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132 ニ教育ノ責任ハ大キナモノデアル540

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 133-144)

以上の考察により、井上は富国強兵政策という国家目標の実現に際し、政府は国民の

「人心」を教導掌握する為に、手段としての教育による国家意思の貫徹を強行していっ たことが実証される。その意味において、このような明治近代教育における施策を今日 的課題として受容するとき、現代の学校教育においても、国家(政府)による恣意的な

「人心教導」の危険性が存在しうることを重要な教訓とすることが肝要である

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第四章 井上毅の「立憲主義的人権思想」と教育思想

第一節 井上毅の地方自治論に基づく貧民教育への一考察

井上は、1871(明治4)年2月に大学南校中舎長を依願退職した後、同年12月 に司法省十等出仕として法制官僚への道を歩んでいく。彼が青年期に熊本の韡村書屋・

藩校時習館にて儒学と同時に中国清律等の法学を学び、併せてフランス啓蒙思想書を含 む多数の欧米の政治・経済・歴史・地理等に関する諸文献541を読破していたことは既に 論じた。その後、藩命によって江戸・長崎にてフランス学を修行する過程の中で漸次に 立憲主義者542として成長していくが、本格的な立憲主義並びに法治主義と法制度につい ての修得は、1872(明治5)年に司法省遣欧使節団員としてフランスに派遣されて 以降の学習543が基本となっていたと考える。

彼はその生涯の大半を法制官僚として政府の重要法案に関わり、「国家富強」政策の 実現に向けてその法知識と理論をもって尽力していた。そして、晩年の1893(明治 26)年3月、彼は51歳で文部大臣に就任し、約1年半の僅かな期間であったが実業 教育などの文教政策に積極的に取り組んでいく。

井上の教育思想に関する先行研究においては、教育勅語や文相時代の教育政策、特に 実業教育を中心とするものが多数を占めており、貧民教育に関する研究は進んでいない と考える。そこで本節は、彼の貧民教育を考察し、その思想基盤となっていたのが彼の 町村自治論であった事実を検証するものである。

井上は、1886(明治19)年の関西出張に際して地方人民の貧窮状態を実際に見 聞し、それに基づいて『地方政治改良意見案』を提出している。そこには、井上独自の 地方自治論を基盤とした地方政治の改革案が論じられており、その改革によって地方人 民の窮状を救済しようとする強い意志が見られる。その意志は、その後の文相時代にお いて、地方教育の改革と貧民教育への政策に導入されていく。

そこで本節においては、二つの研究課題を設定して考察を展開していくことにする。

一つは、彼の貧民教育がその地方自治論を基盤として導き出されている事実の検証であ る。二つは、その貧民教育と地方教育政策を考察することによって、日本近代教育の光 と影を明らかにしてその実態を検証することにある。いうなれば、そこに「教育とは本 来如何に在るべきか」という課題を追求することでもある。そのことはまた、現代にお ける教育政策そのものを「如何に在るべきか」と問うことでもある。

1、「地方三新法」と地方自治論

(1)「地方三新法」等をめぐる井上の地方自治意見

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1886(明治19)年3月、井上は関西出張を命じられて大阪・奈良方面を視察し ている。当時の3月21日付け『朝日新聞』によれば、「図書頭井上毅君が今度奈良表 ヘ出張せらるヽ御用向きは同地正倉院の宝庫修繕の為なりと云う」544と報道され、31 日付け『読賣新聞』には、勅封開緘として「正倉院勅封去る二十五日午前九時開鍼の旨 井上図書頭より電報にて届出らる由」545との記事が見られる。当時、彼は臨時官制審査 委員長の地位にあり、宮内省図書頭546も兼務しており、その責任者として東大寺正倉院 の修復について視察に赴いていた。

しかし、井上は正倉院修繕の視察を表向きの理由として、実際には大阪・奈良方面に おける地方人民の生活状況を詳細に調査することを企図していた行動がみられる。その 理由は、彼が2年前の内務卿山県有朋による地方自治制度改正に強く反対していたこと に起因する。即ち、彼はその後における各地方自治体の政策とその下での人民の生活実 態を調査することで、地方政治の再度の改良を画策していたのではないかと考えられる。

明治新政府が地方自治政策を推進する背景となっていたのは、維新後の内外の危機を 克服して、国家の独立と国内の統一を早期に実現することにあった。政府はその課題実 現のために、早期に中央集権国家としての天皇制国家を完成させ、併せて強大な軍事力 と殖産興業による資本主義化への「国家富強」を構想する。その手段として、何よりも 人心を収攬することで国民国家としての統一を実現していくことが求められていた。そ の一つが、政府による直接的・間接的な地方自治政策を通じて547、末端の村々に至るま でをその政治的支配下に置くことが計画されたとみてよい。

