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67 第二節 伊藤博文の国家構想と教育思想

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 68-76)

1878(明治11)5月14日、大久保利通が藩閥政治に不満を持つ旧士族によっ て暗殺される。参議兼内務卿として政府の実質的指導者であった彼の死は、当時の政府 権力機構に大きな変動をもたらしていく。それは、大久保の政治構想であった殖産興業 を機軸とする「国家富強」の富国強兵政策、そして近代的資本主義経済の推進事業を誰 が中心的指導者として継承するかの政治抗争でもある。当時大久保政治路線を支えてい たのは、参議兼大蔵卿の大隈重信と参議兼工部卿の伊藤博文であった。しかし、伊藤は 既に内務卿代理を兼務し、西南戦争時においては大久保とともに戦略等を指導するなど 政権内において彼に次ぐ重責と地位を有していた。その実績から、彼は大久保が暗殺さ れた翌日には工部卿を辞して内務卿となり、政府の実質的な指導を受け継いでいた。政 府内における指導権争いの決着は、後に明治十四年の政変によって大隈を排除すること で確定していくことは周知の通りである。本節においては伊藤の国家構想と教育思想を 考察実証していくのであるが、同時に彼の「政治参謀」でもあった井上毅の政治思想の 前段階として捉えることも可能となる。伊藤の先行研究は、近年新たな視点286において 論じられているが、それらについては本稿の問題事項の中で逐次論じていきたい。

1、伊藤博文の国家構想

(1)『国是綱目』にみる伊藤の基本的政治構想

伊藤の国家構想を考察していく場合、その基本構想は既に彼の青年官僚としての政治 構想の中に見出されている。それは、1869(明治2)年正月、彼が初代兵庫県知事 の時代に提議した『国是綱目』(『兵庫論』)287六箇条の建白書である。

維新直後より、薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允の関係を軸として、王政復古を名 実ともに達成する為に版籍奉還の実行が計画されていた。その理由は、王政復古による 政府の根本的体制を定立し、法制的・機構的にその体制を確立288して中央集権国家を早 期に実現することが喫緊の課題となっていた故である。この後、1869(明治2)年 1月14日、大久保(薩摩)、広沢真臣(長州)、板垣退助(土佐)の三藩代表者による 京都円山端寮の会合で版籍奉還が実質的に合意決議される。そして、1月20日に西国 四藩主名のもとで「版籍奉還ニ関スル薩長土肥四藩上表」が提出され、「抑臣等居ル所 ハ即チ 天子ノ土、臣等牧スル所ハ即チ 天子ノ民ナリ、安ンゾ私ニ有スベケンヤ、今 謹テ其版籍ヲ収メテ之ヲ上ル」289として、列藩の自発的返上によって政府が全面掌握す ることが明記された。

したがって、伊藤が『国是綱目』を提出したのは、薩長土肥四藩の「上表」が決議さ れたことを聴いた後で、早急に版籍奉還を実施して国家統一の体系を強固にする為に自

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らの見解を上申したものと考えられる。そのことは、第二条「綱ニ曰ク、全国政治兵馬 ノ大権ヲ朝廷ニ帰セシムルヲ目的トシテ」と規定するように、統帥権を確保して軍を掌 握して君主制(朝廷政治)を保障することが想定されている。それは、大政奉還を具体 化する為の版籍奉還実現への建白であることが明白である。そして、『綱目』第一条に、

明治政府の政治体制の基本精神を明確に規定した。

綱ニ曰ク、列世ノ連綿タル皇統ヲ奉戴シ、之ヲ国家万民ト倶ニ永世不朽ニ伝ヘ、仮 令ヒ如何ナル政治ノ変アリト雖ドモ、上下誓テ立君ノ体裁ヲ変ズ可ラズ。・・(略)・・、

我皇朝ノ如キハ神孫連綿開闢以来未曾絶、是即万世不易ニシテ君臣ノ分自カラ明ニ、

万民仰イデ以テ累世ノ聖徳ニ信服シ、上下依テ以テ安ジ、他邦万国沿革不一、朝為君 夕為臣国トハ天壌ノ別アリ。是即立君ヲ重ズルノ国体ト為ス・・。290

ここにおいて、伊藤は、所謂「列世ノ連綿タル皇統」である万世一系の天皇による「立 君ヲ重ズルノ国体」を以って我国政体の機軸とする国家構想を宣言する。これが、彼の 維新直後における国体観による政治体制の基本思想である。したがって、伊藤たち維新 の第二世代の政治思想と国家構想は、大久保たち維新の第一世代と同質の国体思想を機 軸とした政治論が展開されていることが実証できる。

伊藤自身は早くから版籍奉還の必要性を充分認識しており、前年(明治元年)10月 に『版籍奉還ノタメノ建白書』を提出し、「苟モ我国ヲシテ海外各国ト並ビ立テ文明開 化ノ政治ヲ致サシメ、天性同体ノ人民、賢愚其処ヲ得、上下均シク聖明ノ徳沢ニ浴セシ メント欲スレバ、唯全国ノ政治ヲシテ一斉ニ帰セシムルニ如ク者ナシ。・・(略)・・故 ニ我全国ノ諸侯宇内ノ大勢ヲ察シ終ニ其政治兵馬ノ権ヲ以テ、天朝ニ奉還スルニ至レバ、

