1、儒学からフランス学へ
井上毅は、時習館居寮生を退寮して第二次長州戦争に参加した後の1868(慶應3)
年、藩命によりフランス学修業のために長崎・江戸への遊学機会が訪れる。このフラン ス学の習得を基因として、彼の意識は次第に欧米の近代啓蒙思想を受容していくことと なる。
井上が、儒学からフランス学(西洋学)を学ぶ必要性を認識したターニング・ポイン トについて、木野主計は元治元年10月の横井小楠との沼山津での対談後、「『交易論』
を書くに至って世は漢学の時代を去り、洋学の時代に入ったと彼が認識した時にある」
412と解説している。しかしながら、横井との対談後に儒学から仏学への変遷があったと は考えない。確かに、その対談が一つの変遷の契機であったことに相違はないが、彼は 既に韡村書屋時代に欧米の書籍を多数読破しており、その時点において近代の学問を修 得していたからである。彼が学んだ韡村書屋とは、時習館訓導の塾長木下韡村(犀譚)
の漢学塾である。韡村の業績については第二章・第一節「青年・井上毅の思想形成」に おいて既述したように、彼は「西洋の学問文化が入来るに及んで、門人中にも横文字を 読むものが出てきた。則ち韡村は此等の者共に対し、世界の大勢を通観し、兵学を研究 するには、是非洋学に依らねばならぬと奨励した」413と記されており、韡村が経世済民 を実現するための洋学を奨励しそれらの文献を購入していたことは明らかである。それ 故に、多くの洋学書を購入して門人たちに提供し、それらを井上が閲覧読破していたこ とも又事実であると考える。
さらに、木野は井上がフランス学の中で特に重要だと思う文献に関して、「政治・法 律・経済・社会に関する本で、それはディドロ、ダランベール、エルヴエシウス、ドル バック、レナル等の思想啓蒙家であり、モンテスキューの『法の精神』とルソーの『学 問芸術論』『人間不平等起原論』『社会契約論』等の社会思想の本であった。」414と論じ ている。それに関して、井上がこの時期すでにフランス啓蒙そして社会思想としての自 然法理論の多くを学びとっていたことに注目したい。しかし、彼が学んだフランス学著 作については、彼の自筆記録書である『随筆』415の中に、これらの著者・書名・刊行年 の目録がフランス語で記載されていることは確認したが、それに対する見解についての 文書の存在は管見にして現在も確認していない。その記録が存在するならば、フランス 啓蒙思想に対する井上の考え方を知る貴重な資料となることは間違いない。
ただし、このような韡村書屋の教学環境の中で、彼は各国の文献を読破したことにつ いて当時の学習記録簿『骨董簿』416の中で以下のように記している。韡村書屋時代の第 一冊には、ヨーロッパ諸国の歴史を紀元前からの「各国分立図」が記述され、「羅馬」
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帝国が後に「仏蘭西」「伊太利亜」「孛漏生」等に分離していくことを自筆で図式化して いる。このことからも、彼が既にヨーロッパの歴史を充分に知悉していたことが判明す る。第五冊では、「西人所謂窮理者有」として「化学セ イ ミ」「察地之学ゲ オ ロ ギ イ」「鳥獣草木之学ソ ー ロ ギ イ ボ タ ニ
」
「測天之学ア ス ト ロ ノ ミ イ
」そして「電気之学エレキテリシテイト」についてその概略を既述し、ヨーロッパの高度な科学 技術水準を認めている。さらに、時習館時代の第九冊では、「西洋紀元一壱千八百六十 年方是我萬延元年英仏并兵侵清総四万五千・・」と、英国と仏国が兵四万五千をもって 清国を侵略したことを記述し、さらに「黒船可保百年云 ヘルリ之来夷人従者二千余人」
と記述している。これらの記述から、井上が、欧米諸国がその優れた科学技術と産業力 によって軍事力を強め、アジア諸国を侵略している情勢を充分に認識していたことは明 らかである。そのことは、既に横井との沼山対談においても重要論点417として論じられ ていた。
したがって、井上が一つの学問(儒学)に拘泥することなく、社会の現実を認識しさ らに未来を透徹する学問に対する姿勢をもって、基本的学問である実学的儒学を保持し ながらも欧米の科学的で合理的な近代思想を新たに受容していったのは当然だと考え る。このことは、井上が儒学思想から欧米の近代思想へ変換したのではなく、両者を積 極的に受容したというべきである。所謂、彼の思想として儒学(朱子学)は、「儒教ヲ 存ス」に「余宇内ノ書ヲ読テ、断然トシテ、儒教ヲ以テ正大第一トス」418と論じている ように、欧米の学問を享受したからといって放棄したのではなく、終生、彼の意識の中 で尊重すべき思想として強く存在していた。
