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166 第五章 「国家富強」への公教育と実業教育

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 167-181)

第一節 「教育勅語」成立過程に見る井上毅の教育思想 -「初稿」案に込めた知育論と徳育論-

「教育ニ関スル勅語」(「教育勅語」)は、1890(明治23)年10月30日の公 布以後、1948(昭和23)年6月19日の第二国会において衆議院の「排除」決議 並びに参議院の「失効確認」が決議されるまでの間、「忠君愛国」の名の下に我国の国 民道徳の指導原理及び国民教育の基本的教育理念として位置づけられていた。この「教 育勅語」は、主として当時の法制局長官井上毅の「初稿」草案が土台となっている。彼 の思想基盤は、青年期に習得した儒教主義と立憲主義を基本としていることは言うまで もない。

本節における論考構想としては、第一に、井上が「教育勅語」の制定過程において如 何に関わることになったのかという時代背景を最初に考察する。第二に、「勅語」制定 の基本思想として、彼が立憲主義思想を基軸としながら儒教主義的道徳観との相対的関 係を自己の内面においてどのように解決していったのかという課題を考察する。

さらに、その課題の考察を通じて、井上の教育思想とは如何なるものなのかを実証す ると同時に、「教育勅語」の分析過程によって二つの問題が明らかになると考えている。

一つは、本来教育とは如何に在るべきかという問題であり、そして二つは、教育におい て道徳は如何に関わるべきかという問題である。これらの問題点について、彼が最初に 立案したとされる「初稿」案の内容分析を試みる中で検証していきたい。特に本論にて

「初稿」案に注目した理由は、「初稿」案にこそ、井上の「教育勅語」に懸けた当初の 教育思想が最も率直に表明されていると判断したからである。この論考を通じて、我国 の近代教育理念として誕生した「教育勅語」に内包された思想を再検証することは、現 代の学校教育の道徳問題を考えるうえでの一つの参考資料ともなると考える。

1、「教育勅語」制定過程と井上毅

「教育勅語」制定に関する先行研究に関して、戦前においては渡辺幾治郎『教育勅語 の本義と渙発の由来』714などによって進められていたが、「勅語」の特異な思想性によ って学問的にも大きな制約が存在していたことはいうまでもない。戦後、1947年の 日本国憲法施行により、漸くその思想表現の自由の下において多数の研究著作が上梓さ れるに至っている。中でも、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』、稲田正次『教育勅語 成立過程の研究』そして梅溪昇『教育勅語成立史』等の代表作が出版されたことにより、

その制定過程に関する詳細な内容と思想そのものが明らかになってきた。

それらの著作の中において、「勅語」制定過程の出発点として1879(明治12)

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年の徳育論争が一つの契機になったことが一致して論じられている。詳細については第 三章・第一節にて論じた通りであるが、そこには天皇親政運動を展開していた侍補グル ープの元田永孚の儒教的道徳教育、そして欧米の科学的な知識教育によって欧米に伍す る強力な国家建設を希求していた伊藤博文との思想的確執が存在していた。同時に、こ の論争は天皇の位置付けを巡る政治的闘争でもあった。

この徳育論争を発端として、国内外の政治情勢を反映しながら、当時の学校教育の知 育偏重に対する弊害を批判して道徳教育の必要性が漸次求められていく。そのことが大 きく展開していくのは、1890(明治23)年2月26日の地方長官会議における教 育刷新運動の協議集約として、「徳育涵養ノ義ニ付建議」が榎本武揚文部大臣ならびに 各大臣に提出されたことを契機としている。「建議書」は、「普通教育ノ要ハ主トシテ国 民タルノ徳性ヲ涵養シ普通ノ智識芸術ヲ修メシムルニ在リ然ルニ現行ノ学制ニ依テハ 智育ヲ主トシテ専ラ芸術智識ノミヲ進ムルコトヲ勉メ徳育ノ一点ニ於テハ全ク欠クル 所アルカ如シ」715と記し、学制実施以後の現行学校教育が知育に偏重していることを批 判した。それ故に、「我国ニハ我国ノ倫理ノ教アリ故ニ我国徳育ノ主義ヲ定メント欲ス レハ宜ク此固有ノ倫理ニ基キ其教ヲ立ツヘキノミ」716と記し、知育よりも日本独自の徳 育主義を機軸とした「倫理」、所謂道徳を以って教育の基本とすべきことが提議された のである。それを受けて、内閣においても徳育問題を漸次論議するに至っている。当時 の首相山県有朋は、後に1916(大正5)の回想談の中で「教育勅語」発布に至る顛 末を詳細に述べている。彼の『教育勅語発布ニ関スル山県有朋談話筆記』を基にして、

