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1. 三性説の萌芽形態について

4.4 三無自性性を説く理由

4.3.2 一切諸法無自性と聞いて損減をなす者

282 BBhVy IV D96b5, P81b4

de bas gang dag(1) kha cig ces bya ba la sogs pa la / kha cig ces bya ba ni dbu ma par smra ba'o //

(1)em. dag : zag DP; cf. dag BBhDP

「それゆえ、ある者たちは」(ato ya ekatyā)などといううち、「ある者たち」(ekatyā)とは中 観論者(*Madhyamakavādin)である。

283 la sogs D : om. P

nyan thos kyi theg par ni chos rnams kyi ngo bo la sogs pa284 bstan to zhes bya bas dngos po la mngon par zhen pa nyid 'jig pa'i sems kyis 'di ni de bzhin gshegs pa'i bstan pa ma yin no zhes rab tu spong bar byed do //285

「それら諸経典が」(ye te sūtrāntāḥ)とは、無自性などを説示する諸[経典]である。

「声聞乗に対しては、諸法の自体などが説示された」と言われているので、まさに有 に執着し、[無自性を]恐れるから、「「これらは如来によって説示されたものではない」

と」(naite tathāgatabhāṣitā iti)と「拒絶する」(pratikṣipanti)のである。

  下線部から、「一切諸法無自性」を「恐れる衆生」とは声聞乗だと理解される。このよう に、サーガラメーガ註が「中観論者」と「声聞乗」という明らかに思想的立場の異なる者 として註釈していることからも、「一切諸法無自性」を理解しない損減をなす者と理解しな い衆生とは、異なる思想的立場にあると考えられる。そして、『中論頌』における有自性と 無自性との二項対立での議論が、『菩薩地』に至るとそこに瑜伽行派の立場が加わり、既存 の有自性と無自性とを止揚して自身の思想的立場から有自性と無自性とを会通しているこ とを鑑みれば、サーガラメーガ註にあるように、「恐れる衆生」を声聞乗だと理解すること は十分妥当だと思われる。つまり、「一切諸法無自性」の理解に関して、『菩薩地』には(1)

理解せず恐れる声聞乗、(2)理解しない損減をなす者(大乗/中観派)、そして(3)理解 する『菩薩地』の立場(大乗/瑜伽行派)、という思想的立場の異なる三者が立てられてい ることになる。そしてこの三者は、「真実義品」での三性説の萌芽形態が見られた文脈にお ける、(1)増益をなす者、(2)損減をなす者、そして(3)『菩薩地』の立場(瑜伽行派)、

という三者と対応すると考えられるだろう。したがって、『菩薩地』の思想的立場に基づく、

一切諸法にはnirabhilāpyasvabhāvaがあるという有自性解釈も、諸法にはabhilāpyasvabhāva がないという無自性解釈も、どちらも自身とは思想的立場の異なる二者が意識されており、

すなわち既存の有自性と無自性との二項対立を踏まえているのだと理解される。このこと からも、『菩薩地』における有自性と無自性との会通は、既存の有自性と無自性との単純な 二項対立を、まさに止揚したのだと言えるのである。

  また、サーガラメーガ註の下線部には、世尊は声聞乗に対して法有説を説示したため、

284 pa P : pas D

285 BBhVy XVII D234a6–7, P292b1–3

彼らは有に執着しており、無自性を恐れる、という趣旨が示されている。つまり、声聞乗 のような有自性に基づく思想的立場にある者にとっては、有自性の対立概念である無自性 とは虚無論を想起させる恐ろしいものだとみなされるのだろう286。このサーガラメーガ註

286 藤田祥道[2006A: 9–10]は『八千頌般若』には声聞乗ではなく大乗の菩薩であっても、般若波羅 蜜を仏語ではないと誹謗する者や、般若波羅蜜、一切諸法無自性、そして空性を恐れる者がいたこと が記述されていると指摘する。ただし、そのような菩薩がどのような思想的立場の者であったかは判 然としない。

ASP VII Vaidya 90.6–13

asyāḥ khalu punaḥ subhūte prajñāpāramitāyāḥ pratyākhyānena pratikṣepeṇa pratikrośena atītānāgatapratyutpannānāṃ buddhānāṃ bhagavatāṃ sarvajñatā pratyākhyātā bhavati, pratikṣiptā bhavati, pratikruṣṭā bhavati / ... nātra śikṣitavyam iti vakṣyanti, naitad buddhavacanam iti vācaṃ bhāṣiṣyante /

また実に、スブーティよ、[かの菩薩たちが]この般若波羅蜜を拒み、拒否し、謗ることによ って、過去・未来・現在の諸仏世尊の一切知者性は拒まれ、拒否され、謗られたことになる。

…[彼らは]「これは学ばれるべきではない」と述べ、「これは仏語ではない」という言葉を話 すだろう。

  また藤田祥道[2006A: 45]は『八千頌般若』について「この教説において「あらゆるもの・こと

(一切法)は空・無自性である」と説かれるのを聞いて「恐れおののき恐怖に陥る」者がいることに ついてもしばしば言及する」と述べる。そして『八千頌般若』における「恐れおののき恐怖に陥る」

