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38 第二節 政治思想史における井上毅研究

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 39-44)

井上毅は、その生涯の大部分を法制官僚として明治近代国家の構築に尽力した人物で ある。したがって、彼の思想の基本軸は法による政治思想に在るとするのが妥当である。

それ故に、彼の教育思想も、その政治思想を機軸とする様々な要因をもって構築された と看做すべきであろう。そうだとするならば、その法思想並びに政治思想とは如何なる ものであったのかを考察することが肝要となってくる。よって、以下に法分野における 政治思想としての井上毅の代表的な先行研究を検証することによって、教育思想の基盤 となる彼の基本的思想を見出していきたい。

その為に、教育史と同様に、彼の法思想・政治思想を4つにテーマを分類して考察し ていくこととする。1つは、井上の明治近代国家形成における法制官僚としての役割と その法思想についての研究史。2つは、1と重複する面もあるが、明治近代国家形成に 井上がどのように「政治史」的に関わっていたかについての政治思想研究史。3は、政 治思想の位置から教育勅語を考察して、勅語に内包された政治思想とはいかなるもので あったかについての研究史。そして、4つは、政治史において、明治憲法(大日本帝国 憲法)と公教育との関係を論じた研究史について考察していく。

最初に考察するのは、明治近代国家形成において、井上が法制官僚としていかなる役 割を果たし、そしてその思想とは如何なるものであったかについての研究史である。

まず木野主計『井上毅研究』は、井上を日本法制史における主要な法制官僚として位 置づけ、「近代国民国家の諸制度を構築した・・(略)・・たぐい稀なグランドデザイナ ー」143として捉えることで「明治の法思想界における泰斗」144と論じている。木野は教 育分野における先行研究の多くが、井上を「為政者のブレーン」あるいは「影の黒幕」

と批判的に論じているのに反して、彼の法制官僚としての役割とその働きに対して一定 の評価を下している。本論の立場も、井上は為政者の命令・指示を受けながらも、欧米 思想から学んだ立憲主義者としての矜持をもって、一法制官僚あるいは文部大臣として 自己の思想を強く法案の中に挿入していった人物であると考える。特に、井上の近代立 憲主義に立脚する人権規範遵守に対する思いは強く、彼の立案した多くの法案や文献の 中にそれを見出すことが出来る。その一つとして、彼が法制官僚として起案した188 7(明治20)年の「憲法試草(乙)案」第十三条は、「教育ハ人民ノ自由ニ任ス」と 規定する。さらに、文相時代における人権保障の規定・規範の一つである「簡易就学貧 民教育ニ関スル省令案」には、慈恵の目的を含むとは雖も、貧窮家庭の児童や女子への 人権救済の思想が強く存在していることにもその思想が表明されていることは既に論 じたところである。

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本著が、井上の少年期・青年期の学問修得をその時代の資料を駆使して綿密に掘り起 こしている点は、これまでの井上研究に見られなかった貴重な文献資料である。特に熊 本藩時代の修学事歴は、井上の自筆学習記録簿である『燈下録』『骨董簿』『行篋秘携』

『随筆』を丹念に紹介して、井上が如何なる著書を読破して学んだのか、そして如何な る思想を構築していったのかを記している。特に、『随筆』中に記載されていた仏蘭西 書籍の中に、百科全書派の著作、モンテスキュー『法の精神』、そしてルソー『人間不 平等論』や『社会契約論』等の啓蒙書の多くが記載され、井上自身がペン書きによって フランス語目録を作成していたとする発掘は重要である。『随筆』中にはそれらの書に 対する井上の感想等は記されていないが、彼がそれらの社会思想の著書を読破したであ ろう事は充分に考えられる。したがって、既にこの時点においてフランス啓蒙書からそ の立憲主義思想を修得していたのではないかということは充分に想定できるのである。

そして、井上のフランス留学と司法制度研究を論じて、彼が留学前において予備知識 のための『万国公法』『仏蘭西法律書民法・刑法』等の海外事情と法律学の知識習得に 努めていたこと、さらにフランス留学中に於ける筆録ノートや「仏蘭西法律書閲読目録」

などの覚書目録が示してされており、井上のフランス学に対する学びへの執念が感じら れる。一方で、井上のドイツでの研修記録については殆ど記されていないことにも注意 が必要である。