勅語発布に至る流れを検証しておきたい。先ず地方長官会議の建議を受けて、彼は次の ように述べている。

余ハ軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ時ノ 法制局長官井上毅ナドモ同論ナリシガ此時ハ未ダ教育勅語マデニ熟セル考ハナク唯 互ニ論議シテ十二時頃ニモ至ル有様ナリキ此頃 陛下ニハ閣議ノ際ニハ出御アラセ ラルルガ常ニテ後ノ御前会議トモ云フベキモノナリキ(初メ軍人勅諭ヲ請ヒシ時ニモ 外国ニテハ宗教ヲ元トシテ軍隊教育ヲナシ幼年学校ナドニテハ祈祷ヲ唱ヒテ授業ヲ ナス有様ナルニ我国ニ於テハ神道、仏教、耶蘇教ノ一ニ偏スベカラズ而シテ宗教ハ末 世ノコトニ亘ルガ現世ダケノコトナレバ忠孝仁義ニ止メテ可ナリトノ論ナリシガ教 育ニ関シテモ同様ノ方針ヲ採ルベキモノト考ヘタリ、此ノ方針ヲ以テ骨組ヲ立テ上奏 シテ叡慮ヲ願ヒ凡ソ半年余モ此案ハ御手本ニ止マリタリト記憶ス)」717

この「談話」には、山県が「軍人勅諭」と同様のものを教育に対しても求めていたこ と、即ち外国の軍人教育のように宗教に依拠した訓辞としてではなく、「軍人勅諭」を

「現世」の問題としての「忠孝仁義」のみを求めたように教育に関しても質的に「同様 ノ方針」を採用しようとしたことが窺われる。そして重要な発言として、法制局長官で

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あった井上毅も「同論」であったと山県自身が受け止めていることである。当時両者の 間には、法制局長官であった井上が、明治23年3月に『山県首相自衛議』報告の為の 正本である『軍備意見』を起案するという緊密な関係が存在していた。これは、朝鮮半 島をめぐる日清両国の対立に関する見解であるが、同『意見』は「国家独立自衛ノ道二 ツアリ、一ニ曰、主権線ヲ守禦シ、他人ノ侵害ヲ容レス、二ニ曰、利益線ヲ防護シ、自 己ノ形勝ヲ失ハス」718と注目すべき防衛策を論じている。そして、その「主権線」「利 益線ヲ保護スルノ外政ニ対シ、必要欠クヘカラサルモノハ、第一兵備、第二教育是ナリ」

719と記して、「主権線」「利益線」防禦の為に必要不可欠の条件が「兵備」と「教育」で あると論じ、まず軍備増強を提唱していることである。次いで、「国ノ強弱ハ国民忠愛 ノ風気之カ元質タラスンハアラス・・(略)・・国民愛国ノ念ハ、独教育ノ力以テ之ヲ養 成保持スルコトヲ得ヘシ」720と記し、国の強弱が「国民忠愛」の気風に依拠し、その「国 民愛国」の心は「教育ノ力」によってのみ「養成保持」、即ち実現できることを論じた。

ここに、山県(井上)の「国家富強」に向けての「教育勅語」制定の意図が明確に示唆 されていることが窺える。彼らは、教育の力によって「忠君愛国」の理念を人民に対し て注入し、人民を「国家富強」の有効なる人的資源として養成する事を構想していたと も考えられる。

さらに、「此案」が天皇に上奏された後、天皇が半年余りその「手本」においていた ことを述べている。続いて、天皇が文部大臣榎本の後任である芳川顕正の親任に際して

「徳教ノコトニ十分力ヲ致セトノ御旨趣ノ御詞アリ此レ実ニ珍ラシキコトナリ」721と述 べたことの記述がある。これに関しては芳川の『教育勅語下賜事情』によれば、天皇か ら「任文部大臣の大命が下ると、それに引続いて、教育上の基礎となるべき『箴言』を 編めよといふ、極めて重要なるご沙汰が下った」722と記述しており、この二つの記述か ら天皇が道徳教育に対して強い関心を有しており、その為の「箴言」を早急に制定すべ きことを命じたものと受けとめられる。これは、徳育論争において、元田の『教学大旨』

が『聖旨 教学大旨』として発表されていることとも関連して、天皇が当時の学校教育 に対して徳育論に立つ教学理念を保持していたことが充分に窺える。続いて、山県は天 皇の「箴言」の「御詞」を受けて重要な事項を記述している。

此ニハ芳川ト井上毅トガ内閣ヲ代表セル皃ニテ立案ニ当レリ案成リテ内閣ヨリ 陛下ニ差出セリ当時元田永孚ハ侍講トシテ 陛下ノ御相談ヲ受クルコト常ナリシカ バ井上毅ノ気付ニテ元田ニモ示セリ大体元田ノ意見ニヨリ修正シ 陛下モソレヲ嘉 納アラセラレシモノノ如クナルガ国憲国法云々ノコトニツキテハ芳川ノ上奏ニテ原 案ニ復活スルコトトナリ 陛下ヨリモソノ通リニセヨトノ御詞アリシトノコトナリ

723

この談話には、「勅語」案について芳川と井上が内閣を代表して「立案」とあるが、

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