(utrasyati saṃtrasyati saṃtrāsam āpadyate)という表現とその否定表現の用例をすべて挙げている。し

かし、śūnyatāと niḥsvabhāva[-tā]を恐れるという用例はない(前註 1参照)。また、「一切諸法が自性 を離れ、空である」という内容と「恐れおののき恐怖に陥る」という内容が関連付けられる用例は、

藤田氏が挙げる用例のうち以下の1例しか確認できなかった。

ASP XXII Vaidya 201.7–24

subhūtir āha / yat punar bhagavan sarvadharmāḥ sarvamanasikārāḥ svabhāvena virahitāḥ śūnyā uktā bhagavatā, tat kathaṃ bhagavan bodhisattvo mahāsattvaḥ prajñāpāramitāpratisaṃyuktair manasikāraiḥ sarvajñatāpratisaṃyuktair manasikārair avirahito bhavati / evam ukte bhagavān āyuṣmantaṃ subhūtim etad avocat / sacet subhūte bodhisattvo mahāsattva evaṃ manasikaroti, sarvadharmāḥ svabhāvena viviktāḥ, sarvadharmāḥ svabhāvena śūnyā iti, evam etan manasikurvan prajñāpāramitāpratisaṃyuktair manasikāraiḥ sarvajñatāpratisaṃyuktair manasikārair avirahito bhavati / tatkasya hetoḥ / prajñāpāramitā hi subhūte śūnyā / sā naiva vivardhate, na ca parihīyate / ...(中略)... yataḥ subhūte yathaiva

prajñāpāramitā śūnyā, sā naiva vivardhate na ca parihīyate, evam eva subhūte bodhisattvo mahāsattvaḥ śūnyaḥ / sa naiva vivardhate, na ca parihīyate / tato bodhisattvo mahāsattvo bodhaye samudāgacchati, evaṃ cānuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyate / sacet subhūte bodhisattvo mahāsattvaḥ evaṃ bhāṣyamāṇe notrasyati na saṃtrasyati na saṃtrāsam āpadyate na saṃsīdati, veditavyam etat subhūte caraty ayaṃ bodhisattvo mahāsattvaḥ prajñāpāramitāyām iti //

梶山・丹治訳1975: 214–215

スブーティは申し上げた。「また、世尊よ、『あらゆるもの、あらゆる留意は、本体を欠き、空 である』と世尊は仰せになりましたが、世尊よ、どうすれば、菩薩大士は知慧の完成と相応し た留意や全知者性と相応した留意と離れる(すなわち、忘れる)ことがないのでしょうか」こ のように問われて、世尊はスブーティ長老につぎのように仰せられた。「スブーティよ、もし 菩薩大士が『あらゆるものは本性として離脱し、あらゆるものは本性として空である』という

と同趣旨の内容が『荘厳経論』にも見られるため、次に検討する。

3.2.2.2『大乗荘厳経論』の転入に関する密意 ——世親釈の理解——

  『荘厳経論』第12章「弘法品」(Deśanādhikāra)の第16偈と第17偈には四密意(abhisaṃdhi)

が説かれており、このうち1つ目の転入に関する密意(avatāraṇasaṃdhi)の世親釈では、恐 れを抱く声聞と諸法の有無との関係が示されている。

abhisaṃdhivibhāge ślokadvayaṃ /

avatāraṇasaṃdhiś ca saṃdhir lakṣaṇato 'paraḥ /

pratipakṣābhisaṃdhiś ca saṃdhiḥ pariṇatāv api // MSA XII.16 śrāvakeṣu svabhāveṣu doṣāṇāṃ vinaye tathā /

abhidhānasya gāmbhīrye saṃdhir eṣa caturvidhaḥ // MSA XII.17

caturvidho 'bhisaṃdhir deśanāyāṃ buddhasya veditavyaḥ / avatāraṇābhisaṃdhir lakṣaṇābhisaṃdhiḥ pratipakṣābhisaṃdhiḥ pariṇāmanābhisaṃdhiś ca / tatrāvatāraṇābhisaṃdhiḥ śrāvakeṣu draṣṭavyaḥ / śāsanāvatāraṇārtham anuttrāsāya rūpādyastitvadeśanāt /287

密意を弁別して二偈がある。

転入に関する密意と、相に関する別の密意と、対治に関する密語と、そして翻転 に関する密意とがある。(k.16)

声聞たちに対して、[三]自性に関して、同様に、諸々の過失の制御に関して、説 述の甚深さに関して、この四種の密意がある。(k.17)

仏の説示には四種の密意があると知られるべきである。[すなわち、](1)転入に関す

ように留意するならば、このように留意する人は、知恵の完成と相応した留意や全知者性と相 応した留意を忘れていないのである。それはなぜか。というのは、スブーティよ、知恵の完成 は空であって、増えもしないし、減りもしないからである」…(中略)…「…スブーティよ、

