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184 第二節 井上毅の「国家富強」論と実業教育

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 185-195)

-実業教育政策にみる公教育としての貧民教育-

本節においては、「国家富強」を推進する井上文政期において制定された実業教育関 連法案や規程を主たる資料として、国民皆教育を意味する「公教育」の一環としての彼 の実業教育と貧民教育政策について論じるものである。さらに、それらの教育政策を通 じて、井上の思想基盤であるところの立憲主義と法治主義に依拠した法思想により、第 二義的に、彼が人権思想としての「人民の教育権」をも想定していたとする論証を試み ていきたい。

1、先行研究にみる井上の実業教育論

井上毅の実業教育に関する、教育思想・教育政策としての先行研究例768は多数存在す る。代表的な教育政策論である海後宗臣編『井上毅の教育政策』は、その「むすび」に て井上の実業教育政策の特徴を、その立案過程において「欧米先進諸国の産業教育政策」

理論から修得したと前提し、実業教育振興の方策として「産業の生産性を高めるために

『慣習技能』に『学理』すなわち『学術ノ結果』を付加することに定め」「全学校教育 を実業という視点から再検討」769したと論じている。そして、井上が実業教育の基本と して工業を産業の中心に置き「生産力の担い手としての下級技術者、熟練労働者層に注 目」したと論じる。この論については、本論も「国家富強」を実現する教育政策として 評価出来る。

同様に、「井上文政の歴史的位置」を論じた佐藤秀夫は、彼が教育の政策課題として

「資本主義化の進行にともなう国家社会構造の高度化によって、国家に有用な人材を形 成するという公教育目標の、その『有用』性の内容が多元化してきている事実を認識し、

これに対応して教育制度体系の改編を意図した点」770を挙げて、「国家富強」実現のた めの「有用な人材」育成が主張されたと論じた。その一例として「実業教育の制度化へ の着手」を指摘し、結果的に井上文政が明治公教育体制確立への前奏曲となりえたと評 価する。即ち、井上は、日本の資本主義の発展段階における人的・技能的人材の養成を 理由として実業教育政策を意図したと論じている。

本論は、「国家富強」実現に向けての実業教育政策の中には、井上独自の立憲主義的 人権思想が注ぎ込まれていたと考える。これに関連して、既述したように、坂井雄吉『井 上毅と明治国家』は、実業教育に関する記述は特にないものの「人民の自由権」に関す る井上に対する見解について、「井上毅の法の認識-その「国法」「私法」観念を手がか り-」と題して、井上が『治罪法備考』の分析を実施することで人民の「限定」的とは 雖も「自由」を意識していたとして「上からといわず下からといわず、あらゆる種類の

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恣意の介入を排除しつつ『客観的』な正義と法秩序の安定性を確保しようとする彼の考 え方こそは、西欧治罪法の諸『原則』を紹介するに当たって彼が人民の『自由』を強調 するに吝かではなく、否むしろある程度まで積極的とすら見られた理由をも説明するも のとする。」771と論じていた。この見解は、井上が刑事訴訟法分野における人民の「自 由」をその立憲主義と法治主義の見地から論じたもので、人身の自由という「限定」さ れたものではあるが、彼の一定の「自由」権への思想性を見出すことが出来る。そこに は、教育論からは無縁の見解に思えるが、実業教育における井上の人民の教育の「自由」、

所謂、彼の立憲主義に基づく人権保障としての教育の権利の保障に通じる論理が見出せ るのである。

多くの先行研究から読み取れる井上像は、第一にその政治的役割の評価として、井上 が明治政府内における中心的法制官僚として捉えられており、共通して彼を政府ないし 為政者の構想する政治を補完する有能で合理主義的な「ブレイン」「グランドデザイナ ー」と看做されていることである。その中において、山室信一のように、有能な「グラ ンドデザイナー」という見解もあるが、最終的には為政者の恣意的決断にその方策が左 右される一官僚であるが故に、その政治的決定権の限界772をも指摘する研究もある。第 二は、文相である一政治家としての評価である。『井上毅の教育政策』が論じているよ うに、井上は、日本の資本主義成立期における「国家富強」の確立を目的として、「国 体教育主義」の下に工業化への人材育成をめざす実業教育を含む公教育確立の教育制度 再編を推進した人物と指摘する見解が多数を占めていることである。

