1. 三性説の萌芽形態について
1.3 三性説に対する二諦説の影響の再検討
1.3.1.5 二諦説の文脈
そもそも、第1 偈から第6偈では、対論者である実在論者が空性を虚無論だとみなし、
その空性を説く龍樹を批難している94。この批難を受けて、龍樹は第7偈で対論者は空性を
MMK XXV.24 Ye 460
sarvopalambhopaśamaḥ prapañcopaśamaḥ śivaḥ / na kvacit kasyacit kaścid dharmo buddhena deśitaḥ //
[涅槃とは]一切の認識が寂滅し、戯論が寂滅し、吉祥である。仏陀によってはいかなる場合 にも、いかなる者に対しても、いかなる法をも説かれなかった。
これによれば、涅槃とは認識も戯論も寂滅した言亡慮絶の境地であると理解される。
93 『中論頌』における「証得する」(adhi√gam)の用例は管見の限りこの第24章第10偈の1例のみ である。雲井[1958]はadhi√gamの初期仏教以来の用例を検討し、adhi√gamと√gamはどちらも「到 達する」「理解する」という意味があるが、adhi√gamにはnirvāṇaを目的語に取って「[涅槃に]到達 する」、「[涅槃を]証得する」という、涅槃の作証を示す特別な意味があると指摘する。これを踏ま
えれば、c句のparamārtham anāgamyaのā√gamとd句のadhi gamとは宗教的体験の深さという点で
異なっていると言える。
94 MMK XXIV.1 Ye 416
yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ / caturṇām āryasatyānām abhāvas te prasajyate //
もしこの一切が空であれば、生は存在せず、滅は存在しない。汝にとって、四聖諦が非存在と なってしまう。
MMK XXIV.5cd–6 Ye 418
evaṃ trīṇy api ratnāni bruvāṇaḥ pratibādhase //
śūnyatāṃ phalasadbhāvam adharmaṃ dharmam eva ca / sarvasaṃvyavahārāṃś ca laukikān pratibādhase //
このように空性を語るならば、汝は三宝さえも傷つけ、また、[行為の]果報があるというこ と、非法と法、世間的な一切の言語習慣を傷つける。
正しく理解できていないと述べる95。この後に上掲の二諦説が説かれ、続けて第11偈では、
あたかも誤って捕らえられた蛇(sarpo yathā durgṛhīto)のように、対論者によって空性は誤 って見られている(durdṛṣtā śūnyatā)とされる。そして第12偈では、その空性を受けて「こ の教え」(asya dharmasya)とし、世尊は説法(deśayituṃ ... dharmaṃ)を思いとどまったと される。
vināśayati durdṛṣtā śūnyatā mandamedhasam /
sarpo yathā durgṛhīto vidyā vā duṣprasādhitā // MMK XXIV.11 ataś ca pratyudāvṛttaṃ cittaṃ deśayituṃ muneḥ /
dharmaṃ matvāsya dharmasya mandair duravagāhatām // MMK XXIV.1296
誤って見られた空性は鈍根の者を破壊する。誤って捕らえられた蛇や、誤って用いら れた呪術のように。(k.11)
またこれゆえに、鈍根たちにはこの教えは理解し難いと思って、牟尼の心は説法を思 いとどまった。(k.12)
ここから、説法を躊躇してしまうほどに空性という教説は理解し難く、誤解されやすい ものであることが分かる。先の第8偈では諸仏の説法(dharmadeśanā)が、第9偈では仏陀 の教説(buddhaśāsana)が言及されていたから、第8偈から第12偈までは仏陀の教説に関 する議論がなされていると言える。とくに空性という教説を対論者が理解できていないこ とが強調されており、第13偈以降においても対論者が空性を理解せずに、有自性の立場か ら空性を否定することがナーガールジュナによって批難される。
95 MMK XXIV.7 Ye 418
atra brūmaḥ śūnyatāyāṃ na tvaṃ vetsi prayojanam / śūnyatāṃ śūnyatārthaṃ ca tata evaṃ vihanyase //
これに対して私たちは答える。汝は空性における目的/効用と、空性と、空性の意味を知らな い。それ故、このように[私たちは]汝に邪魔される。
