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張○

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 92-97)

郭正域 周元會 刘刕思 黄震

○慎 二、外言 法 と 道 徳

の 議 論 の 在り方

八編 (4)五輔第十

(5)八観第十三

(6)重令第十五

・六点・七體

・八経・五務

・三度

・法治主義

・経済思想

・君臣の役割

張○

梅士享 朱長春 蘓軾 楊慎 沈鼎

三、内言 管 仲 の 心 情

九編 (7)小匡第二十 朱養純

四、短語 軍事・政治

十八篇 (8)参患第二十八

(9)君臣第三十 君臣第三十一

朱長春 楊慎

五、区言 「法」を主

体 と す る 政治思想

五篇 (10)任法第四十五

(11)明法第四十六

(12)正世第四十七

(13)治国第四十八

朱長春 姚樞 張○

六、雑篇 時令と 政治論

( 賞 罰 論 を含む)

十三篇 (14)七臣七主 第五十二

(15)禁蔵第五十三

(16)九守第五十五

朱長春

七、管子解 経言・区言 の解説

五篇 選択無し

八、軽重 経済関係 十九篇 (17)揆度第七十八

井上は、この農業経済の充実こそが国富の大原則であり、併せて人民の道徳心を高揚

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させる国家論であることを第一に是認する。即ち、封建制イデオロギーとしての農本主 義に基づく国家論は、経世有用の実学を学んできた帰結としての彼の一つの理念でもあ り、現実的に高度な経済的基盤と人民の高い道徳的精神が並立していなければ国家の安 泰と人民の支配は困難であることが構想されている。この思想は、彼が後に「教育勅語」

を起案するに際して、「国家富強」の為には人民の徳育涵養の必要性を承認する起因と なったことも想定できる重要な指摘である。

井上の農本主義の理念は、彼が居寮生二年終了時の1862(元治元)年の秋397、沼 山津にて横井小楠との論議を通じて既に明確なものであった。小楠は「大凡民ハ農ヲ以 テ本トスト云ヘドモ只農業一端ノミニテ民用百物ヲ仕立ルモノナキ時ハ生活ノ道不足 致候・・(略)・・皆交易ヲ以テ我用ヲナシエタリサレバ民用ハ交易ナラサレバ立タズト 知ルベシ」398と論じ、農本主義のみでは不十分であるが故に交易をもって補うべきであ る富強論を展開した。それに対して、井上は「物産交易ノ法制日本一国ニテ国々互ニ融 通致候而既ニ事足リ不申候哉然ハ必シモ夷人ト交通不致候共宜カルベシト被存候ハ如 何ニ而候哉」399と、国内の交易で充分であり外国との交易を批判して小楠に問う。さら に、欧米列強のアジアにおける植民地化を批判して、「今日本現在夷人応接ノコトヨリ 内乱引起シ候処ヲ以テ是非モナキ次第故謝絶ニ及候ハヽ何故日本ヲ敵ト致シ候而日本 滅亡ノ禍ニ陥ルベキ哉」400と、鎖国の実施に対して列強が日本を「敵」とする行動を強 く非難している。

彼はこの直後に『交易論』を著し、この鎖国論を撤回して「交易ノ理易ニモ見エタル 如ク、民生日用ノ常道ナルコト、固ヨリニテ、今始ラザル道理ナルベシ、但シ我国ハ農 ヲ以テ本トシテ、交易ヲバ生道ノ一端トシ、西洋ハ商買ヲ以テ国ヲ立テヽ、交易ヲバ生 道ノ根本トス、是全体ノ国体同カラザルナリ」401と、交易を承認しつつも、国体(国柄)

の相違だとして日本の経済体制は基本的に農本主義に基づくことを変えない。そして、

「今日ハ愈以テ農桑ノ本務ヲ勧課スベキコトニテ、富国ノ道、専ラ是ニアリ」402と論じ、

農本主義に基づく富国論を変わらず展開する。これは、『管子』に論じられている富国 論と同一の論理であることから、既に彼がその富国強兵論を受容していることが明確と なる。よって、彼がその理論を機軸として『経済文選』を編纂していることも確かであ ると考える。

「経言」において井上が求めたものは、第一に農本主義を基盤とする国富経済論、第 二に「立政」篇の国富のための政治体制と経済政策としての政治論、第三に「七法」篇 の強固な法制度と強兵の政治論の三原則が定立することであり、それを国家富強と国家 安泰への必要条件としていることは確かである。井上の農本主義による「国家富強」の 論理は、明治20年代の資本主義経済の発展期においても基本的には変更がなかった。

(ロ)「外言」にみる法と道徳のあり方

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先ず「五輔」篇において、政治の補佐としての五段階(徳・義・礼・法・権)の政策 が論じられ、次いで国富並びに民を富ますための覇王の務めを「明王の務めは、本事を 強めて無用を去る。然る後民は富ますべし・・・忠愛を以て、民は親しむべし」(原漢 文)を抽出している。さらに「事に本りて、而して仁義は其の要也」(原漢文)と、君 の務めを仁義をもって対処すべきであることが結論付けられている。基本的に、井上の 儒教的「仁政安民」思想は、仁思想をその根幹に内在させながら経世済民と利用厚生の 実現である「仁ノ効用」403の実現を目指すものと考えられる。したがって、為政者は統 治原理として民に徳・義・礼等の儒教的道徳の涵養に務め、さらに法制度を実施して法 的責務を遂行させねばならないとするものである。即ち、道徳と法制度の併用による国 家安泰のための統治支配の論理である。そこに、彼の儒教的道徳観と法思想・法制度を 統合する構想が見えるのである。

