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194 学校」として部分的に保障されていくことになる。

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 195-200)

(2)公教育としての実業教育と貧民教育

我国は、幕藩体制の近世から明治維新を経て近代の教育が開始される。近世の学校が 幕藩体制の維持を主眼とする昌平校や藩校等にみられるように、武士階層のための公的 性格を有する学校であったのに対して、町民や農民層の民衆にとっての寺子屋制度は、

個を主体とする私的性格を有する学校としての学び舎であった。

維新後、新政府は1872(明治5)年の「学制」の実施に依って「学問は身を立る の財本」と定義して、新国家を支える個人の自立を目標とした教育政策を策定した。そ の理念は、封建支配からの人間的解放ともいえる革新的な政策であったにも拘らず、そ の主体となるべき国民に充分理解し受けとめられることがなかった。その最大の理由は、

「学制」の意を理解するに足りうる充分な知識と思想が欠如していた事によるが、何よ りも彼ら民衆に経済的余裕がないという事情があったことも事実である。文明開化の名 の下に欧米の啓蒙主義という新たな思想が取り入れられたのであるが、これらは特定の 知識層と経済的富裕層に限定的に受容されたにすぎない。大多数の民衆にとっては、ほ とんど受容不可能な知識と生活体験しか持ち合わせていなかった。彼らにとっての関心 事は、毎日の生活を如何にして生きて行くことが出来るかという生活実態こそが何より も優先していた。井上は、そうした民衆、特に貧困ゆえに学習する権利から除外されて いた児童を、実業教育によって啓蒙し「自立」させようとしたと考える。

啓蒙主義について、沖田行司が「啓蒙主義とは、『近代人』の確立と同時に、そうし た『近代人』が存立しうるに必要な諸条件を保障する『運動』をともなうものであった。」

806として、明治初年の日本がこうした「啓蒙の時代のはじまり」に当たると論じている。

井上もまた、喫緊の課題として、民衆としての人民を教育の機会を与えることによって 啓蒙し国家を支える「自立」した人間として育成する「運動」を展開し、実業教育と貧 民教育を通じて啓蒙することを認識していた。

そこでいう「近代人」とは、一つは多くの先行研究が論じているように「国家富強」

を支える知的・技能労働者として「自立」・独立した「近代人」を育成する啓蒙「運動」

であり、そのことが文部大臣井上の公的な国民の育成を図る教育思想として何よりも優 先されるべきものであった。二つは、純粋に個人の自由な思想を確立させることで「文 明ノ基礎ヲ為ス」ために自立する「近代人」を育成する啓蒙「運動」である。彼は、そ うした国民が自主的に国家に貢献出来る自由な「近代人」として成長する公教育の在り 方を切望していたと考える。

欧米人はキリスト教という宗教との関係で、神に対する自らの個としての「自立」が 保持されることで進んで国家を支えることが可能であった。即ち、神の前には、彼らは 等しく平等であるとの思想が、政治や教育をも平等なものとして実施されていた。しか

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し、当時の日本における四民平等は有名無実であり、民衆、特に貧民は国家を支える主 体とは成りえていなかった。というよりも、貧困層は政治的に非国民の存在としての位 置にあり政治的諸権利が授与されていなかった。井上は、こうした貧民に教育を付与す ることによって、実業という労働者の職を通じて主体的に国家と結びつき、さらには個 人として「自立」することで主体的に国家を支える人間へと成長する国民形成を図った と考えられる。この人民(国民)の「自立」こそが自らを国民として自覚させ、国家の 一員として独り立ちすることで主体的に国家を支えることが可能となると考えたので ある。それが、前述の例で示した国民皆教育としての公教育の推進である。

結果的に、井上が実施した実業教育と貧民教育は、教育の「局外ニ放棄」させられて いた貧困家庭の子どもたちを、確かに「低度」で不充分な教育ではあったが、少なくと も小学校教育に就学させることで彼らの教育権を保障することにつながっていったこ とも確かである。そうした小学校教育過程の中で、不充分とは雖も個人の「自立」を確 立し、自らが自立的・主体的に国家を支える人間として成長していったと考える。それ は、嘗て『経済論』において、我国が「自力ニ倚頼セスシテ他力ニ感動セラレタルモノ」

と、欧米の模倣という「他力」を批判し「自力」のある国民の育成を論じていた井上の 教育実践であった。

したがって、井上は、「低度」であろうとも〈量〉的拡大によって全ての子どもたち に教育を受ける権利、所謂「人民の教育権」の保障をすることこそが、立憲主義に基づ く人権思想としての「自由権」の尊重と位置付けたとする見方は採れる。そのことは、

国家の責任・義務として、富める者・貧しき者を問わずに国民皆教育として人間として 自立する力を与えていくという公教育であった。そのように、すべての子どもたち、特 に貧窮家庭の子どもたち並びに貧窮故に幼くして職工となっている子どもたちに、「低 度」であれ教育の機会均等を与える為の就学普及の政策を実施した井上に対して、〈赤 子デモクラシー〉と呼称して「近代人権意識に根ざす教育機会均等の思想と似而非なる」

と一蹴することは出来ない。慈恵の精神も人権思想の一つの領域である。無論、彼が明 治政府の官僚であり且つ政治家として、「富強国家」実現のために人民を統制していく 政策の一翼を担う立場にあった官僚・政治家であることは否定できない。しかしながら、

