性説の萌芽形態について

2.4 小結

3.2.2 有自性と無自性とを会通する理由

3.2.2.4 初期仏教における空性相応経典

bhaññamānesu na sussusissanti / na sotaṃ odahissanti / na aññācittaṃ upaṭṭhāpessanti / na ca te dhamme uggahetabbam pariyāpuṇitabbaṃ maññissanti //

ye pana te suttantā kavikatā kāveyyā cittakkharā cittavyañjanā bāhirakā sāvakabhāsitā / tesu bhaññamānesu sussusissanti sotaṃ odahissanti aññācittam upaṭṭhāpessanti / te dhamme uggahetabbaṃ pariyāpuṇitabbaṃ maññissanti //

evam eva tesam bhikkhave suttantānaṃ tathāgatabhāsitānaṃ gambhīrānaṃ gambhīratthānaṃ lokuttarānaṃ suññatapaṭisaññuttānam antaradhānaṃ bhavissati //304

実に、比丘たちよ、未来世において、比丘たちはまったくこのようになるであろう。

およそ如来によって説かれた諸経典、それらは甚深で、甚深なる意味を持ち、出世間 であり、空なるものに相応している(suññatapaṭisaṃyutta)が、それらが説かれるとき、

[比丘たちは]聞こうとせず、耳を傾けず、知ろうという心を起こさないだろう。そ して、それらの教説を学ぶべきであり、習得すべきであるとは思わないだろう。

一方、それら諸経典は詩人による作品であり、詩歌であり、言葉が美しく、文節が美 しく、外教のもので、弟子によって説かれたものである。それらが語られているとき、

[比丘たちは]聞こうとし、耳を傾け、知ろうという心を起こすだろう。それらの教 説を学ぶべきであり、習得すべきであると思うだろう。

まさにこのように、比丘たちよ、それら如来によって説かれた、甚深で、甚深なる意 味を持ち、出世間であり、空なるものに相応する諸経典の隠没(antaradhāna)がある だろう。

  二箇所の下線部が空性相応経典の用例である。ここでは、如来によって説かれた諸経典 が、「甚深」(gambhīra)305、「甚深な意味」(S. gambīrārtha)、「出世間」(S. lokottara)、そし

304 PTS SN II 267.4–18

305 藤田宏達[1982A]は甚深(gambhīra)と空性相応とが併記されている点に、縁起と空性との関連 性を見出している。藤田宏達[1982A: 425]は甚深という言葉は縁起の理法が深遠であることを表す 場合の修飾語として用いられるという。また廣澤[2011: 73]によれば、『律蔵』「大品」に見られる ように、釈尊の菩提樹下での体験を形容することが多く、『般若経』では釈尊の超越性を称讃する場 合にも多く用いられるという。そして、「楔経」に対応する『雑阿含経』では「随順縁起[法]」とい う表現が付加されている。

  さらに藤田氏は、ニカーヤにはなく阿含のみであるが、『雑阿含経』293 経においても空相応と縁 起随順法とが併記される用例がある。

て「空性相応」(P. suññatapaṭisaññuttā)306という4つの言葉によって修飾されている。比丘 たちはこのような如来所説の空性相応経典を未来世においては学ばずに、反対に波線部の 外教徒所説の詩歌経典を学ぼうとするという。「言葉が美しく」(P. cittakkhara, S. citrākṣara)、

「文節が美しく」(P. cittavyañjana, S. citravyañjana)、「詩歌」(P. kāveyya, S. kāvya)と形容さ れる詩歌経典は307、空性相応経典よりも比丘にとっては聞き入れやすいものだったのであ ろう。しかしだからと言って、空性相応経典を学ばなければ隠没が起こってしまうという。

この記述には、空性相応経典を恐れる者がいたということは示されていない。しかし、こ の内容は単なる未来世の予言ではなく、空性を疎んじる比丘たちが実際にいたこと、ある

『雑阿含経』T2.83c4‒9

説賢聖出世空相應、縁起隨順法。所謂有是故是事有。是事有故是事起。所謂縁無明行。縁行識。

縁識名色。縁名色六入處。縁六入處觸。縁觸受。縁受愛。縁愛取。縁取有。縁有生。縁生老死 憂悲惱苦。

  下線部において空相応と縁起随順法とが併記され、波線部からここでの縁起が此縁性の法、および 十二支縁起の法であることが分かる。これに対応する梵本はTripāṭhī[1962: 137–140]のSūtra 11だ とされるが、梵本には「空相応」も「縁起随順」も見られない。なお、「縁起随順[法]」の原語を藤 田宏達[1982A: 425]はpratītyasamutpāda-anulomatāだと想定している(他、藤田宏達[1978]参照)。

