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1. 三性説の萌芽形態について

1.3 三性説に対する二諦説の影響の再検討

1.3.1.1 約教の二諦と約理の二諦

  『中論頌』の二諦説は第24章「聖諦の考察」(Āryasatyaparīkṣā, 'Phags pa'i bden pa brtag pa, 観四諦品)66の第8偈から第10偈に端的に示されている。『中論頌』における二諦説の内容 はこれら3つの偈頌、あるいは第12偈までを含めた5つの偈頌によって理解される。直接

65『中論頌』の二諦説を約教の二諦として理解するものに、西[1956: 199–200]、安井[1961: 179–180]、

大西[1993]などがある。安井[1961]は「根本的にいえば、二諦説は方便論ではなく真理論であり、

二諦は教説(deśanā)の形式でなく、真理(satya)の形式である。」という前提の上で、『中論頌』の 二諦説は約教の二諦だとみなしている。また、早島慧[2014: 120–135]は『婆沙論』に言及される世 俗門・勝義門を了義・未了義に対応させる解釈を『中論頌』に依用する解釈の可能性を提示する。

  一方で約理の二諦として理解するものに、斎藤[2010: 342]がある(明言はされないが、長尾氏の 一連の論文、山口[1941]もこの理解だと思われる)。斎藤氏は仏陀の教説はすべて世俗諦であり、

言語表現を超えた真実が勝義であるとする。斉藤[1980]は教説としての空性説と、その内容である 空性とを区別し、後者を勝義とみなす。

66 章題についてはYe[2011A: 415]を参照。

には第8偈cd句に、lokasaṃvṛtisatya(世間世俗諦)とsatyaṃ ca paramārthataḥ(勝義として の 諦 ) と い う 表 現 が 見 ら れ る が 、 一 般 的 に は そ れ ぞ れ が saṃvṛtisatya( 世 俗 諦 ) と paramārthasatya(勝義諦)という表現に相応するものだとみなされている。本研究でも便宜 的に後者の表現を用いる。また『中論頌』に限らず他の文献において、従来は satya(諦)

の語が付されていなくてもsaṃvṛtiとparamārthaとが関連付けられていれば二諦説としてみ なされている。

  『中論頌』ではこれらの概念が定義付けられていないため、従来は『中論頌』の二諦説 を「約教の二諦」と「約理の二諦」とのどちらで理解するかで解釈が分かれている。そし てこの 2 つの解釈における最大の論点は、paramārthasatya をどう理解するかということだ と言える。すなわち、「約教の二諦」のparamārthasatyaとは、真実を内容とする世尊の教説 を意味し、「約理の二諦」のparamārthasatyaとは、言葉では表現することのできない真実を 意味する。いずれの解釈も可能であるために解釈が分かれているのであるが、どちらがよ り妥当かを検討するためには、『中論頌』の思想背景にあるアビダルマの実在論や、『般若 経』などの大乗経典の影響、そしてナーガールジュナの他の著作67も考慮する必要がある。

また、『中論頌』の諸註釈書に見られる解釈を参照することも必要である。ただし、諸註釈 間でも解釈が異なり、そのいずれも『中論頌』の真意を伝えていないと評されることさえ ある68。結局、『中論頌』の二諦説解釈はいまだ定説を得ていない。以下が二諦説が示され る『中論頌』第8偈から第10偈である。

dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharmadeśanā /

lokasaṃvṛtisatyaṃ ca satyaṃ ca paramārthataḥ // MMK XXIV k.8 ye 'nayor na vijānanti vibhāgaṃ satyayor dvayoḥ /

67 五島[2008]は作業仮説として『中論頌』のみをナーガールジュナの真作とみなし、従来ナーガー ルジュナの著作とされてきたその他の文献を「龍樹文献群」と呼び、ナーガールジュナではない匿名 の著者たちがナーガールジュナの論理や論法を用いて作成したと想定する。この「龍樹文献群」はナ ーガールジュナ(150–250)とアーリヤデーヴァ(Āryadeva, 3世紀半ば)の没後から、ブッダパーリ

タ(Buddhapālita, 370–450)が現れるまでのおよそ150年間に作られたとする。本稿は五島氏の見解

に基づき、ここでは「ナーガールジュナの著作とみなされている他の文献」という表現を取る。

68 丹治[1992: 38]は次のように述べる。「註釈者たちは二諦の区別や言語表現への依存をこのように

解釈しているが、いずれもナーガールジュナの真意を的確に捉えているとはいえない。」

te tattvaṃ na vijānanti gambhīre69 buddhaśāsane // MMK XXIV k.9 vyavahāram anāśritya paramārtho na deśyate /

paramārtham anāgamya nirvāṇaṃ nādhigamyate // MMK XXIV k.1070

二諦に依拠して諸仏の説法はある。世間世俗諦と勝義としての諦とである。(k.8)

この二諦の区別を知らない人々は、甚深な仏陀の教説における真実を知らない。(k.9)

言語習慣に依拠せずには、勝義は説示されない。勝義に依拠せずには/勝義を理解せ ずには、涅槃は証得されない。(k.10)

  まず、第8偈ではsaṃvṛtisatyaとparamārthasatyaという表現が用いられているが、第10

偈ではsaṃvṛtiはなく、またsatyaの付されていないparamārthaという表現が用いられてい

る。第8偈のparamārthasatyaと第10偈のparamārthaとで使い分けられている可能性も否定

できないが、第8偈に「二諦に」(dve satye)とあり、第9偈に「二諦の」(satyayor dvayoḥ)