知恵の完成が空であって、増えもしないし、減りもしないように、スブーティよ、菩薩大士も 空であって、増えもしないし、減りもしないから、菩薩大士はさとりに到達できるのであるし、

同じく、無上にして完全なさとりをさとれるのである。スブーティよ、このように話している とき、菩薩大士がおそれず、おののかず、恐怖に陥らず、挫けなければ、スブーティよ、その ような菩薩大士は知恵の完成への道を追求している、と知るべきである」

287 MSABh XII Lévi 82.8–16, NagaoII 199–200

  転入に関する密意に対する無性釈と安慧釈では、声聞たちが恐怖する理由として、長尾 氏が指摘する空や空性は直接言及されない。しかし、どちらにも諸法を非存在だと理解し ては人無我に転入できないという趣旨が述べられている。以下が無性釈である。

転入に関する密意  ̶̶無性釈̶̶ 

gzhug (P120a4) pa (N116b6) la ldem por dgongs pa ni nyan (G132a4) thos rnams la blta bar bya ste / bstan pa la 'jug par bya ba'i don du mi skrag par bya (C108a5) ba'i phyir (D107a5) gzugs la sogs pa yod pa nyid du bstan pa'i phyir ro zhes bya ba ni nyan thos (P120a5) rnams kyi gzugs la sogs pa'i chos rnams (N116b7) yod do zhes chos yod pa nyid du zhal gyis bzhes (G132a5) nas gang zag la bdag med par (289-gzud par-289) spyod do // de lta ma yin na gang zag kyang med (C108a6)

la290 gzugs la sogs pa'i (D107a6) (P120a6) chos rnams kyang med do snyam nas / bcom ldan 'das

288 長尾[1982: 397 fn.2]は、「すなわちすべてが空であると説けば、声聞たちはその虚無感に怖れを

いだくであろうから、それを慮って、彼らを導入するために物質等が存在すると説かれた、とするも のである。」と解釈する。また長尾[2007: 200–201]は、「あらゆるものがすべて空であると説けば、

声聞乗の人達は大いに驚き且つ恐怖を抱いて仏法から遠ざかるでもあろう。それ故、仏教の法印の一 つである人無我は説かねばならぬが、物質などの存在の有、いわゆる法有が説かれる。すなわち人空 法有である。このことをk.17で、声聞に関してこの密語があると述べている。」と解釈する。

289 gzog CD : bzung bar GNP

290 la CD : pa GNP

kyis bstan pas (291-gang zhig-291)(N117a1) 'jug par mi 'gyur ro // de bas na bstan pa la 'dzud pa la292 ltos (G132a6) nas gzugs la sogs pa293 yod pa nyid du ston par294 mdzad do295 //296

「「転入に関する密語」とは声聞たちに対して見られるべきである。教説に転入させる ために、すなわち、恐怖を抱かせないために、色などの存在が説示されるからである。」

( avatāraṇābhisaṃdhiḥ śrāvakeṣu draṣṭavyaḥ / śāsanāvatāraṇārtham anuttrāsāya rūpādyastitvadeśanāt)とは、声聞たちに、「色などの諸法は存在する」という、法が存 在することを認めさせてから、人無我への転入を行うのである。そうでないならば、「プ ドガラも存在せず、色などの諸法も存在しない」と思って、世尊が説示したことによ っては誰も297転入しないだろう。したがって、教説への転入に観待して、色などが存 在するということを説示されたのである。

  下線部には、プドガラも諸法も存在しないと思っては、世尊の教説に転入できないとさ れている。声聞たちが恐怖を抱く理由は明示されていないが、プドガラと諸法との非存在 が恐怖の原因だと想定される。しかし、ここでの教説とは人無我のことであり、人無我へ 声聞を転入させることを目的に、その手段としてあえて法有説を説示するという文脈が理 解される。したがって、人無我へ転入する段階にあっては、諸法の非存在こそが恐怖の直 接の理由だと考えるのが妥当であろう。無性釈の解釈は安慧釈とも一致する。以下が安慧 釈である。

転入に関する密意  ̶̶安慧釈̶̶

mi skrag par bstan pas 'jug par bya ba'i phyir gzugs la sogs pa yod par bshad pa'i phyir ro zhes bya ba la / gal te gang zag kyang med gzugs (P267b3) la sogs pa'i chos (C242a2) kyang med do zhes bshad na ni 'phags pa nyan thos dag skrag par 'gyur ro // skrag (D240b6) par gyur na de

291 em. gang zhig : dang zhing CDGNP

292 la CD : la sogs pa GNP

293 pa CD : om. GNP

294 par CD : pa GNP

295 do N : de CDGP

296 MSAṬ XII C108a4–6, D107a4–6, G132a3–6, N116b5–117a1, P120a3–6

297 文意を通すためにテキストをgang zhigに訂正し「誰も」と訳したが、五大版本のすべてがdang zhing となっている。dang zhingの場合はどう訳すべきか筆者には判然としない。