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1. 三性説の萌芽形態について

2.4 小結

3.2.2 有自性と無自性とを会通する理由

3.2.2.1 空性相応経典を理解する者と理解しない者

  三性説の萌芽形態とは、既存の有自性と無自性との単純な二項対立を止揚し、自身の思 想的立場から有自性と無自性とを会通するための概念装置であると考えられた(3.2.1『菩薩 地』の無自性解釈)。では、なぜ『菩薩地』は有自性と無自性とを会通する必要があったのだ ろうか。その理由は明示されていない。しかし、先の無自性解釈が示された文章には、「一 切諸法無自性」を恐れる衆生がいるとされ、彼ら衆生さえも菩薩は摂取するとされていた。

このことから、恐れる衆生を摂取するために従来の無自性解釈ではなく、有自性に基づい た無自性解釈を提示したのだと想定されるだろう。では、なぜ衆生は「一切諸法無自性」

を恐れるのだろうか。

  『菩薩地』における「一切諸法無自性」という教説の解釈が示される用例は、上掲引用 文のものだけである。しかし、その「一切諸法無自性」が説かれているとされる「空性相 応 経 典 」 は 、 管 見 の 限 り 3 例 見 ら れ る 。 上 掲 引 用 文 で は 「 空 性 に 相 応 す る 諸 経 典 」

(śūnyatāpratisaṃyuktānāṃ sūtrānta)と表現されており、同じ単語を用いた表現が「真実義 品」における損減をなす者を否定する文脈にも用いられていた(3.1.4.1 vastumātraの意味)。 さらに、第19章「菩薩相品」にも見られる。そこで、空性相応経典を手掛かりとして、な ぜ衆生が「一切諸法無自性」を恐れるのかを検討する。「菩提分品」と「真実義品」の対応 箇所を再掲し、「菩薩相品」の用例を掲げる。

菩提分品 

ye ca sattvā gambhīrāṇāṃ tathāgatabhāṣitānāṃ śūnyatāpratisaṃyuktānāṃ sūtrāntānām ābhiprāyikaṃ tathāgatānām artham avijñāya...271

また、ある衆生は、甚深なる、如来によって説かれた、空性に相応する諸経典の、如 来の密意を理解しない。

真実義品 

ato ya ekatyā durvijñeyān sūtrāntān mahāyānapratisaṃyuktān gambhīrān śūnyatāpratisaṃyuktān ābhiprāyikārthanirūpitān śrutvā yathābhūtaṃ bhāṣitasyārtham

271 BBh XVII Wogihara 265.3–5, Dutt 180.16–17

avijñāya...272

それゆえ、ある者たちは、理解し難い諸経典を、すなわち、大乗と相応し、甚深で、

空性と相応した、[如来が]密意あるものとして説かれた[諸経典]を聞いて、説かれ たことの意味を如実に理解せず…

菩薩相品 

pañcemāni bodhisattvasya gambhīrārthasaṃdhinirmocanatāyā adhiṣṭhānāni / katamāni pañca / ye te tathāgatabhāṣitāḥ sūtrāntā (273-gambhīrā gambhīrāvabhāsāḥ- 273) śūnyatāpratisaṃyuktā idaṃpratyayatāpratītyasamutpādānulomāḥ274 / idaṃ prathamam adhiṣṭhānam /275

次の5 つが、菩薩が甚深なる意味における密意を解き明かすことにとっての基盤であ る。5つとは何々か。およそ、如来によって説かれた、甚深で、甚深なる顕現のある、

空性に相応し、此縁性・縁起に随順した諸経典、これが第一の基盤である。

  「真実義品」の用例では、「大乗相応」(mahāyānapratisaṃyukta)という表現と同格で置か れている。また、「空性相応」がサーガラメーガ註では無自性を説示する経典のことだと註 釈されている276。先に検討した通り、「菩提分品」の用例では実際に「一切諸法無自性」が

272 BBh IV-5.3.4 Takahashi 99, Wogihara 46.7–10, Dutt 31.11–13, Murakami 26

273 gambhīrā gambhīrāvabhāsāḥ W : gambhīrā-gambhīrāvabhāsāḥ D

274 idaṃpratyayatā-pratītyasamutpādānulomāḥ W : idaṃpratyayatā pratītyasamutpādānulomāḥ D