次いで「八観」篇では、理想とする国の在るべき状態を八項目に分けて論じている。

ここでも、農業生産力を基盤とする経済政策が最優先され、経済力の拡大こそが国力の 強化、所謂国富の第一原則であるとしている。「重令」篇では、「朝に経臣有り、国に経 俗有り、民に経産有り」を抽出している。さらに、「経臣」篇は法制度と官僚政治、「経 俗」では政治道徳、中でも「経産」を基本に民は農耕・畜産に励み生産を増殖させて富 を蓄積することにあることを重視する。井上は、これら三つの要素を欠かさないことが、

覇者としての富国強兵の国づくりの原則であることを論じているのである。

(ハ)「区言」にみる法思想による政治道徳

井上は、まず「任法」篇において、最高の治世というものは、作為としての公平な法 制度の確立を前提としつつ、さらに儒教的発想である「夫れ法を生ずるは君也、法を守 るは臣也、法に法るは民也」(原漢文)との「自然の大道」として道徳観を許容する箇 所を選択している。これは、儒教的身分の位置づけを肯定する武士支配の封建制度を肯 定し、厳格な法の支配に「任」すべき法制度の確立を目標とする思想である。次いで「明 法」篇は、それを確実な政治体制とするためには「法を以て国を治むれば、則ち挙措す るのみ、是故に法度の制有るは、巧に詐偽を以て、権衡の称有るは、欺に軽重を以てす べからず。」(原漢文)と論じる。即ち、法によって国を治めるならば、法は確実に善悪 を規制し法規を誤魔化すことが不可能なため、法制度の確立が国を治めることに繋がる としている。

この論理は、近代立憲主義思想としての「君主は法を尊重」する原則の下に、絶対君 主としての「王の支配」(人の支配)から制限君主としての「法の支配」という政治体 制に通じる革新的思想である。この思想は、彼が1881(明治十四)年に著した『経 世論』において、「我國現今ノ事情ハ専制政治ノ区域ヲ脱シテ逐次ニ一般社会変遷ノ順 序ニ従ヒ鋭意ニ法律政治ノ範囲ニ進行セントスル」404と分析し、この「事情」を以って

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「我國ノ新ニ挙行セントスル立憲政体ニ於テ実ニ根源主義ニ関係スル者ノ如シ」405と結 論付けていることに実証される。即ち、「法の支配」は立憲主義を基本とする「立憲政 体」の「根源」の「主義」(思想)であることが、明確に自身の政治哲学として承認さ れているのである。この基本思想に依拠して、後に、彼が明治憲法試草(乙)案にて第 一章主権・第二条に規定した、「天皇ハ國権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ勅定スル所ニ循由シテ 之ヲ施行セシム」406と規定した根源がここに存するといってよい。井上は、君と臣の権 威の分別を前提にして、法による国家支配のためには、私心なき有能なる臣下を採用す ることで、法を厳格に遵守する法治主義国家を理想としているのである。

この論理は、「正世」篇においても「法立つべくして、而して治行わるべし」(原漢文)

を選択して、法の確立により平穏な国家統治が実行されるとしている。それを受けて最 後の「治国」篇では、「凡そ国を治むるの道は、必ず先ず民を富ます、民富めば則ち治 め易き也、民貧しければ則ち治め難き也、それ富国多粟なるは、農より生ず」(原漢文)

と論じられており、治国の基本は民の貧困を救済して富ますことにあり、それは農業生 産により生起するとする。さらに、「粟多ければ、則ち国は富む。国富むは兵彊し、兵 彊しは戦いに勝つ、戦に勝は地廣し」(原漢文)と結論付けられている。この抽出は、

井上の脳裏に、農本主義に基づく穀物生産の増殖が財政的富を蓄積し、さらにその富を もって軍事力を増強することが他国との勝利に連動し、結果としての領土拡大を確実な ものとする富国強兵論が構想されている。よって、彼は、経済的な生産活動を基本とす ることこそが富国強兵の大原則であることを明確にしている。ここに、井上の経済思想 の核心が存在する。

このように、青年学徒井上毅にとって、嘗て実学党の分派行動の起因となった経済的 富国論の相違点を克服することが、将来的に藩政の指導者となるべく居寮生としての一 つの課題でもあった。それは、主君監物と小楠両者の思想である道徳的並びに政治的思 想を相対化し、その整合性を図っていかざるを得ない学問上の課題でもあった。即ち、

両者の思想を止揚乃至は統合することでその相違と矛盾を自己に内面化し、封建秩序体 制の富国強兵を磐石なものとする具体的な政策を構想しなければならない立場にあっ た。この藩政を支える封建秩序イデオロギーとしての政策構想創出の道筋を準備するた めに、生産基盤としての経済論を重視して富国強兵政策を導き出したのである。即ち、

実学的視点から自らの思想形成の基本として編纂したのが『経済文選』であったとも考 えられる。

(3)『経済文選』から『経済論』へ

井上の思想の根底には、青年期に確立した法思想と共に実学的儒学思想が存在するこ とは既に論じた。それ故に、彼を明治憲法起草者としての立憲主義者あるいは皇室典 範・教育勅語の起草者としての「国体論者」407や儒学的道徳観の保持者であるとの評価

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 92-97)