教育ハ人民ノ自由ニ任ス但政府ハ公立私立ヲ問ハズ学校教課ヲ監視スルノ権ヲ有ス
この規定は、15年「憲法私案」第十六条「凡教学ハ各民ノ自由ニ任スト雖モ政府ハ 公立私立ヲ問ハズ学校ヲ監視スルコトノ権ヲ有ス」と類似しているが、いくつかの相違 点が見られる。
先ず「私案」に規定されていた学問の自由規定そのものが、「試草」の「甲案」には 国民の権利規定条項の中に規定されていないことである。そして、「私案」の「各民ノ 自由」から「試草」の「人民ノ自由」への字句変更に関しては、権利の対象を明確に「人 民」と表現したことにより、人民個々の権利と保障がより明瞭となったことは評価して よい。さらに「試草」の「乙案」第十三条は、1848年11月発布のフランス共和国 憲法第二節(憲法により保障された市民の権利)の第九条「教育は自由である。-法律 の規定する能力および道徳性の条件にしたがい、かつ国の監視の下において実行される
-この監視は、なんらの例外なしにすべての教育および教化の施設におよぶ」677とした 教育条項規定にも類似しており、井上がフランス学研修の一つの成果として参考にした ことが推測できる。
彼は、当時の欧米近代国家において、「能力」(知育)と「道徳性」(徳育)に対する 自由の保障を確保することが国家富強のための不可欠の条件であったことを充分に知 悉していた。それ故に、「教育の自由」は近代国家建設と近代立憲主義確立のための必 須課題としていたことが読み取れる。さらに、欧米列強との不平等条約を解消するため にも、近代立憲主義に基づく教育権の保障規定は不可避の条件であることも理解してい た。但し、後の自由民権論者たちの私擬憲法草案で規定されている無条件での教育の自 由678に比すれば、彼の「試案」は政府の「監視」を条件とする「限定」規定となってお り、それらからは後退していることは確かである。
(2)憲法試草「甲案」の教育条項欠落理由
「試草」の「乙案」と同時に提出された「甲案」に、教育条項が皆無であったことに は二つの理由が考えられる。
一つは、明治15年「憲法私案」の「国民」規定第四条「凡ソ國民タル者ハ法律ノ定 ムル所ニ従ヒ平等ニ公権及私権ヲ有シ同一ノ保護ヲ受クベシ」の規定である。井上は、
明治憲法発布の翌(1890)年9月に「憲法衍義之一」として『内外臣民 公私権考』
を出版し、その「少序」の中でこの著作の意義を憲法解釈の疑義を帰一するため679だと 記している。そして臣民の権利を二つに区別して以下のように説明する。「第一私権は 人民各箇の生活に随伴する私益上の権利たり、公権は社会の一員として公共の事務に参
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与する公益上の権利たり、故に私権は民法を以て之を規定す、公権は憲法又はその他の 國法に依りて之を認定す。第二私権は人民の一身又は一家の生活の福利なる・・・第三 私権は人々之を享有し男女老少区別あることなく唯其の行用に於て能力不能力あるの み」680と論じた。そうだとするならば、井上は、教育権を人民の私権に関わる権利であ り公権とは解釈しなかったが故に、憲法上の条項に規定しなかったことが考えられる。
確かに、明治民法第八七九条は「親権ヲ行フ父又ハ母ハ未成年ノ子ノ監護及ヒ教育ヲ為 ス権利ヲ有シ義務ヲ負フ」681と規定する。しかし、これは家父長権的乃至親の有する権 力としての私法上の関係により、親権者である父母の子どもに対する教育を受けさせる 権利と義務について規定したものであり、子ども自身の教育権、即ち人民(国民)の教 育権を保障したものではない。よって、憲法条項から教育規定を削除した理由とは成り 得ないと考える。但し、明治憲法の法概念においては、憲法に規定無き権利義務、例え ば憲法列挙外の「自然ノ自由」権として「子女教育ノ自由」認めるという有力な論682も 存在する。
他の理由としては、憲法草案作成過程において相談相手となっていたドイツ人法律顧 問の意見を斟酌したことに起因することが大である。既に明治18年の憲法制定に向け ての研修会「憲法講義」において、カール・ルドルフ(Carl Rudolph)は「国民ノ権利 即チ外形上ノ自由」に関して、「教育ノ自由ト云フコトヲ明載スルトキハ、必ズ是ヨリ 百端ノ議論ヲ生ジテ為メニ行政ノ権力ハ其減殺セラルベシ」683として、教育の自由規定 が行政権弱体に繋がると警告している。
さらに、井上は自らの憲法草案作成に関し、前述のカール・ロエスレル(レースラー)
とアルベルト・モッセ(Albert Mosse)に対して問議している。そこで彼は、基本的に