井上は藩校・時習館退寮した後、一層深く「夷文」としての外国語の内容を直接読み 取るために、1867(慶應三)年から1870(明治三)年に至るまでの間「藩命」
のもとに長崎・横浜・江戸にてフランス学を学んだことは既に記した。その中において、
短期間ではあるが江戸の三計塾に入門し、安井息軒から法学と儒学そしてキリスト教の 宗教思想を学んだ419ことは、その後の自己の法思想と宗教観とにおける新たな思想形成 に大きな影響を与えたと考えられる。井上のこうした欧米近代思想の受容は、明治近代 国家構想の中心的法制官僚として、それらが重要な思想基盤としての学問となったこと は確かだと考える。即ち、彼の有力な法制官僚としての地位を不動のものとしたのは、
儒学思想と共に欧米の近代文明並びに啓蒙主義を含む法思想の習得にあった。そして、
それらの思想を基盤として国内外情勢の情報を詳細に収集し、それらの思想によって緻 密・冷静に判断・分析していったとみている。
この時期における学習記録簿として『随筆』と『行篋秘携』との二書が存在している ので、その検証によって彼の新たな思想を確認しておきたい。『随筆』は、日本の国内 生産高など経済の諸状況と海外事情等の記録であるが、これは岩倉欧米使節団の司法省 団員として随行するために用意した欧米に関する実態の勉学内容となっている。政治・
経済のみならず『伊能忠敬日本実測図』の地理学や鉱山・鉄道・軍隊・全国紙等26項 目に及び、使節団員としての必要な百科全書的内容を編集している。そのことは、井上
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自身が、勉学方法に関して問題事例に対する周到な準備および膨大な資料収集能力とそ れらに対する分析力を有していたことが窺える。
特にフランスに関しては、『西周万国公法』『仏地理書』『仏蘭西刑法書』そして『仏 国教育事情』などの書籍を読破し、同国への関心と理解を深めていることがわかる。中 でも『仏国教育事情』の項では、「輓近フランス教育ノ道大ニ進ミ、・・・」として、1 862年からの学校数と生徒数が記され、「千八百六十三年男女合併学校ノ数八万二千 百三十五所生徒二百六十二万七千四百余、三分ノ一ハ学費ヲ出サシメズ教育スル者ナリ、
外ニ女学校二万六千五百九十二所女生徒百六十万千二百十三人」420と記している。この ことは、井上が司法官僚としての学識のみならず、教育に対する高い興味・関心を示し ていたことの一つの証明となる。
さらに、『随筆』には、木野が指摘していたように、井上のヨーロッパ近代啓蒙主義 への関心ぶりを表明するように、多数のフランス啓蒙思想家たちの社会思想に関する書 籍内容が筆録されている。特に、ディドロの『百科全書』(Encyclopedia、1768~1837 年)の他、モンテスキューの『法の精神』(De l`esprit dea lois、1748 年)、J.J ルソーの『学問芸術論』(Discours sur les sciences et les arts、1750 年)、『人間 不平等起原論』(Discours sur L`origine de l`inégalité parmi les hommes、1755 年)、『社会契約論』(Le contrat social、1762 年)の三著作が自筆のペン書きにてフ ランス語で記録421されている。井上が、近代啓蒙主義の代表作であるこれら社会思想の 著作をどの程度読破・理解していたかの記録は現在のところ不明であるが、彼の学習書 籍の記録から推測する限り、一定の近代思想の知識としてフランス啓蒙家の理論を認識 していたことは確かだと考えられる。
また、『行篋必携』422は慶應3年の江戸遊学時代から明治4年までの大学時代の勉学 ノートであるが、国内の地理・経済等の諸状況が詳細に記録されている。当時において、
それだけの知識を得るためには相当の調査を要したと思われる。このような調査方法か ら、井上が一つの課題を前にした時、現実を徹底して把握することによって当面する政 治状況を解決していくという彼独自の学習方法を知ることが出来る。
2、ヨーロッパ研修
(1)司法省欧州派遣団と井上毅
1870(明治3)年9月、当時28歳の井上は、大学南校の小舎長として新政府の 官吏に就任するが、『辛未学制意見』を提出して大学改革を推進する中で、翌年2月に 辞任している。しかし、同年12月に司法省十等出仕として任官し、以後21年間の司 法官僚としての道を歩んでいく。そして1872(明治5)年6月、岩倉欧米使節団の