そこで起草された「日本教育令」は、太政官での審議を経て1879(明治12)年 9月29日に「教育令」(太政官布告第四十号)として公布されるに至る。その太政官 審議を中心的に進めたのが、当時参議兼法制局長官の伊藤であった。その内容は、公教 育の基礎確立の為に、必修教育課程(読書・習字・算術・地理・歴史・修身)を設定し、
「学制」以来の学区制を廃止して地方人民が選出した「学務委員」による教育行政を承 認することなどを規定している。その意味において、地方の教育に対する自由裁量を尊 重するなど、地方分権的ないし自由主義的な「自由教育令」と呼称されるものであった。
さらに、伊藤は内務卿兼地方会議議長として同年7月に「地方三新法」(郡区町村編成 法、府県会規則、地方税規則)を公布して、地方議会の開設と町村長・府県会議員の公 選制を実施していた。これらは、主として民権運動を沈静化するための妥協策の一環で はあったが、立憲主義に基づく開明派官僚としての伊藤が有する思想基盤から生み出さ れた自由主義的な教育行政への法整備であったと考える。
しかしながら、この「教育令」はその自由裁量を大幅に承認したことによって、各地 方の実状に即して実施することから小学校教育が混乱する事態を招く結果となった。さ らに、1878(明治11)年の8月から11月に実施された明治天皇の北陸・東海地 方への巡行の結果、現行学校教育が表面的な知識偏重に陥っている322として、学校教育 の基本精神を是正すべきだとの意見が高揚していた。そして、その基本精神の尊重を重 視して、天皇による我国の伝統的国体思想に基づく教育の推進が示唆323されるに至る。
その結果、1879(明治12)年8月、天皇親政派の侍補元田永孚による「教学大旨」
と「小学條目二件」の、所謂『教学聖旨』が提出されるに至る。元田は、そこにおいて 儒教的道徳観に基づく「仁義忠孝」の教育理念を学校教育の根本精神とするべきだと提 議した。これを内示された当時内務卿であった伊藤は、井上毅に起案させた『教育議』
をもって反論する。詳細は、第二部第三章第一節の「井上毅の『辛未学制意見』と『教 育議』にみる科学的知識論」にて後述するが、伊藤は開明派官僚として、立憲主義に基 づき国家による道徳の統制に強く反対し、「高等生徒ヲ訓導スルハ、宜シク之ヲ科学ニ 進ムヘクシテ、之ヲ政談ニ誘フヘカラス・・(略)・・今其弊ヲ矯正スルニハ、宜シク工 芸技術百科ノ学ヲ広メ・・(略)・・実用ノ材ヲ成シ、以テ公益ヲ資クルニ取ルベシ」(324) と提議した。それは、科学としての知識という知の教育を拡大し、さらに実用的人材を 育成することによって「富強国家」に資する教育を推進すべきことを論じるものであっ た。この『教育議』は、基本的に井上毅の教育思想と教育政策を基本とするものではあ るが、伊藤の要請と承諾のもとに提議されたものである以上は、伊藤の教育論と看做す べきである。
(3)伊藤と森有礼の教育思想
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伊藤の教育思想を考察していく場合、森有礼の教育思想とその教育政策を外すことは 出来ない。伊藤は、憲法調査のためにパリ在留時の1882(明治15)年8月、当時 英国公使であった森の訪問を受けてその教育論に意気投合したとされている。森はその 内容について、ロンドンに帰着後の9月26日付け伊藤宛書簡にて、「茲ニ前日ノ片言 ヲ覆陳シ以テ高案ニ供ス、凡ソ政治家ガ教育ヲ以テ時政ニ係リ急務ト做ス所ノ者ハ則専 ラ国民ノ気質ト慣習トノ短弊ヲ詳知シ、其ノ左道ニ傾キ将サニ後患ヲ起サントスルノ機 ヲ預察シ、欠ヲ補ヒ病ヲ除キ以テ国歩ヲ担途ニ取ルニ在リ」ママ学政ヲ振興シテ国家富強ノ 基ヲ固クシ漸ク文運ヲ進メント欲スレハ、則許多ノ年数ト不易ノ力行トヲ要ス」325と記 して、教育の急務は「国民ノ気質ト慣習」を改善し「国家富強」の基礎を強固にすべき であることを再度伊藤に進言している。伊藤は、対談時と併せて「国家富強」と教育の 関係を論じる森の書簡によって、自己の教育政策に通じる論であることに共鳴したと考 えられる。
こうした関係もあり、伊藤は1885(明治18)年の内閣制度発足に伴う初代文部 大臣として森を抜擢する。そして、森は1887(明治20)年の『教育議』326にて、
日本が欧米列強と対峙する現在、「国民ノ士気ヲ培養発達スルヲ以テ、其根本ト為サヽ ルコトヲ得ス、此レ乃チ教育一定ノ準的ニ非ス乎」327として、国民の「士気」を育成す ることを教育の「根本」であると提議した。さらに、その教育の「準的」(標準)を実 現する方法は上古以来の我国の「威武」にあり、「人民護国ノ精神、忠武恭順ノ風ハ亦 祖宗以来ノ漸磨陶養スル所、未タ地ニ堕ルニ至ラス、此レ乃チ一国富強ノ基ヲ成ス、為 ニ無二ノ資本至大ノ宝源ニシテ、以テ人民ノ品性ヲ進メ・・(略)・・国民ヲシテ忠君愛 国ノ気ニ篤ク」328しなければならないと提議した。それは、「一国富強」の基礎として の「護国ノ精神」「忠武恭順」等の「無二ノ資本」としての人民の「品性」を「忠君愛 国ノ気」によって育成し、併せてその「意」を「全国ニ普及セシメ」ることを推奨する ものであった。