「国民ノ権利ト自由ハ法治国ノ最モ貴重ニ保護スベキ者」684と前置きして、国民の権利 と自由を尊重しながらも、フランス啓蒙思想流の「哲学ノ理論」即ち天賦人権説を政府 反抗ないし転覆の原因として排除する姿勢を変えていない。そして、一に国民の基本権 規定を「憲法」規定に掲載すべきか、二に「憲法ノ前置ノ詔勅」において示すか、三に
「総テ之ヲ特別ノ法律ニ譲」るべきかについて問議を試みている。
先ず、ロエスレルは「根本権」(基本的人権)が憲法の「大眼目」であり、当然明記 すべきとしつつも過度に広げるべきではないとして教育の自由条項は欠落させている。
その理由は、宗教の自由と同じく「一定ノ範囲」においては認められるが、「恣ニ教育 ヲナスノ権ヲ予フルハ・・・国民ノ年少ナル者ヲ各種ノ迷路ニ誘カシムル」685ことにな り、年少者の「一意ニ其ノ受クル所ノ教ヲ信スルモノ」なるが故の危険性を指摘して、
教育は「国家ノ管掌」の下に実施すべきであると答議した。よって結論的に、教育条項 は国民の義務のみならず権利としても憲法上に規定せず、詔勅ないし法律等の他の方 法・手段において規定すべきことを答議したのである。
次に、モッセの答議も憲法上に国民の権利義務を掲載する必要性有りとして「試案」
を出してはいるが、その中に学問の自由を含む教育に関する条項は見当たらない686。た
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だし、彼はかつて「憲法講義」において「自由教育ト云カ如キハ、恰モ自由ト云フノ一 字ニ就テ空理ヲ問答スルモノニ異ナラス」687と論じており、教育の自由に関しては批判 的であった。しかしながら、彼はその第八回「憲法講義」において「王ヲ愛敬スルノ心 ヲ生ゼシメテコソ、始メテ其国ノ富強ヲナスベシ、是丈ハ全ク教育ノ助ケナクンバ成立 スベカラザルナリ。」688と講義して、教育による役割を君権維持と富強の関連として位 置付け、国民の学ぶ権利としての教育とは無関係に、政治的な天皇制維持という国体国 家構想維持の手段としての教育論を展開していることも事実である。以上のように、井 上の質疑に対する二人のドイツ人法学者の答議は、彼の憲法における国民の権利義務規 定に極めて重要な影響を与えたと推論できる。
井上は、1887(明治20)年4月下旬に自らの原案として作成した試草「乙案」
を起案し、次いでロエスレルとモッセの答議を参考に「甲案」を5月に作成して伊藤宛 に提出している。689特にロエスレルの教育条項掲載の有無理由は、「甲案」への不掲載 の重要な示唆となったことが考えられる。本山幸彦も「甲案はモッセやロエスレルの教 育に関する国家管理主義に従って、憲法に教育を保障する法的根拠として規定に入れな かったが、井上は自らの立場で書いた乙案には、第三章「国土国民」の第一三条に」690 教育規定を入れたと結論づけている。したがって、井上は、「乙案」に自らの意思で作 成した教育規定掲載案を併せて提出するという苦渋の選択を余儀なくされたことが考 えられる。結果的に、彼はその決断を8月の「夏島草案」以後における伊藤らとの討議 過程に委譲せざるを得ないと判断したとみてよい。しかし、憲法条文中に「教育の自由」
を挿入せんと試みた彼の「乙案」は、立憲主義の見地からも特筆すべき事項であること に変りはない。そこには、立憲主義を自らの思想基盤とする井上の法制官僚としての譲 れない決意があったとみる。
第一の理由は、井上が、日本の統一国家と国家の独立の為には、教育の自由を憲法に 規定することによって、教育の力による国民の啓蒙と「科学的」知識の習得こそが喫緊 の課題であることを知悉していた故である。教育の力こそが日本の近代国家への道を歩 んで行くに際しての富国強兵・殖産興業政策を早期に実現していく必須条件であること の認識である。第二の理由は、明治十年代からの自由民権運動の高揚と連動して、私学 教育の普及の進展とともに学問と教育の自由が唱道されていた事実を無視できなかっ たことである。したがって、明治政府における開明派の一官僚として立憲主義を擁護す ることの意義は、近代国家完成の為に欧米諸国の理解を是が非でも獲得する為の避けて 通れない課題でもあった。しかし、結果的に、彼が憲法試草「乙案」に込めた意図は「夏 島草案」以後の憲法案における教育条項の欠落によって実現し得なかった。しかしなが ら、国民の権利義務に関して、井上の人民に対する教育の権利思想は、憲法の公的解説 書と言われる『憲法義解』の中に、その教育の自由と権利の意図が形を変えながら説明 されていると考える。