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ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 44-53)

他方で山室は、明治維新から明治憲法体制が確立する法制官僚の時代を称して、「政 治的な革命と文化的革命の時代であったが、その革命性とは空間的には外に模範国・準 拠理論を求めることによって権力的正当性を、時間的には内に国体・皇典に権威的正当 性を求めることによってはじめて可能となった」166と論じている。明治維新を如何に見 るかについては様々な論があるが、やはり一つの時代を画する「革命の時代」であった ことは否定出来ない。その政治的「革命」に、井上は自らの漸進主義を固守しながら果 敢に参加していった中心的な法制官僚であることに間違いはない。その場合においても、

井上にとっての最大の思想的武器は、自ら少青年期より学び修得してきた多くの「知」

であり、そしてその「知」による冷静な判断力と実行力であった。

さらに、『近代日本の知と政治―井上毅から大衆演芸まで-』は、前著『法制官僚の 時代』を受けて、法制官僚の「知」と「政治」の関連性が論じられている。山室は、そ の著作目的を「法による支配の系譜」を分析する中で、「〝能く政法を制度して国安を 保全〟した法制官僚(l´egiste)とその典型としての井上毅の思想史的分析を通じて、

彼らが法継受に伴う技術的操作によって政策を嚮導しえたことの意味を国家の制度化 との関連において明らかにし、併せて、近代日本における統治理性と政治倫理の関連性 を探ろうとするものである」167と述べている。法と制度の必要性が、政治機構や支配の 方法として必然の事項であることは、岩倉・大久保・木戸ら為政者たちが国家・国民の 形成や「国家富強」と条約改正等を実現する為の不可欠の条件として実施していた通り である。それは、我国独自の法の統一と法制度の整備の実現であった。そして、それら の実質的な政策内容を決定して、政策嚮導と人心教導を実践化していったのが「知」(知 識)の集団である法制官僚たちであったと論じたのである。

山室は、この政策嚮導を一層高次元の政策へと導き、「明治国家の制度化を主導した 法制官僚が現に存在したのである。井上毅がその人であった」168と記して、井上を「明 治国家の制度化を主導した」中心人物であったと論じている。その理由として、彼の1 881(明治14)年10月11日の『各参議立憲上疏』の一部「各国ノ長ヲ採酌スル モ、而モ我カ国体ノ美ヲ失ハズ」169を例示することで、明治国家の制度化を彼が主導し たとしている。確かに、井上が終生万世一系の天皇・皇室の伝統的歴史観としての国体 思想を擁護し、その思想をもって明治憲法・皇室典範・教育勅語等の国家の基本法を制 度化したことは事実である。しかし、山室は、井上が「明治国家の制度化を主導した」

その他の理由として、ここでも、欧米主義を模倣し且つ法秩序の維持に強制力を持って 人民に対処する多くの法制官僚とは異なる政策を実施したと指摘する。何故なら、井上 は法的規制を皆無とはしないと雖も、民心や徳義などへの配慮をもって「世道ノ変ハ常 ニ人心ニ因ル・・・故ニ国家治ヲ制スルノ道、他無シ、善ク人心ヲ制スルニアルノミ」

170であったとする、所謂、「人心ノ収攬」論を優先したと指摘した。

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即ち、山室は、人心が政府から離れるならば「国家富強」の事業が頓挫することは必 定であるが故に、井上は人心の教導こそが政治体制と秩序維持にとって不可欠の条件で あったとするのである。法制官僚井上にとっては、国家と国民形成のために欠くべから ざるものとしての人心教導の重要性は、政策の嚮導と共に無視できないことを論じてい る。本論の立場も、「国家富強」の実現のための政策に、井上が何よりも期待したもの は、自立した人民(国民)の力であった。そこに、「知」を得ることで自立した人民を 育むという、彼の教育の重要性に対する認識が自然と生じていたと考える。したがって、

山室のいう、井上が政策嚮導と人心教導の両面から「明治国家の制度化を主導した」法 制官僚であったと論じたことを評価したい。

さらに、井上の政策嚮導の核心は、「 危 機クライシス・管理的マネジメント資質」171に存在していたと結論付け、

彼が法秩序の確立を政治的信条の一つとしていたことを漸進主義者の立場から論じて いる。そして、明治14年6月の『憲法意見(第三)』にて提議した「独リ国体ヲ敗ル コトアルノミナラス其世ノ安寧、国民ノ公ママ福ヲ図ルニ於テ亦或ハ将ニ空理憶想ノ外ニ出 テ、悔ユトモ追フヘカラザルニ至ラントス」172を引用して、国体維持の条件としての法 秩序保持を論じている。又そのことは、『地方行政意見案』(明治13年3月23日)に いう「国安ヲ保チ国体ヲ全クセン」173の論に表現されているとも説明する。それを実現 する為には、「治安ヲ維持スルカ為メ臨機必要ナル処分ヲ施ス」174という強硬手段をと ることも辞さなかったとする。それが、1875(明治8)年6月に起案した『讒謗律』