百年ノ後皇国ノ威武ヲ海外ニ輝スコト難シ」291と記している。維新直後において、彼は、

既に天皇の「聖明ノ徳」によって「全国ノ政治」を統一することで「皇国ノ威武」を海 外に宣することが可能であることを指摘していた。それ故に、それを実現する為には「政 治兵馬ノ権」を朝廷に奉還すること、即ち版籍奉還を早期に実施することの重要性をあ らためて提議したのである。

第三条は、「綱ニ曰ク、天地自然ノ理ニ随ヒ、博ク世界万国ト交通シ、信ヲ他邦ニ失 ス可ラズ」と世界との交易(開国)を推進していくことを規定する。併せて、その場合 は第六条に規定する「綱ニ曰ク、外国ト交際スルニ信義ヲ重ジ、全国ノ民心ヲ茲ニ帰着 セシメ、政府一定ノ方向ヲ知ラシム可シ」として、開国を実現し「信義」を尊重して諸 外国と交際すべきことを宣している。

本節の主題の一つである伊藤の教育思想に関して、特筆すべき条文は第四条と第五条 である。第四条は、「綱ニ曰ク、博愛ノ心ニ基キ、人命ヲ重ジ、万民ヲ視ルニ上下ノ別 ヲ以テ軽重ス可ラズ、人々ヲシテ自在自由ノ権ヲ得セシム可シ」と規定する。この条文 は、「万民ヲ視ルニ上下ノ別」無く、また「人々ヲシテ自在自由ノ権」の取得という、

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基本的人権としての人民の平等と自由の権利を主張していることである。さらに、第五 条は学校教育に関して以下に規定する。

綱ニ曰ク、全国ノ人民ヲシテ世界万国ノ学術ニ達セシメ、天然ノ智識ヲ拡充セシム 可シ。・・(略)・・欧州各国ノ如ク文明開化ノ治ヲ開ケリ。今ヤ我皇国数百年継受ノ 旧弊ヲ一新シテ天下ノ耳目ヲ開ク可キ千載ノ一機会ニ当レリ、是時ニ臨ミ、速ニ人々 ヲシテ弘ク世界有用ノ学業ヲ受ケシメズンバ、終ニ人々ヲシテ耳目無キノ末俗ニ陥ラ シム可シ、故ニ大学校ヲ設ケ、旧来ノ学風ヲ一変セザル可ラズ。乃チ大学校ハ東西両 京ニ営シ、府藩県ヨリ郷村ニイタル迄小学校ヲ設ケ、各大学校ノ規則ヲ奉ジ、都城渡 僻ニ論ナク、人々ヲシテ智識明瞭タラシム可シ。292

この第五条は、すべての人民に「世界万国ノ学術」を修得させて「智識」を広めるこ とを目的として、各郷村に「小学校」を設立することで「都城渡僻ニ論ナク、人々ヲシ テ智識明亮タラシム可シ」と規定する。この規定には、1873(明治5)年の「被仰 出書」に明記された「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」との内容 を彷彿させる、全ての人民(国民)のための公教育の基本が論じられている。既に18 68(明治元)年12月2日、木戸が『普通教育の振興を急務とすべき建言書案』293を 提出して、人民の知識進捗させるために全国に「学校」を振興させるべきことを提言し ていたように、新政府の国家目標である「国家富強」を実現するための人材育成のため の「学校」(「小学校」)が構想されていることが実証できる。

以上のように、『国是綱目』は、伊藤の維新直後の政府の基本方針とすべきであると の提言であるが、第一条に規定したとおり国体思想を機軸とする、所謂、明治政府が基 本政治体制とした「国体」の確立の指針である。そして、伊藤のこの第一条に規定した

「国体」観は終生変わらないものであった。1908(明治41)年春、憲法記念館会 館式における演説の中で、彼は憲法政治と国体の関係についての天皇の勅問について

「余は断じて国体の変化にあらずして政体の変遷のみと答奏せり。・・(略)・・則ち我 大日本帝国は、神武帝の後裔たる万世一系の皇統によって支配せらるヽものにして、国 体は断じて動くべきにあらず、唯だ政体は時に応じて変遷すべきのみと」294と演じてい る。聴衆を前にしての演説であり自身が天皇崇拝者であることを誇張している点はあっ ても、政体が時代とともに変遷するものの国体は「断じて動くべきにあらず」と論じた ことは彼の本意であると考える。よって、伊藤自身も、万世一系の皇室・天皇を中心と する国体を機軸とする政治体制を政治の基本としていたことは当然といえよう。いずれ にしても、この明治2年における『国是綱目』は、国体を機軸としながら「国家富強」

によって統一国家を実現し併せて列強の侵略に対しては断固独立を死守せんとした、伊 藤の終生変わらない政治思想と政治機構並びに教育制度の基本的在り方を示した建白 書であったことは間違いない。

ドキュメント内 博士学位論文 (ページ 68-76)