  その他、藤田氏は空性と縁起との関係を示唆する経典として『雑阿含経』297経(T2.84c11–85a10) を指摘する。『相応部』12.35–36(SN II 60–64)、梵本はTripāṭhī[1962: 152–157]のSūtra 15が対応す るという。梵本における「大空性の法門」(mahāśūnyatādharmaparyāya)が十二支縁起および中道でも って説明されているという。

Tripāṭhī 1962: 153–155

mahāśūnyatādharmaparyāyāḥ katamāḥ / yad utāsmin satīdaṃ bhavaty asyotpādād idam utpadyate / yad utāvidyāpratyayāḥ saṃskārā yāvat samudayo bhavati / ... ity etāv ubhāv antāv anupagamyāsti madhyamā pratipad āryā lokottarā yathābhūtā aviparītā samyagdṛṣṭiḥ /

大空性の法門とはいかなるものか。すなわち、これがあるときかれがあり、これが生起するか らかれが生起する。すなわち、無明を縁とする諸行があり、乃至、集がある。…それゆえ、こ れら2つの極端を離れて、中道があり、聖なる、出世間にして、如実なる、顚倒のない、正見 がある。

  他、『雑阿含』335 経の『勝義空経』を挙げている。なお後述するが、廣澤[2011: 71‒72]は『声 聞地』にパーリ文とほぼ同型でさらに「随順縁起」が併記される用例があることを指摘している。

306 「空性相応」の空性にあたる原語がここではsuññata(S. *śūnyatva)であるが、他の用例ではsuññatā

(S. śūnyatā)である場合もあるため、両者には区別がないと思われる。藤田宏達[1982B: 84–86]に

よれば suññata という語形はパーリ語特有のものであって梵語化されていないという。藤田氏は

suññataの用例を精査した結果、厳密な意味の違いや使い分けは見られないと指摘する。

307 Karashima[2015: 134]は藤田宏達[1982A]が指摘する(4)『増支部』の用例に言及しており、

kavikatā kāveyyāとcittakkharā cittavyañjanāとは大乗経典を批判するために用いられる定型句だとする

("The phrases "poetry composed by poets", "beautiful in words and phrases" are stock phrases used to show abuse towards Mahāyāna texts.")。

いは現れ出す兆候があったことを示唆しているのだと指摘されている308

  藤田宏達氏の指摘する用例のうち、(1)と(3)は空性相応経典と外教徒所説の詩歌経典 とが対立構造に置かれている。(4)は外教徒所説の詩歌経典を学ぶことによって未来世に 法と律の腐敗が起こるという(1)と同じ内容が示されている309。(2)は対立構造を持たな いが、優婆塞にとっては如来所説の空性相応経典は容易に具足することができないとされ、

そのためまずは仏に対する浄信を具足するべきであることが説かれている310。これらから、

空性相応経典には比丘にとって容易には理解されない教説が説かれていたことが分かる。

  しかし、空性相応経典が具体的にいかなる思想を説く経典であったのかについては何ら 示されていない。これに対し、ブッダゴーサは4 つの用例に見られる定型表現のそれぞれ に同趣旨の註釈を施し、具体的な経典名を挙げている。そこで次に4 つの用例に対するブ

308 梶山[2003: 26–27]は当該の『相応部』を引用し、初期仏教において実際に比丘が空を疎んじる ような兆候が現れてきたのだろうと述べる。なお梶山氏によれば、かつて中村元氏がこの『相応部』

を引用し、比丘が次第に空を疎んじるようになった事情を述べているというが、筆者はその中村氏の 論文を同定できず未見である。

309 PTS AN III 107.18–27

ye pana te suttantā kavikatā kāveyyā cittakkharā cittavyañjanā bāhirakā sāvakabhāsitā, tesu bhaññamānesu sussusissanti, sotaṃ odahissanti, aññācittaṃ upaṭṭhapessanti, te ca dhamme uggahetabbaṃ pariyāpuṇitabbaṃ maññissanti / iti kho bhikkhave dhammasandosā vinayasandoso, vinayasandosā dhammasandoso / idaṃ bhikkhave catutthaṃ anāgatabhayaṃ etarahi asamuppannaṃ āyatiṃ samuppajjissati, taṃ vo paṭibujjhitabbaṃ, paṭibujjhitvā ca tassa pahānāya vāyamitabbaṃ / 一方、それら諸経典は詩人による作品であり、詩歌であり、言葉が美しく、文節が美しく、外 教のもので、弟子によって説かれたものである。それらが語られているとき、[比丘たちは]