木野は、法制官僚としての井上の事蹟について、佐賀事件を契機として参議・内務卿 大久保利通との関係を深め、台湾出兵問題等をめぐる日清交渉における二人の関係は

「官僚として直接的の上司下司の関係ではなかったが随員として効果的な仕事を通じ て固く結ばれた」145と記し、所謂、為政者との結びつきを通じて彼の意見・思想を政府 中枢に提起する機会を得ていったと論じている。1874(明治7)年12月、彼は最 初の著作である司法四部作146が出版した後、翌(明治8)年3月11日、大久保に『司 法省改革意見』を提出して司法の独立という日本の司法制度の確立と三権分立の基礎と なるべき提議をおこなったこと、さらには同年5月13日には『拷訊廃止意見』を提出 して「現今国法ノ惨ナルコト拷訊ヨリ甚キハナシ・・(略)・・故ニ法ヲ論スルハ拷訊ヲ 廃スルヨリ急ナルハナシ」147と拷問の廃止を提言したことを記している。そのことによ って、井上が立憲主義に基づく人権思想の立場から法に基づく刑罰と人権保障を強く提 言したと論じた。そして、井上が司法権の独立擁護について「極めて具体的な形で政治 組織に於ける法権不羈独立の原則を強調」148したと、彼が政府内部で政治的な処置を画 策した事を記している。本論の立場も、これらの提言は、維新直後の封建制が残滓する 時代において、井上が近代立憲主義の法思想に依拠しながら、司法権の独立と拷問廃止 という人権保障を提唱した意気込みの中に開明派官僚としての姿勢を見て取る。

木野は、井上の法思想を総括的に論じる中で、井上の憲法観を「君主主権主義と立憲 主義に基づく、所謂、立憲君主国家観である」149と結論付けている。その理由付けとし て、「帝室ト法律トノ関係」(明治25年)の中で、シュルツの国家論を参考にして「君

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主モ亦法律ノ範囲内ニ在ルベキ主義ノ基ク所ヲ説明スルモノニシテ、我カ憲法ニ国ノ元 首トイヘル大義ト正ニ相符号スルモノナリ」と論じたことをもって、井上の「君主遵法 主義」を主張する。本論も、井上が天皇の地位につき憲法規定を遵守する「制限君主」

と位置づけていたことは明らかであり、彼の憲法試草(乙)案第一章主権・第二条は「天 皇ハ国権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ勅定スル所ニ循由シテ之ヲ施行セシム」150と規定し、そし て、その試草案は大日本帝国憲法第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲 法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」として正式に規定されるに至っていることから考察して、木 野の「君主遵法主義」とする論は妥当であると考える。

本著には、井上の教育思想に関する内容は論じられていないが、彼が立憲主義者とし て、その法思想並びに法治主義にもとづく人権思想を強く保持しつつ、明治近代国家へ の意見提議と法の起案提出に尽力していた事実を知ることが出来る。したがって、その 法思想・政治思想を機軸として、井上の教育に対する思想と政策も構築されていったと みるのが妥当と考える。

次に、山室信一 『法制官僚の時代』-国家の設計と知の歴程-』と『近代日本の知 と政治』-井上毅から大衆芸能まで-』の二著作は、井上の法制官僚としての思想とそ の政策が論じられており、井上の法制官僚としての法思想に関する代表作といえよう。

先ず『法制官僚の時代』においては、日本における国家の在りかた並びに法制官僚の 時代への過程が総合的に論じられている。特に、1873(明治6)年の政変、所謂、

征韓論争という権力闘争について、法制改革を基本とする国家形成の進め方の原理をめ ぐる相克の中で二つの理論上の路線闘争が生じたことを示唆する。一つは、議会設立に よって政策決定過程に国民を組み込む路線であり、二つは、その国民を排除して「官僚 寡頭制で進む」151路線であった。結果的に、明治新政府は薩長を中心とする藩閥政治を 展開し、官僚による法案作成がそれを補完するという政治体制が構築され、行政府によ る実質的な「官僚寡頭制」が完成したことは承知のとおりである。井上毅は、その「官 僚寡頭制」を構成する一法制官僚として登場する。

山室は、当時フランス研修から帰国後の青年官僚井上の法制哲学を、「過去をそのま ま踏襲するのでもなく、ある理念だけを唯一絶対とするのでもなく、現在確実に施行さ れている他国の法制や過去の史実のうちから日本に適合的でしかも良好なものだけを 素材として集め、新たな変化や変革には可能な限り慎重に対処して、ある望ましい過去 や模範国のパターンに似せて現状を徐々に組み立て直していく」152ものであったと論じ る。そこには、井上を、現実の状況を冷徹に直視しながら臨機応変かつ「慎重」に自己 の思想を構成する人物像として捉えている。そうした人物であるが故に、山室は、欧米 より帰国後の井上は欧米の模範国を無条件に肯定する官僚たちと異なり、欧米と日本と の現実を見据えながら第三の道を独自に示し、そうすることこそが法制官僚としての

「知の義務」153であり責務に他ならなかったと指摘する。そこには、井上が「知の義務」

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