とあることから、文脈を鑑みて第10偈のparamārthaはparamārthasatyaを意味すると考える。

これを踏まえて、以下の『中論頌』の検討に限り両表現を同義とみなして議論を進めたい。

  さて、ここに示される『中論頌』の二諦説を先行研究が約教・約理のどちらで解釈して いるのかを端的に示す一つの指標として、大西[1993]は波線部の第10偈c句のanāgamya がどう翻訳されているかによって判断できるとする。このanāgamyaは、『中論頌』諸註釈 書を含め、当該偈を引用する諸文献のチベット訳において、「理解せずに」(ma rtogs par)

と「依拠せずに」(ma brten par)という異なる訳がなされているという71。そしてこのチベ

69 gambhīre Ye Saito 1985 : gambhīraṃ dJ LVP

70 MMK XXIV.8–10 Ye 420

71 大西[1993: 104 fn.4]によれば、ma rtogs parを取るのは『プラサンナパダー』、『中論頌』(別行本 頌)であり、第10偈を引用するものでは『入中論』(Madhyamakāvatāra: MA, VI.35)と『入菩提行論 細疏』(Bodhicaryāvatārapañjikā: BCAP, IX.2)との註釈があり、そして青目釈『中論』と『大乗中観 釈論』だという。ma brten parを取るのは『無畏論』、『仏護註』(Buddhapālitamūlamadhyamakavṛtti: BP)、

『般若灯論』(Prajñāpradīpa: PPr)、『般若灯論復註』(Prajñāpradīpaṭīkā)であり、引用するものでは

『廻諍論』(VV.28)と『仏護註』(BP XXII.11)と『入中論』(MA VI.80)との註釈があり、そして漢 訳『般若灯論』だという。『入中論』は引用箇所によって別の訳語が使われていることになる。

  なお、偈頌の引用ではないが同内容が龍樹に帰せられる『十二門論』にも見られることが早島[2014:

132 fn.255]に指摘されている。下線部から『十二門論』はma rtogs parの理解だと考えられる。

鳩摩羅什訳『十二門論』T30.165a23–25

有二諦。一世諦。二第一義諦。因世諦。得説第一義諦。若不因世諦。則不得説第一義諦。若不 得第一義諦。則不得涅槃。

ット訳の違いに対応するかのように、先行研究の翻訳も二通りに分かれており、「依拠せず に」と訳せば約教の二諦、「理解せずに」と訳せば約理の二諦として『中論頌』の二諦を解 釈していると考えられるという72

  大西氏自身の見解としては「依拠せずに」という意味が妥当だとする。その根拠に、『中 論頌』におけるāgamyaの用例として第26章第3偈cd句を挙げ、そこではāgamyaが「依 拠して」という意味で用いられていることを指摘する73。また、『廻諍論』(Vigrahvyāvartanī:

VV)において当該偈が引用され74、直前の散文部分において、anāgamya が「依拠せずに」

72 大西[1993: 95]はanāgamyaをma rtogs parの意味で訳した場合には「勝義は覚られるべき真理」

だと解釈されたことになり、ma brten parの意味で訳した場合には「勝義は説かれた真理」だと解釈 されたことになるという。続けて次のように述べている。「つまり、anāgamyaを言葉を超えた「覚り」

の「直覚」を意味すると取るか、教説という「言葉」への「依存」「承認」と意味すると取るか、の 違いである。」

  なお、チャンドラキールティの『プラサンナパダー』ではma rtogs parとされ、バーヴィヴェーカ の『般若灯論』ではma brten parとされていることについて、大西氏はこの違いをチャンドラキール ティとバーヴィヴェーカとの二諦説の理解が異なることに起因していると考えている。つまり、チャ ンドラキールティは二諦の区別を言葉と真理の乖離だとみなし、勝義を理解されるもの、到達される ものだと理解しているという。一方でバーヴィヴェーカは教説の内容に応じて、不生や空などの勝義 の教説と、その他の世俗の教説との区別とみなし、勝義を涅槃を証得するための拠り所である、無自 性・空を説く世尊の教説だと理解しているという。

73 大西[1993: 101–102]は『中論頌』第26章「十二因縁の考察」(Dvādaśāṅgaparīkṣā, Srid pa'i yan lag bci gnyid brtag pa)(表題についてはYe[2011A: 467]参照)の第3偈では、十二支縁起のうちの六処 と触との関係が「依拠して」という意味のāgamyaで表現されていると指摘する。そして『般若灯論』

ではこのāgamyaが「拠り所を獲得して」と註釈されているという。

MMK XXVI.3 Ye 468

niṣikte nāmarūpe tu ṣaḍāyatanasaṃbhavaḥ / ṣaḍāyatanam āgamya saṃsparśaḥ saṃpravartate //

ming dang gzugs ni chags gyur na // skye mched drug ni 'byung bar 'gyur //

skye mched drug la brten nas ni // de las reg pa 'byung bar 'gyur //

ところで、名色が活性化したとき、六処が生じる。六処に依拠して、触が起こる。

PPr XXVI.3 D251a2, P315a3–4

skye mched drug la brten nas ni // de las reg pa 'byung bar 'gyur // (MMK XXVI k.3cd) zhes bya ba la brten nas zhes bya ba ni (P315a4) gnas thob nas (1-so //-1)

(1)nas so // D : nas / P

「六処に依拠して、触が起こる。」といううち、「依拠して」とは、拠り所を獲得して、である。

74 松本[1997: 149–152]は『廻諍論』をナーガールジュナの真作ではないとする。その根拠の一つに、

『廻諍論』には4–5世紀の成立とされる『菩薩地』のうち、「真実義品」における仮設の語とその所 依とに関連する内容が対論者の意見として言及されており、『菩薩地』の内容を踏まえた形跡が見て 取れることを指摘する。したがって、少なくともナーガールジュナ以降の成立だと想定されるという。