第一節 井上毅の『辛未学制意見』と『教育議』にみる「科学的」知識論
井上毅は、フランス学の研修を経て大学南校に任官、次いで司法省に職を得て官僚の 道を歩んでいく。その場合、彼はそれまでに修得した思想を基盤としながら諸種の法案 や意見書を起草していくのであるが、その際に如何なる手法・手段を労して自らの思想 を基盤としながら具体的に文章構成を成したのであろうか。彼がその手法・手段として 基本としたのは、形而上的な感情論としてではなく、常に科学的な知識を基準として政 策決定の判断を下したと考えている。その科学的な知識は、総て近代西洋の知識に依拠 したものではなく、我国固有の伝統的ないし歴史的過程の中で生み出された知識をも是 としていた。そのことを確認しておくために、本節においては大学南校改革を求めた『辛 未学制意見』と明治12年の徳育論争(「教学論争」)における『教育議』を分析するこ とで実証していきたい。併せて、これら二つの「意見」と「提議」に込められた彼の教 育思想を明らかにしていきたい。
1、『辛未学制意見』にみる教育改革論
井上毅は、1868(慶応4)年5月に熊本藩兵として戊辰戦争(会津戦)に参戦後、
同(明治元)年9月に東京府に帰参している。その後、長崎留学を経て1869(明治 2)年11月に熊本へ帰国、再び東京においてフランス学を研鑽している。そして、1 870(明治3)年9月、韡村書屋の先輩である岡村甕谷447の推挙により二十八歳で大 学南校に小舎長として任官する。これが、井上にとって最初の官界入りとなる。
新政府は、1869(明治2)年6月、昌平学校・開成学校・医学校を総合して「大 学校」を創設するが、同年12月に「大学」と改称して開成学校を「大学南校」そして 医学校を「大学東校」とした。その後「大学南校規則」が制定され外国人教員による「正 則」と日本人教員による「変則」に分け、それぞれ普通科と専門科(法科・理科・文科)
を設立する。さらに、政府は太政官布達「諸藩ヲシテ大学南校ニ貢進生ヲ進致セシム」
448を発布して、10月以降に各藩より選抜された貢進生が大学南校に参集する貢進生制 度が実施されていく。その結果、国家の指導的人材育成のために西洋近代的学問を教授 するとして、藩の規模に応じて約300名の貢進生449が大学南校に入学してきた。井上 の大学南校への採用はその頃であり混乱の時期であったことが予想される。それ故に、
彼が大学南校の教育内容並びに貢進生の資質に関する混乱状況に直面する中で、それら は高等教育に値しない内容であることの確信によって、早急に大学改革を実施すべきで あることを決意していったものと考える。
その為に、中舎長時代の明治4年1月、同僚の中舎長平田東助や学生たちと共同して、
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大学南校の学制改革意見を『辛未学制意見』としてまとめ、それを大学南校責任者であ る大学大丞加藤弘之に提出する。したがって、この「意見」書は、所謂、大学南校にお いて井上が数ヶ月の教授生活の中で経験した学問と学校教科に関する大学改革論であ り、且つ彼の最初の教育論ともいえるものである。よって、本節においては同「意見」
を分析・解釈することによって、井上の教育改革の意義とその教育思想が如何なるもの であったか主題として考察するものである。
(1)『辛未学制意見』の改革と思想
井上は、大学南校における語学教育の実態を、中舎長としての立場から批判すること で、今後の大学教育に対する在るべき方向性を示そうとしている。彼は、先ず語学教育 の弊害要因として「語学迂遠艱渋ニシテ生徒茫洋ノ嘆アリ・・(略)・・教員浮薄生徒慢 忽諸弊多端蓋創立日浅ク経営未レ至モノアリ」450を挙げ、創立間もないとの但書を添え つつ、六箇条の改革案を示して大学当局に対して早急に改革する旨を意見する。
第一條「語学正則ノ便宜」にて、大学語学教育の「迂遠艱渋」の要因を、「一ハ語学 校ヲ設クル其地ニ非ス、二ハ生徒過多ニシテ教師不レ足、三ハ教師不レ力メ、四ハ生徒 不レ精」451という「四患」を掲げその改革案を提示した。一の語学校の設置場所の「患」
に対する解決策として、開港地等の欧米人との交流が頻繁な地に設置することを意見す る。そこにおいて、西洋学校が実施する「語法」を基本とする語学教育、さらには「教 師当直」制度による生徒引率等の教育を提言した。二の生徒過多に対する教師不足の
「患」については、語学生定数の削減と教師増員を意見する。三の教師の力不足に対し ては、「生徒ニ於ル情意不レ接教育誠意無シ」452として、生徒の能力とその誠実さの不足 を批判して外国人講師の増員を意見した。