275 BBh XIX Wogihara 303.19–23, Dutt 209.5–7

276 下線部が空性相応(śūnyatāpratisaṃyuktā)に対する註釈である。

BBhVy IV D69b6–70a1, P81b5–7

zab mo ni chos bdag med pa'i dbang du byas nas zhugs pa nyid do // byis pas yongs su btags pa'i chos thams cad kyi (P81b6) chos rnams kyi ngo bo nyid kyis dben pa'i don (D69b7) gsal bar byed pas stong pa nyid dang ldan pa'o // dgongs pa can gyi don bstan pa'i phyir / dgongs pa'i don bstan pa dag ces bya ba ste / chos thams cad ma skyes pa / (1-ma 'gags-1)(P81b7) pa / gzod ma nas zhi ba / rang bzhin gyis mya ngan las 'das pa / sgyu ma lta bu zhes bya ba la sogs pas (D70a1) bstan pa yin par rig par bya'o //

(1)ma 'gags D : mi 'gags P

「甚深な」(gambhīrāṃ)とは、法無我に関して、趣入することに他ならない。愚夫によって 仮設された(2)一切諸法に対して、諸法が自性を離れていることの意味を明らかにするから「空 性に相応する」(śūnyatāpratisaṃyuktān)のである。密意を説示するために、「[如来が]密意あ るものとして説かれた」(ābhiprāyikārthanirūpitān)と言われる。「一切諸法は不生不滅、本来寂 静、自性涅槃、幻の如くである」などということによって説示されたものであると知られる べきである。

(2)テキストは「仮設された」(yongs su btags pa)であるが、「構想された」(yongs su brtags pa)

説かれた経典だとされていた。「菩薩相品」の用例では、「此縁性・縁起に随順した」

(idaṃpratyayatāpratītyasamutpādānuloma)という表現と同格で置かれている277。いずれの用 例でも具体的な経典名は明示されていないが、少なくとも「真実義品」と「菩提分品」の 空性相応経典とは、「一切諸法無自性」を説く『般若経』と理解されるだろう278

  なお、『八千頌般若』と『解深密経』にも空性相応経典の用例が見られる。『八千頌般若』

では、「六波羅蜜に相応する」(ṣaṭpāramitāpratisaṃyuktā)という表現と同格で置かれている ことから、六波羅蜜を説く『八千頌般若』自身、あるいは自身を含む『般若経』全体のこ とを空性相応経典と自称していると考えられる279。『解深密経』では、『菩薩地』と同様に

と訂正すべきかもしれない。しかし、「真実義品」において有自性の立場にある増益をなす 者が、仮設の語を自性としていることを鑑みてそのまま読む。

277 ここでの「空性相応」はサーガラメーガ註では「法無我を明らかにするから」と註釈されている。

BBhVy XIX D256a1–318b2, P318a8–b2

don zab pa ni zab mo'o // yi ge zab pa ni zab par snang ba ste / kha cig ni zab pa nyid yin la zab par snang ba yang yod la(1) / kha cig ni zab pa ma yin pa la zab par snang ba yin pa yod pas de gnyis ka las khyad par du bya ba'i phyir gnyis smos so // chos la bdag med pa la gsal bar byed pas stong pa nyid dang rab tu ldan pa'o // rten cing 'brel bar 'byung ba lugs su 'byung bas bdag med pa la 'jug pa gsal bar byed pa nyid de / mi rtag pa la sogs pa'i rnam pa gsal bar byed pa'i phyir ro // de ltar na mdo bshad pa yin no //

(1)la D : om. P

意味の甚深であることが、「甚深で」(gambhīrā)である。文字の甚深であることが、「甚深な る顕現のある」(gambhīrāvabhāsāḥ)ある。ある[経典]はまさに甚深であって、甚深なる顕 現をも有するが、ある[経典]は甚深ではないが、甚深なる顕現を有するため、両者は区別 されるべきであるから、2つが述べられるのである。法無我を明らかにするから、「空性に相 応する」である。縁起が順番に生ずることによって、無我への趣入を明らかにするのであり、