と『新聞紙条例』であったとする。それ故に、山室は、井上もまた法制官僚として政治 秩序の攪乱に対して警戒的であったとして、法秩序の維持を固守せんとする一官僚であ ったことを論じている。

確かに、それは政策嚮導の実施に伴う法制官僚としての宿命である。しかしながら、

井上は『讒謗律』等を草案した1ヶ月前の明治8年5月13日に『拷訊廃止意見案』を 参議宛に提議して、「法ヲ論スルハ拷訊ヲ廃スルヨリ急ナルハナシ」175と現行法におけ る拷問の廃止を訴えている。このことは、彼の人権擁護の精神が身体の自由を擁護する 立場から提議されたものであったとしても、そこには立憲主義的見地からの教育の自由 等の精神的自由をも包含していく人権保障という思想的立場の存在を認めるものであ る。『讒謗律』等の起案は、国政の実施を推進すべき法制官僚の立場と法制官僚である が故の社会秩序の安定性を優先したもので、『拷訊廃止意見』にみる人権尊重の思想と の間には、大きな葛藤が生じていたとしても不思議ではない。このように、井上毅の政 策立案は、立憲主義的人権思想と儒教的「仁政安民」思想を基本としながら、人民の権 利の保障を考慮しながら相対的な判断によって政策嚮導の決定を行なったと考える。

人心教導については、「国家富強」実現の為の強力な方策であることは既に論じたと おりである。山室は、井上が法と道徳の分離を理解したうえで、人心教導の目的は人民 に「国家観念」と「国民自意識」を注入することを最優先課題として、その手段として の「法や教育による枠付けと刷り込みが不可欠」176なものであるとしている。そこには、

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井上が教育問題に関わる一つの要因となっていたことを窺わせるものがある。特に井上 は、我国人民を「善良ニシテ治メ易キ性質ヲ有チタル」「強迫ヲ用ヒズシテ専ラ奨励勧 導ノ力ニ依頼」177するという性善説の立場を採っているために、「法や教育」による人 心教導が有効に発揮されることを思惟していたと分析している。

最後に、山室は井上の政治信条について考察している。井上はその儒教的素養に基づ いて名利を求めず経世済民を志向していくが、その基底には「士族としての武士道感覚 と官僚としての職分観とが織りなしたものであった」178とする思想が存在していたと分 析する。「武士道」として、儒教的「仁」思想を基盤とする為政者としての「仁政安民」

を強く保持していたことは既に述べたところである。しかし、彼の真骨頂は、やはり立 憲主義思想を機軸とする「職分観」の実行にあったと考える。内的な思想としての武士 道感覚は存在するが、外的には立憲主義に基づく法制官僚としての政策実行力にあった といえよう。但し、山室は、井上が「目標達成への責任感、私利私欲を求めない廉潔、

理念実現のために陰謀も術数も敢えて辞さず、しかし賎しいことをしない決然たる執 念」179という自己の信念に基づいて政策立案していたことを論じる。

本論も、その意味において、井上を日本史上不世出の法制官僚として承認するもので ある。それは、政府の「ブレイン」あるいは陰謀・術数という為政者の陰の「黒幕的存 在」の面も事実存在するものの、彼をほとんど「無私」に近い法制官僚として、明治天 皇制国家の「国家富強」政策を法的に牽引した人物であると考えている故である。同郷 の徳富蘇峰は、井上を「模範的官僚」180と位置付けながらも、既述のように、他方で「彼 が精励、信実、清廉なる官人的生涯は、実に一代の標本と謂はさるを得ず」181と評して いる。また、彼が文相就任時、「教育評論」は井上を「忠直端正、学識兼備、而も、温 厚君子の美徳に至ては、今の官吏中、多く其の人を見ず」182と評していることからも、

彼の政治に対する人間像の一端が窺える。

近年において、井上の法制官僚としての井上を評した著作に瀧井一博『伊藤博文-知 の政治家-』がある。同著は伊藤博文を中心として論じながらも、法制官僚としての井 上毅を、伊藤の「知恵者」ないし政府の「イデオローグ」であったと評している。そし て、山室の『法制官僚の時代』を資料として、明治十四年の政変の真の主役が伊藤や大 隈たちではなく、その背後にいた井上毅や小野梓であったと指摘する。そして、瀧井は

「確かにこの頃、政府側にはすでにプロイセン型立憲君主制を知悉し、それを唱導して いた知恵者井上毅がいた。彼こそ大隈の急進論を破砕し、伊藤を勧説して憲法起草の任 にあたらしめた政府のイデオローグである。しかし井上の存在は伊藤にとって決して安 心できるものではなかった。というのも、井上はしばしば伊藤の頭越しに行動し、岩倉 や井上馨らを頤使するかのような行動をみせていたからである。そうやって井上は、自 己の抱くプロイセン流憲法構想へ向けて政府全体をシフトさせていこうとしていた」183 と記して、井上が伊藤をして「プロイセン型立憲君主制」を誘導した張本人であったと

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