以上の先行研究を前提として考慮しながら、、井上の実業教育と「国家富強」との関 係をさらに考察していきたい。

2、「国家富強」への実業教育

(1)「国家富強」論と実業教育構想への思想形成

①井上の「国家富強」論

井上の「国家富強」については、既に藩校時習館時代、『菅子』論として編纂した『経 済文選』の中で、農本主義によって国家財政を増殖し富国強兵の原則773を確立すべきこ とが強調されていた。その後、彼は法制官僚の立場において明治近代国家建設を実現す る方策により、農本主義から工業を基本とする資本主義への発展へと政治思想を転換し、

「国家富強」の産業構造と軍事力に基づく政治構想を推進させていくことになる。その ことは、欧州研修より帰国後の1874(明治7)年末の『欧州模倣ヲ非トスル説』に おいて、「日本ハ欧州ノ美観ヲ学フヘカラス・・(略)・・宜ク勤倹刻苦シテ富強ノ源ヲ 培養シ文明ノ基礎ヲ為スヘシ」774と記し、欧米列強に力で対抗できない現状の中で、「富

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強ノ源ヲ培養」し「文明ノ基礎」を確立すべきことを強く提唱している。ここでは、政 府が中心となって「富強ノ源」である殖産興業を推進させ、資本主義経済の基盤を確立 することが第一義的に実行すべきであるとして資本主義発展の課題を模索している。こ の課題は、後に彼の教育論の一つとして結実し、資本主義経済を土台部分で支える基幹 労働者を如何に養成するかという実業教育の必要性を構想させていくことになる。

その他、井上の「国家富強」論の実例としては、既述したように、同(明治7)年8 月、台湾問題の解決策を大久保利通宛『対清政策意見案』で提議した際、「日本ハ尚武 之国にして祖宗以来武を以て国を立て給ヘリ、・・(略)・・早キに及て機に投し一挙し て勝を決し然る後ニ再タヒ両国永遠之親好を謀るに若かざるべし」775と記し、日本国が 元来「武」によって成立する国であることを以って武力による侵略を正当化している。

さらに、明治8年の伊藤博文宛『朝鮮政策意見案』においても、「清ノ太祖ノ朝鮮ヲ伐 ツニ、三月ニシテ平ク、今一万ノ兵ヲ用ヒ六月ニシテ王城ヲ挙ク(師ヲ旋ス)ベキナリ」

776と提議して、朝鮮に対する武力行使による解決策を要請している。青年官僚としての この時代、井上はアジア諸国に対する武力行使の「国家富強」論を当然視していたので ある。

これに関連して、国内の民権運動に対しても、同(明治8)年『新聞条例意見』を提 議して、「孟得斯咎モ ン テ ス キ ュ ー

廬騒ル ソ ーヲ以テ自ラ居ル、是レ学者ノ通獘怪シムニ足ラザルナリ」777

モンテスキュー、ルソーの出版・言論の自由を許容しつつもその思想を是とする学者を

「通獘」(弊害)だと批判した後、「浅見ノ士ハ往々思想ノ自由ヲ以テ発言ノ自由ト相混 ス、夫レ思想ノ自由ハ人々ノ方寸冥々ノ地ニ存ス、故ニ何等不義不禮ノ思想アルモ、法 律絶テ之カ制限成スコト能ハズ、其ノ発シテ言論筆記トナリ以テ世ニ公ニスルニ至テハ、

ソノ他人ノ利害ト相渉ル、是レ範囲制限従テ生スル所ニシテ、条例以テ其過獘ヲ防ガザ ル可カラザル所以ナリ」778と意見している。これは、彼が内心の自由を認めつつ、「世 ニ公ニスル」という外在的行動に対しては「利害」が生じることをもって条例を以って 規制することを論じたものである。この意見は、井上の「国家富強」実現の為の国内的 人民抑圧の一環であることは確かであるが、彼の法制官僚の一つの意見として捉える限 りにおいて、その提議は治安維持を目的として当然なものでもあった。但し、同年5月 13日に『拷問廃止意見』を提議して、官吏による拷問の廃止を意見提議した彼の心情 は、法制官僚としてよりも立憲主義者としての意見提議だと考える。この二つの事例か らは、井上毅の公人・法制官僚としての思想と私人・立憲主義者としての思想という、

彼の内に存在する二つの思想の葛藤が読み取れる。

注目したいのは、1887(明治20)年3月の『経済論』である。この論文は、欧 米「先進国」と我国の「後進ノ国」の生産力と消費力を比較して、「後進ノ国ノ開化ハ 本ト自力ニ倚頼セスシテ他力ニ感動セラレタルモノ」779と日本の現状を批判し、「国家 富強」を実現化する為には、「他力」を排し「自力ニ倚頼」する国家と国民の「自力」

の必要性を強調していることである。したがって、国の盛衰は生産・消費の経済力こそ

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