井上の四つの改革意見の中でも、四の「生徒不レ精」に関す改革事項は注目すべき意 見だと考える。その理由は、一つは教育課程の変更によるものである。ここにおいて、
「正課」以外に「間課」の課程を設置することによって「書ヲ読ズ筆ヲ取ズ定マレル課 ナクシテ専ラ談話問答ヲ教ヘ優游薫陶セシメ」453る速習的ないし変則的な専門教育課程 を提言する。二つは、生徒の資質と教育環境の整備を重視した点である。その事は「年 少俊秀ナル者ヲ精選」454するに際しての取り決めに見受けられる。第一に、舎長は語学 生「精選」に関して、「其人ノ意思ヲ問ヒ参考シテ議定シ十七歳以下ハ至愚至弱ナル者 ニ非レバ除カズ」455として変則生として修了させるとの意見である。ここには、生徒個 人の人間としての「意思」を尊重したうえで、その生徒の人間性が「至愚至弱」でない 限りは変則生として学ぶ権利を保障していくという、井上の人権思想を基盤とする教育 権の尊重が表明されていることである。第二は、語学生は「入舎」(入寮)を原則とす るのであるが、「外来生中家貧ニシテ入舎スルコト能ハザルモノモアラン是入舎セズト モ勢語学年期ノ業ヲ終ル能ハザルモノ也汰シテ変則生トナスニ若ズ又優等ナル者ハ官
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餼ヲ与ヘ貢士ノ素読復読ヲ授ケシムルモ可ナリ」456と意見していることである。この「家 貧ニシテ」との意見は、自らが年米25俵扶持の最下級武士の三男として誕生し、その 貧困生活の中で苦学してきた経験則から導き出された意見と考えられる。さらに、貧困 子弟に対する「官餼」(奨学金)を付与するという発想は、彼が成績優秀をもって長岡 家より支給された「手当米」457の恩恵を受けたことによって、勉学が継続出来たことに 対する感謝の思いに起因していたのではないかとも推測できる。このように、井上は、
学問に取り組む青少年、特に自分と同じ境遇にある貧困家庭の児童・生徒に対する愛情 心は非常に強いものが見受けられる。
この姿勢は、彼が晩年文部大臣として文教政策に取り組んだ際にも貧民教育政策とし て具体的に実施されていく。1893(明治26)年6月、井上文相の文教政策の骨子 として提議された伊藤首相宛『文部行政意見』の中で、初等教育における貧民階層の児 童に対する公教育体制の整備が述べられているが、そこでは「教育ノ恩恵ハ中等以上ノ 人民ニ行ハレテ下等人民ハ局外ニ放棄サルルノ感アリ」458として、夜学校や半日学校を 設置することで貧民児童に対する教育の享受が論じられている。さらに、自ら「簡易就 学貧民教育ニ関スル省令案」を起案し、「第一条 市町村又ハ一私人ハ教育ノ普及ヲ又 ハ慈恵ノ目的ニ因リ職工又ハ貧家ノ児童ニシテ小学校令第二十一条ニ依リ就学ノ免タ ルモノニ小学教育ノ一部ヲ授クル為ニ半日学校又ハ夜学校又ハ日曜学校ヲ設クルコト ヲ得」459と記して、貧民家庭の児童に対する教育権の付与を提言している。このような、
貧者の子弟に対する教育の尊重と保障は、井上の生涯に渡る一つの大きな課題であった と看做してよい。そして、その強い思想の端緒は彼の少青年期の苦学時代が基盤となっ ていたと考える。
第二条「変則便捷ノ法」において、井上は第一条にて提言した速習的並びに変則的な 教育課程の具体策を論じている。大学の正規の学は「正則」とするものの、「魯西亜伯徳琭ヘ ー ト ル ノ所為ノ如ク翻訳ヲ以テ一般ニ行ヒ大学ハ即チ訳書ヲ学バシメ語学校ハ学校一種ノ分 枝トシテ可ナラン故ニ後来開化日本全国ニ行ハルヽ者ハ必変則ニテ偏ク細民ニ被ルモ ノハ必ズ翻訳ナリ故ニ正変二則及翻訳ヲ兼ルハ大学ノ体裁」460であるとして、正則並び に変則の二種の教育課程により語学教育を推進することを意見した。したがって、「変 則生」を「主トシテ速成ヲ以テ開化ヲ助クルモノ何必シモ西洋学校ノ規例ニ 泥ナズミ而全備 ヲ求ルコトヲ為ン」461として、「普通科」を省略することで「速成」「開化」を支援する
「専門法ヲ便捷」する「簡捷ノ法」として設定した。次に「変則」科を学生の能力によ って三種に序列化する。
第一に「法科」を「異常才識ノ士及漢籍ニ富タルモノ」から選抜して「地理歴史ヲ熟 読」させる。このことは、維新後の政治改革の実施に際して、「国家富強」実現に向け て何よりも法を的確に立案し運用する有能な法制官僚の養成を主眼においていたこと が想定される。第二に、「理科」を選抜して「舎蜜鉱山農科諸工」を修めさせる構想は、
殖産興業の実現において資本主義経済を進展させる有能な技術官僚の養成が想定され