第二の論点は、『教学大旨』が「教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、智識才芸ヲ究メ、
以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ」494として、現行学 校教育(「学制」実施)の「智識才芸」の実学教育を批判しつつ「仁義忠孝」の道徳教 育を推進していることの是非である。さらに、その道徳教育とは「祖宗ノ訓典ニ基ツキ、
専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ、人々誠実品行ヲ尚トヒ、然ル上 各科ノ学ハ、其才器ニ随テ増々長進シ、道徳才芸、本末全備シテ、大中至正ノ教学天下 ニ布満セシメハ、我独立ノ精神ニ於テ、宇内ニ恥ル事無カル可シ」495と論じている点で ある。
これに対して、井上は『教育議』にて「政府深ク意ヲ留ムベキ所ノ者、慣習・文学・
歴史ハ国体ヲ組織スルノ元素ナリ、宜シク之ヲ愛護スヘクシテ、之ヲ混乱スベカラス、
高等士人ヲ訓導スルハ宜シク之ヲ科学ニ進ムベクシテ、之ヲ政談ニ誘フベカラス」496と 論じ、国体の基礎としての「慣習・文学・歴史」497を位置付け、日本の伝統的文化を尊 重・擁護すべきことを明確にしている。その意味において、井上と元田の国体498を尊重 する意義に変わりはない。但し、井上の国体は、「慣習・文学・歴史」という我国の歴 史的「慣習」並びに「知識」を主体とする「元素」として組織(構成)された現実的要 素を土台とするものであり、元田の「祖宗ノ訓点」を元素として組織されたとする観念 的国体とは異質のものである。そのうえで、「高等士人」の教育においては「科学」に 基づく知識、所謂「科学」的知識499を基本とすべきであり、儒学に依拠した「漢学」500 の教育が民権運動の参加していく「政談ノ徒」に誘う危険性を指摘している。このこと は、元田の儒教的「仁義忠孝」の道徳教育を暗に否定するものともなっている。
即ち、井上の教育の基本原則は「政談ノ徒」対策だとはしているが、「宜シク工芸技 術百科ノ学ヲ広メ、子弟タル者ヲシテ精微細密察、節ヲ屈シ、気ヲ下シ、浮薄激昂ノ習 ヲ暗消セシメテ、実用ノ材ヲ成シ、以テ公益ヲ資クルニ取ルベシ、蓋シ科学ハ実ニ政談 ト消長ヲ相為ス者ナリ」501とするものであった。所謂、「工芸技術百科」の「科学」的 知識を推進することで「実用ノ材」である人材を育成していくことが、国家にとって有 益であることを指摘している。したがって、井上の求める教育とは、それらの「科学」
としての知識を学校教育において実施していくことであり、そのことが現在「国家富強」
を実現する開明的な教育として最優先されていた。彼が国体思想の重要性を認識してい たとは雖も、元田の要請する儒教的道徳の教育にその必要性は認められず否定したのは 当然といえよう。
第三の論点は、元田の政教一致を主とする国教論に対する批判である。これについ ては、井上起案の『十二年 伊藤参議教育議』の中では記述されていないことから、井 上の草案に伊藤が修正加筆して『教育議』502として提出したものではないかと推測する。
元田は、1879(明治12)年頃に元老院第二次『国憲案』に対する修正案を作 成しているが、その第三条「皇帝ハ行政立教ノ権ヲ統フ」、第五条「国民ハ皇帝ヲ尊親
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シ国教ヲ奉守シ国憲ヲ確信スルノ義務ヲ有ス」503と規定して、「皇帝」が「行政立教」
の権利を有し、国民は「国教」を遵守すべきだとする国教主義を提示している。これを 土台として、後日さらに具体的な法案として、1880(明治13)年9月30日頃に
『国憲大綱』を上奏し「一 大日本国ハ天孫一系ノ皇統万世ニ君臨ス」「一 国教ハ仁 義礼譲忠孝正直ヲ以テ主義トス、君民上下政憲法此主義ヲ離ルヽコトヲ得ス」「一 皇 帝ハ全国治教ノ権ヲ統フ」504とする各条文を規定して、「国教」を儒教の「仁義礼譲忠 孝正直」の主義と定め、万世一系の「皇帝」(天皇)が「全国治教ノ権」を統治すると いう政教一致の国教論を提議したのである。
『教育議』は、元田の明治12年の「修正案」を想定することで「若シ夫レ古今ヲ 折衷シ、経典ヲ斟酌シ、一ノ国教ヲ建立シテ以テ世ニ行フカ如キハ、必ス賢哲其人アル ヲ待ツ、而シテ宜シク官制スベキ所ニ非サルナリ」505と記して、「国教」を決定し実行 するのは「賢哲」の務めであり、政府が勝手に「官制」すべきものではないと批判した。
所謂、開明派の政治家として、「治教」の権力である宗教としての「国教」権力と政治 権力は一致すべきではないという政教分離の原則によって反論したのである。そのこと は又、近代国家としての立憲主義に基づく人民に対する「思想信条の自由」の保障でも あった。