聞こうとし、耳を傾け、知ろうという心を起こすだろう。そして、それらの教説を学ぶべきで あり、習得すべきであると思うだろう。まさにこのように、比丘たちよ、法の腐敗に基づいて 律の腐敗があり、律の腐敗に基づいて法の腐敗がある。比丘たちよ、これは第四の未来の恐怖 であり、今は[まだ]生起しないが、未来には生起するだろう。あなたたちはそれを悟るべき であり、また悟った後には、それを捨てるために努力すべきである。

310 PTS SN V 407.14–20

na kho netaṃ bhante sukaraṃ amhehi puttasambādhasayanaṃ ajjhāvasantehi kāsikacandanaṃ paccanubhontehi mālāgandhavilepanaṃ dhārayantehi jātarūparajataṃ sādiyantehi / ye te suttantā tathāgatabhāsitā gambhīrā gambhīratthā lokuttarā suññatapaṭisaṃyuttā te kālena kālaṃ upasampajja viharituṃ / tesaṃ no bhante bhagavā amhākaṃ pañcasu sikkhāpadesu ṭhitānaṃ uttaridhammaṃ desetū ti /

尊者よ、息子たちで溢れかえる臥床に住し、カーシ国の栴檀を味わい、華鬘と香と塗油とを身 につけ、金・銀を享受している私たちによっては、それは決して容易ではない。およそ如来の 説かれた諸経典、それらは甚深で、意味について甚深であり、出世間で、空性に相応している が、時として、それらを具足して住すること[は容易ではない]。まさに、尊者よ、世尊は五 学処に留まっている私たちのためにそれら[諸経典]の高度な法をお説きください/お説きに なること[は容易ではない]。

ッダゴーサの註釈を検討する。

3.2.2.4.2 ブッダゴーサによる空性相応経典の解釈

  空性相応経典の定型表現における 4 つの修飾語、gambhīra、gambhīrattha、lokuttara、

suññata/suññatā-paṭisaṃyuttaに対し、ブッダゴーサは先の4つの用例の註釈のそれぞれにお

い て 、4 つ の 修 飾 語 の そ れ ぞ れ を 少 し ず つ 違 う 表 現 で 註 釈 し て い る 。 こ こ で は 、

suññata/suññatā-paṭisaṃyuttaに対する註釈を先の4つの用例の順に掲げる。なお、(1)と(2)

はもともと suññnata° (S. *śūnyatva)という語形であるため「空なるもの」と訳したが、

ブッダゴーサ註では suññnatā°(S. śūnyatā)として引用されているため、ここでは「空性」

と訳す311

(1) suññatāpaṭisaṃyuttā ti, sattasuññatādhammamattam eva pakāsakā, sankhittasaṃyuttasadisā /312

「空性に相応する」とは、およそあらゆる法はすべて衆生の空性であるに他ならない と明らかにするものである。簡約された『相応[部]』(Saṅkhittasaṃyutta)の如くであ る。313

(2) suññatāpaṭisaṃyuttā ti sattasuññatādīpakā, khajjanīyasuttantādayo /314

「空性に相応する」とは、衆生の空性を明らかにするものである。「所食経」などで ある。

 

(3) suññatāpaṭisaṃyuttāti sattasuññaṃ dhammamattam eva pakāsakā asaṅkhatasaṃyuttasadisā /

「空性に相応する」とは、およそあらゆる法はすべて(dhammamatta)衆生の空であ るに他ならないと明らかにするものである。「無為相応」(Asaṅkhatasaṃyutta)の如く

311 前註306参照。

312 PTS Sāratthappakāsinī II 229.5–7

313 片山訳2014: 456 fn.10(括弧や原語の補いは省略した。)

略説された相応部のような、有情、我、の空性の法のみ。

314 PTS Sāratthappakāsinī III 291.9–10