そして、その「忠君愛国ノ気」を有する「品性」を涵養する方策は、「学ヲ力メ、智 ヲ研キ、一国ノ文明ヲ進ムル者、此ノ気力ナリ、生産ニ労働シテ富源ヲ開発スル者ハ此 ノ気力ナリ」329として、資本主義経済の富を獲得する為には人民の労働に資する「気力」
を育成する「学」と「智」の重要性を論じている。そのことによって、「国本ヲ強固ニ シ、国勢ヲ維持スル」330ことが可能であることを提議したのである。彼は、1885(明 治18)年7月に『教育令ニ付意見』において「教育ノ事業ハ専ラ経済ノ要旨ニ基キ之 ヲ計画スベキ事」331として、教員の気質精神の育成するためにも待遇法を制定する等、
経済主義的行政の立場からの教育改善策を講じている。
このように、森の教育思想の基本には、教育の意義役割として「国家富強」の一環と しての国家の経済的構想に則り、それを支える国民の「気力」養成としての教育政策を 推進していこうとする意図が見受けられる。その事は、同年11月15日、和歌山県尋 常師範学校における彼の演説にて、「教育ノ主義は専ラ人物を養成スルニアリト云フ、
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其ノ人物トハ何ソヤ、我帝国ニ必要ナル善良ノ臣民ヲ云フ、ソノ善良ノ人民トハ何ソヤ、
帝国臣民タルノ義務ヲ充分ニ尽クスモノヲ云フ、充分ニ帝国臣民ノ義務ヲ尽ストハ気質 確実ニシテ善ク国役ヲ務メ又善ク分ニ応シテ働ク事ヲ云フナリ、・・(略)・・之ヲ要ス ルニ教育ノ主義ハ経済ニ帰ス」332と演じていることにも明らかである。
したがって、彼の教育主義とは、国家の方策に従って「善ク国役ニ務メ善ク分ニ応シ テ働ク」従順な国民の育成にあり、それは資本主義を主体とする経済活動の中に国民を 組み込んでいくことが定義されている。それを実現する教育政策として、彼はその文教 政策として、小学校から大学にいたる「教育令」を改革して学校制度の体系を「教育」
と「学問」とに区別333して制定していく。さらに、1888(明治21)年の『兵式体 操ニ関スル建言案』にて、「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部 ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルニ責ニ当ラサルヘカラス・・(略)・・厳粛ナル規 律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中ニ感化成長セシメ、以テ忠君愛 国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ渙発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テ ハ其効果ノ著シキモノアラン、加之体躯健全ナルトキハ智育徳育ノ二者随テ挙リ」334と 提議して、「国家富強ノ根本ヲ培養」する為には特に体育を重視して「忠君愛国ノ精神」
を涵養すべきこと、加えて知育・徳育を建言している。そして、その先に「忠君愛国」
の「気力」をもって国家に殉ずる兵士となることを期待335している。これが、森の教育 思想の基本の一つであり、その教育政策であったと考えられる。
こうした一連の政策によって、森の教育思想は「国体主義」336と評され天皇制国家体 制を支える思想とされた。いずれにしても、森文政の目標はあくまでも「国家富強」に あり、『教育議』にみる「護国ノ精神」や「忠武恭順」等の伝統的国家意識としての「忠 君愛国」に基づく教育をその基本的な目的としていたと考える。その意味において、元 田の提唱した、天皇親政の立場からの万世一系の天皇が統治する政治体制国家を実現す る為に、儒教的道徳を機軸とした「忠君愛国」を子どもたちに押し込む教育とは区別す る必要がある。したがって、森の教育思想は体育・智育を主体とするもので、徳育を主 体として涵養する教育政策ではありえなかったのである。
(4)伊藤の教育思想
伊藤の教育思想とその教育政策は、森を文相に就任させてその文教政策を支持してき た以上、彼がその任命責任を有したことはいうまでもない。即ち、伊藤の教育思想は森 の思想と協調しあっていたとみるのが妥当である。しかし、伊藤は開明派官僚として出 発し、その基本思想は立憲主義であったことが重要な鍵となる。それは前項の「伊藤博 文の国家構想」にて考察したように、「立憲政体論」に基づく、所謂、行政部(内閣)
の君主行政の制限と立法部(議会)の承認による法律制定権を固守する思想である。そ こに、森との「国家富強」という国家目標並びに教育政策の共通点は存在していても、