明治政府は1878(明治11)年に地方三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地 方税規則)を制定して地方自治政策を本格的に実行していく。その端緒となったのは、

同年3月11日付け内務卿大久保利通の「地方之体制及ヒ地方官ノ職制ヲ改定シ地方会 議ノ法ヲ設立スルノ主義」(「地方之体制等改正之儀」)の太政大臣三条実美への上申書 である。維新後の地方体制である大規模で複雑な大区・小区の制度を改めて、地方の自 治を部分的に承認した上で中央集権国家体制を強化することが企画548されていた。そこ には、その前段階として木戸孝允の地方自治への提議549が存在していた。

大久保の「地方之体制等改正之儀」の建議内容550は、地方行政を村落の伝統的な「固 有ノ習慣」551に則って二つに分ける。一つは国家の直接的統治支配の下に置かれる統制 的な政治区分としての「行政ノ区画」であり、二つは村落「固有ノ習慣」に基づく国家 から間接的に独立した「住民社会独立ノ区画」である。このように、地方自治を住民社 会の「独立ノ区画」だと定義して地方分権の概念を創造した意義は大きい。そして、「府 県都市」には両方の性質を与えて中央政府の「吏員」を配置して掌握し、「町村」には 中央政府の統制的政治体制から分離した「住民社会独立ノ区画」のみを付与するもので あった。

この「改正之儀」は、大久保逝去の後「松田大書記官(道之)ノ起稿ニ係リ井上法制 官(毅)ノ修訂ヲ経テ成案」552するに至ったとされている。同法案は、内務卿兼伊藤博

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文議長の下で第二回地方官会議にて審議されるが、井上の「修訂ヲ経テ」とあるように、

彼は当時伊藤の下で地方官会議議事御用掛として同法案を取りまとめており、その後も 内務大書記官を兼務して地方制度対策に意欲的に取り組んでいる。

では、彼は如何なる地方自治に対する思想をもって「修訂」したのであろうか。一つ の参考資料として、彼が同(明治11)年に提議した『地方政治改良意見案』がある。

これは、地方の郡役所と戸長役場が、人民に対する国と地方の義務履行に関係して、納 税、警察事務、寄付金など七項目について如何に対応していくかについて論じたもので ある。その中で、郡役所・戸長役場が人民への公私用に対応する基本姿勢として、「人 民ノ便益ニ親切ナル行政」553並びに「人民ノ取扱ハ丁寧懇切」554であることを強調して いる。よって、井上がこの『意見案』にて論じた、地方人民への「親切ナル行政」「丁 寧懇切」を基本として大久保案を「修訂」していったことが考えられる。

地方官会議の議を経た地方三新法の内容は、大久保案を基本としながらも元老院にて 再修正され、それぞれ「郡区町村編制法」(布告第十七号)・「府県会規則」(布告第十八 号)・「地方税規則」(布告第十九号)として明治11年7月22日付けをもって制定公 布された。この地方三新法は、町村に部分的な自治を付与したものの、全体的に地方を 中央政府の支配下555に置くことになる。しかし他方で、旧慣としての村落が有する良俗 に基づいて大小区制を廃して郡町村制を復活させたこと、そして公選の戸長に町村の理 事長として行政事務を付与したことは、町村に一定の自治性を公認するもので地方自治 への道を拓くものであった。

さらに、この三新法体制は、1884(明治17)年、内務卿山県有朋が推進する町 村制度「改正」によってさらに大きく転換する。それは、地方区画に連合区長役場を設 定してその区域を拡大する旧来の大区・小区制を復活させる大規模な町村制とするもの であった。さらに、戸長を官選制にして地方末端官吏に位置づけてその権限を強化し、

町村会と併せて政府による中央集権国家体制を一層強化することを意図していた。その ように、政府が地方を中央集権体制に組み込まねばならない理由として、日本を取り巻 く時代背景が存在していた。

1881(明治14)年、大蔵卿松方正義による「松方財政」は、その紙幣整理と財 政緊縮政策によって国民に対する大増税を伴うものとなっていた。それによって、地方 農村部が深刻な打撃を蒙る結果となる。明治15年のデフレーションによる米・繭価格 が急落した結果、地租・地方税を滞納する破産農民が増加していた。その為に、農民の 不満は民権運動と連動しながら抵抗を強めていき、秩父事件に代表される農民騒擾が各 地で頻発していた。特に明治17年以降は、中小地主の没落と小作農民の都市下層民と しての流出が続き、彼らは資本主義化の中で労働者としての道への選択を余儀なくされ ていく。所謂、資本の本源的蓄積の進行である。このような地方農村部の不安定化の背 景が、政府をして、早急にその危機を打開する為の一つの手段として地方自治政策が喫 緊の課題となっていたことは否定出来ない。

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