無常などのあり方を明らかにするからである。そのような経典が説示されたのである。

278 『菩薩地』における空性相応経典に関して、長澤[1978: 325 fn.5]は「真実義品」の空性相応経 典の一文が『解深密経』「勝義諦相品」の内容に相当するとし、『解深密経』系統の諸経典の存在が示 唆されていると述べ、勝呂[1976: 46]もこれを支持している。

  これに対し、阿[1982: 30–31; 47 fn. 30]は『菩薩地』第17章「菩提分品」では空性相応経典のこ とを「一切諸法無自性」などを説く経典だとされ、それを恐れ誹謗する衆生がいるとされていること から、『解深密経』ではなく『般若経』とすべきだと指摘している。

  なお、『解深密経』第7章「無自性相品」にも『菩薩地』と同様に「一切諸法無自性」などを説く 経典を「空性相応経典」だとする記述がある。

SNS VII-19 D20b2–3, P20a5–7, Lamotte 76.3–8

mdo sde 'di dag ni de bzhin gshegs pas gsungs pa zab pa zab par snang ba / stong pa nyid dang ldan pa / これら諸経典は如来がお説きになった、甚深であり、甚深なる顕現があり、空性と相応した...

  このことから、松田[1977: 650]は『般若経』に限定せず、三性説および三無自性説が説かれる以 前の『般若経』などの大乗経典一般だとする。

279 ASP X Vaidya 114.26–29

「一切諸法無自性」が説かれる経典のことを指している280

  また『菩薩地』のどの用例も、下線部から空性相応経典には如来の密意(ābhiprāyikārtha,

saṃdhi)があるとされている。本研究第 1 章で確認したように(1.1.4「一切諸法無自性」の

密意としての三無自性説)、『解深密経』もまた空性相応経典に説かれた「一切諸法無自性」

の密意として三無自性説が提示される。

  さらに「真実義品」と「菩提分品」の波線部には、その密意を理解しない者がいるとさ れている281。「真実義品」の用例は損減をなす者を否定する文脈に見られ、「ある者たち」

とは損減をなす者を指している。彼らは空性相応経典の意味、すなわち「一切諸法無自性」

の意味を理解せず、仮設の所依を非実在視するため、「真実義品」は彼らを最たる虚無論者 だと強く批難していた。一方で「菩提分品」の用例では、「一切諸法無自性」の意味を正し く理解せずに恐れる「ある衆生」がいるとされるが、具体的にどのような衆生であるかは 明示されていない。しかし「菩提分品」では菩薩がその「恐れる衆生」を随順善巧方便に よって摂取するという。このように、空性相応経典を理解しない者に対する『菩薩地』の 態度が異なっていることが分かる。サーガラメーガ註では、「真実義品」の者は「中観論者」

だとされ282、一方の「菩提分品」の者は「声聞乗」だとされている。前者の註釈は脚註に 示し、後者の註釈のみを以下に掲げる。

mdo sde gang dag las zhes bya ba ni rang bzhin med pa (283-la sogs-283) par ston pa rnams so //

teṣāṃ śāriputra jātivyativṛttānām apīme gambhīrā gambhīrā anupalambhapratisaṃyuktāḥ śūnyatāpratisaṃyuktāḥ ṣaṭpāramitāpratisaṃyuktāś ca sūtrāntāḥ svayam evopagamiṣyanti svayam evopapatsyante svayam evopanaṃsyante ceti //

シャーリプトラよ、彼らが生を変えたとしても、非常に甚深であり、非認識に相応し、空性 に相応し、そして六波羅蜜に相応しているこれら諸経典は、まさに自然に到り、まさに自然 に届き、そしてまさに自然に到達するであろう。

280 前註278参照。

281 『解深密経』においても「一切諸法無自性」に対する衆生の信解の程度には段階があるとされ、

信解するけれども理解できない者や、虚無論だとみなしてしまう者がいることが示されている。これ については本研究第4章で言及する(4.3.2 一切諸法無自性と聞いて損減をなす者)

282 BBhVy IV D96b5, P81b4

de bas gang dag(1) kha cig ces bya ba la sogs pa la / kha cig ces bya ba ni dbu ma par smra ba'o //

(1)em. dag : zag DP; cf. dag BBhDP

「それゆえ、ある者たちは」(ato ya ekatyā)などといううち、「ある者たち」(ekatyā)とは中 観論者(*Madhyamakavādin)である。

283 la sogs D : om. P