斎藤[1998B]は「空性における目的/効用」(śūnyatāyāṃ prayojanam)について、従来の諸註釈に 基づく「空を説示する目的」という解釈ではなく、文脈から「空であるときの、[言葉をふくむあら ゆるものごとの]有用性」と解釈すべきだとする。
空性における効用、空性、空性の意味という3つは、空性に関する3つの異なる概念ではなく、空 性という1つの概念には3つの要素、側面があるのだと理解する。
96 MMK XXIV.11–12 Ye 422
以上の分脈を踏まえれば、『中論頌』の二諦説を仏陀の教説の分類である約教の二諦だと 理解することも十分に妥当だと思われる。もちろんparamārthaを約理の二諦における言葉 を超越した真実だとみなすことも可能であるが、そのようなparamārthaが文脈上必ずしも 必要とはされていないだろう。むしろ約教の二諦における教説だとみなし、空性という教 説、そしてその空性という教説の意味、どちらもparamārthaであると解釈すれば、第7偈
におけるśūnyatāとśūnyatārthaとの整合性も取れ、空性の意味を理解する龍樹と理解しない
対論者との対論という構図も分かりやすい。この場合の『中論頌』におけるparamārthaと は、具体的には空性という教説を指すと理解できる97。空性は教説として説示されるもので あり、同時にその意味は理解され、あるいは依拠されるものである。ただし、このように 理解した場合、saṃvṛtisatyaとしての教説というものが具体的に何を意味するのかは判然と しない。
97 空性(S. śūnyatā, P. suññatā)は初期仏教以来の概念であるが、実在論者の有自性的な思想を否定す
る意味は、部派仏教を経た大乗仏教において新たに生まれた意味だと考えられる。したがって、龍樹 が説く空性とは釈尊の教説というよりも、大乗の諸仏による教説だと考えられる。
五島[2008][2009]、桂・五島[2016]は龍樹の仏陀観を考察する中で、『中論頌』における「単 数形のブッダ」を指すsaṃbuddha (帰敬偈)、mahāmuni (11.1)、bhagavat (13.1, 13.2, 15.7)、paramarṣi (17.2)、 buddha (17.20, 25.24)、śāstṛ (17.31, 25.10)、muni (24.12) と、「複数形のブッダ」を指すjina (13.8)、buddha (17.13, 18.6, 18.11, 24.8)、saṃbuddha (18.12)、buddha-śāsana (15.6, 24.9)、buddha-anuśāsana (18.8) とは明 確に区別されて用いられていると指摘する。これらの比較検討により、「単数形のブッダ」は伝統的 教理の説者である釈尊を指し、「複数形のブッダ」は龍樹が主張する教説の賞賛者・支持者、つまり
「大乗のブッダ」であるという。結果として五島[2008: 148]は「『中論頌』が自らが説く「空性の 縁起」が仏説であることを、本頌全体で主張・証明していることは、明らかであろう。」と述べる。
二諦説が示される第24章第8偈b句のbuddhaは複数形であり、第9偈d句のbuddhaśāsanaは文脈 上複数形で理解される。したがって、paramārthaとしての教説とは諸仏によって説示された空性のこ とだと考えられる。
1.3.2『菩薩地』の二諦説
『菩薩地』に見られる三性説の萌芽形態には、prajñapti と paramārtha という概念が用い られ、また勝義的実在とされるvastuは言語表現され得ない自性(nirabhilāpyasvabhāva)と 関連付けられて説明される。約理の二諦におけるparamārthaが言葉を超越した真実だとさ れていることや、saṃvṛtiとprajñaptiという類概念が用いられていることから、たしかに三 性説の萌芽形態と二諦説とには何らかの関係性が予想される。しかし、その二諦説が『中 論頌』の二諦説に限定できるのかどうか、あるいはアビダルマにおける二諦説の影響があ るのかどうかは検討の余地が残る。また、『中論頌』の二諦説がそもそも saṃvṛtisatya と
paramārthasatyaという、satyaの付された形であるのに対し、三性説の萌芽形態がsatyaと関
連付けられることはない。satyaとの関連が見られない『菩薩地』の文脈に、lokasaṃvṛtisatya
とparamārthasatyaとからなる『中論頌』の二諦説の影響を想定することは、より慎重な検
討が必要に思われる。そもそも、『菩薩地』には二諦説が具体的に説明されてはおらず、satya が付された形の『菩薩地』の二諦説は従来研究されていない。そこで、「真実義品」におけ
るparamārthaとparamārthasatyaの用例を比較検討することによって、『中論頌』の二諦説が
約教、約理のいずれがより妥当であるかを判断する一助としたい。