そのことで彼の近代立憲主義者としての教育思想を全面否定していくことも一面的な 捉え方といえよう。

以上考察したように、井上の実業教育と貧困教育政策には、彼の有する二つの思想の 具体化がその教育施策に反映していた。第一の思想は、対外的危機を克服して国家の独 立を確立するために、国家主義に基づいて「国家富強」を実現する政策である。即ち、

「国家富強」実現のための有能で「自立」した労働者の育成を主とする明治政府の立場 からの教育政策である。政府の国家構想を実現させるために如何なる教育政策を実施し ていくかという課題は、政治家・文部大臣としての井上の自然な行動実践であった。長 年にわたり法制官僚として政策実務を担当してきた彼にとって、国家の安泰を期するた

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めの最善の政治思想は、「国家の統一」と「国家の独立」を実現することこそが第一の 政治的目的であり、そのための国家による上からの統制的教育政策の推進であった。そ のことは、井上が「一般人民実業上の智識は、無形の資本として価値ある元素」であり とし、その人民を「教育して生産的の良民たらしむへき」と論じた通りである。

しかし、第二の思想として、彼が青年期より思想確立していたところの為政者として の立場とは雖も、儒教的「仁政安民」思想並びに近代立憲主義思想により派生する人権 主義は、彼の内面において人間個々の権利を尊重すべきだとする思想を存在させていた ことも否定できない。その思想にこそ、真に個人に対する人権保障の「人民の教育権」

として、国家の実業教育政策とは一線を画した「立憲主義的人権思想」が強く存在して いたと考える。

二つの思想に共通するのは、「国家富強」のための国民の「自立」によって国家の「自 力」を支え高めることである。しかし、前者は「国家富強」のために国家に奉仕するた めの「自立した臣民」であり、所謂「国家に有用な人材を育成するという公教育」政策 を通じて生み出されていく。他方、後者は「国家富強」とは無関係に、人民自身が「教 育」を享受することで個人的に「人間として自立していくための公教育」である。その 人民は、国家から精神的に解放されており、自由に自らの意思によって生活を確立する 人民である。「自立」しているが故に、逆に国家の「自力」を支える主体的で「自立」

した人民となることが可能となるのである。井上が、前者を主としていたことは事実で あるが、後者の意義もまた少なくはないと考える。

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終章 明治近代国家における井上毅の教育思想とその意義

-「国家富強」の国権思想と「立憲主義的人権思想」の民権思想-

1、「国家富強」への道

第Ⅱ部「井上毅の教育思想史的研究」は実質的に本論の基本的内容となるものであり、

第Ⅰ部・第一章・第二節「井上毅研究の方法論」における論考方法の展開を受ける形で、

井上の教育思想を時代順に追いながら彼の教育思想が如何にして形成されていったの かを実証してきた。井上の教育思想は、国家主義に基づく「国家富強」への国権思想と

「立憲主義的人権思想」である民権思想という二つの思想を有していたと結論づけるこ とができる。しかしながら、一般的には両者は完全に対立する概念であり、前者が政府 側からの立場としての「国権」的概念であるのに対して、後者は人民の権利を尊重する 立場の「民権」的概念である。その両者を井上が有していたとして、それを実際の法案 に具体化したということは論理の展開として明らかに矛盾しており整合性がないと批 判されるであろう。しかし、彼はその二つの思想を保持しながら確信をもって諸政策を 立案していった。そこで、本章においては、井上が「国権」と「民権」としての権利を どのように捉えていたのかについて説明しておかねばならない。

維新後の我国の国内外の危機については既に記した通りであるが、その危機に対する 最大の課題は、欧米列強からの侵略的行為に対する国家の独立こそが喫緊の課題であっ たことは論を俟たない。勿論、国内的な維新後の混乱を収拾するための強固な中央集権 国家の設立による国家統一の課題が存在していたことも事実である。しかし、当時にお いて、新政府が国家の独立を最優先課題としていたのは間違いない。これについて、木 戸は征韓論争において「治効未ダ嘗テ文明ニ化セズ、国歩未ダ嘗テ富強ニ適サズ、独立 ノ名アリテ独立ノ名ナク、足ヲソハタテ、万邦ト対峙ス」807として国家の独立に対する 危機を訴えていたことに明らかである。それ故に、その危機を解決することが最重要な 国家の課題であるとして、朝鮮半島に対する問題よりも国内の文明化と「富強」の実現 に力を注ぐべきことを優先すべきだと主張したのである。そして、その為の方策として 政府が執った手段が、国家主義を前面に出す「国家富強」という名の富国強兵政策であ った。第一に課題としたのは、殖産興業の下に近代産業を興して資本主義経済を活発に すること、即ち、国家としての産業力の強化と結果としての富の蓄積であった。第二の 課題は、その莫大な富の蓄積によって近代的で強力な軍事力を保有することが要請され たのである。

しかし、当時の日本の国力は長期に渡る幕藩体制の鎖国下で、その国力は欧米に比し て脆弱であったことは疑いようもなく、近代の科学的知識を含む文明と産業の遅れは歴 然としていた。そのことは、岩倉欧米使節団の実力者たちにとって充分に認識せざるを 得ない事実であった。その事実について、大久保はイギリスでの造船所・製鉄所・鉱山

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