以上の三つの問題点の中でも、特に第二の教育における道徳と知識との関係論に注 目したい。何故なら、井上自身のその後の教育政策において、徳育と知育との関係は学 校教育の根幹的な施策として問題となっていくからである。即ち、教育勅語に代表され る徳育・知育論争である。しかしながら、明治12年の徳育論争(教学論争)時点にお いて、井上は開明派の法制官僚として既に知育を主体とした教育政策を確立していたこ とは、第二の論点における主張からも明白である。「科学的」な知識に依拠した思考と 判断こそが、「知」を基本とする法制官僚の「武器」であり、その政治決定に際しても
「知」こそが最も有効な手段としてその決定に有効であることを確信していたからであ る。このことが、近代立憲主義の思想と共に、以後の井上の教育思想並びに教育政策に おいての基本原則となったことは疑いようがない。
いずれにしてもこの論争は、元田たち侍補を中心とする天皇親政派(宮中派)による 伝統的な「仁義忠孝」の道徳(儒学)を教育の基本とする徳治主義教育と伊藤・井上た ち開明派官僚506を中心とする「智識才芸」による実学を基本とする教育、いわゆる開化 主義教育として顕在化した天皇を巡る政治的闘争であるといえよう。即ち、それは天皇 の政治的位置づけを巡る政権論争であり、天皇を「絶対君主」として位置づけることで 親裁政治を実践しようとする元田たちの「宮中」派と立憲政治を機軸として天皇を「制 限君主」として位置づける伊藤を中心とする開明派官僚たちとの二つの政治的潮流の対 立でもあった。よって、徳育論争(教学論争)とは、教育における道徳の在り方として の問題提起のみならず、近代国家構想の完成に向けての政治的な政権抗争という政治と 道徳の問題でもあったと結論づけるものである。
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第二節 井上毅の「国家富強」と教育思想
-「明治十四年の政変」後における中等教育政策-
「明治十四年の政変」以後、明治政府は天皇を基軸としたドイツ型立憲君主体制の国 家構想を強力に推進していく。同時に、政府にとっては自由民権運動の高揚並びに北海 道開拓使払下げ問題の解決のためにも、「明治二十三年国会開設の勅諭」を発布せざる を得ないという政治的実状も生じていた。こうした政治状況の変化の中で、学制以来の 教育政策も大きく変化していく。本節は、法制官僚井上毅がこの「政変」と「政変」以 後の明治憲法草案などの立憲政体構想に深く関わる中で、「政変」後における富国強兵 政策への取り組みの一環としての教育政策を如何に実施していったかについて考察す る。その中心的な主題は、民権運動対策としての士族問題並びにその一端としての中等 教育政策とその思想についての考察である。
1、井上毅の士族論と中等教育論の萌芽
(1)「国家富強」論と『士族処分意見控』にみる士族対策
明治新政府の指導層は、維新後における内外の政治的危機に対処する為に、先ず国家 理念として、皇室・天皇が有していた神権的権威を彼らの政治的権力に転化するための 国体主義の政治体制を設定する。次に、その国家理念を基軸としながら、政治的危機と しての国家の統一と独立という国権確立の課題解決のために、国家目標としての「国家 富強」政策を構想した。特に岩倉欧米使節団による欧米社会の近代的な政治・経済・文 化等の実際の見聞と調査は、彼らの国家構想を現実的なものとして確信させるものとな った。帰国後、彼らは日本の現状を考慮しつつ独自の「国家富強」論507を提唱・実行せ んとした。大久保利通は、1874(明治7)年の『殖産興業ニ関スル意見書』におい て、「大凡国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル、物産ノ多寡 ハ人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ政府政 管ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ・・・(略)・・・政府高官専ラ実際上ニ注意着手シテ 能ク工業ヲ奨励シ物産ヲ増殖セシメ以テ富強ノ根底ヲ固クスル遑ナキ所以ナリ」508と論 じて、政府中心の「国家富強」政策の推進を提起している。
井上毅も、政府の法制官僚として且つ彼らのブレーンとして、当然の如く「国家富強」
政策を推進・実施する立場にあり、その「政策」「意見」509の中にその論が多く見受け られる。特に、欧州研修より帰国後の明治7年、彼は『欧州模倣ヲ非トスル説』におい て「日本ハ欧州ノ美観ヲ学フヘカラス」と題して、「我邦ハ封建僅ニ廃シ郡県稍ク成リ 財力ノ衰耗モ精神ノ疲弊モ之ヲ名言スルニ忍ヒス而シテ社会ノ有様ハ始テ旧習ノ非ヲ