第四章 1920 年代後半の『婦女雑誌』と『新女性』
第 2 節 『婦女雑誌』から『新女性』へ(1926 年~1929 年)
2.1 開明書店と『新女性』
章錫琛が女性解放論の形成と発展のために力を尽すことを考えなかったとしたら、『婦 女雑誌』の後継雑誌として『新女性』が創刊されることはあり得なかっただろう。『婦女 雑誌』から『新女性』へと乗り換えた五四新文化運動の婦女解放論の影響力は、1920 年 代後半を通して維持され続けた。『婦女雑誌』から離れても、章錫琛は女性解放論を放棄 したわけではなかった。彼が考えたのは、かつての『婦女雑誌』の精神を継ぎ、新しい雑 誌『新女性』の創刊にとりかかることである。
『新女性』の出版社としての開明書店は立達学会61の活動基盤であったが、その成立の 経緯などから背後には立達学会の他に婦女問題研究会や文学研究会が存在していた。「開 明書店」という名前は、文学研究会発起人の一人である孫伏園62が命名したものである63。 同出版社は立達学会、婦女問題研究会、文学研究会などを後援組織としていたが、実際に は章錫琛、章錫珊兄弟の共同経営で、設立当初の資金は彼らの退職金及び社員らからの集 金で成り立っていた64。
開明書店は、設立当初の 1920 年代後半、『一般』、『新女性』、『国學門月刊』、『文學週 報』という 4 つの雑誌を発行していた。開明書店では雑誌のほか、文学や芸術、社会科学 山加奈子、「婦女問題研究会と『現代婦女』(『時事新報』副刊)-中国の 1920 年代初期における「節育」
観」、『駿河台大学論叢』(32)、駿河台大学、2006 年、173 頁~175 頁に詳しい。
60王知伊、「開明書店紀事」、『出版史料』、第 4 期、1985 年 12 月、4~5 頁。
61立達学会:立達学園は自由で新しい教育を目指した匡互生、豐子愷などが中心となって 1925 年に設立さ れた。そして、立達学園の教育方針に賛同する 51 名の知識人らによる同人会、立達学会が組織された。
62孫伏園(1894 年~1966 年):浙江省紹興の人。原名は福源、筆名は有伏、松年、柏生、桐柏等がある。
1921 年に北京大学を卒業し、その後『國民公報』、『晨報』の編集に携わった。1919 年 1 月に新潮社に 加入し、1921 年に文学研究会の結成に加わった。著作は『付園游記』、『魯迅二三事』がある。
63大野公賀、「1920 年代および 30 年代上海における立達学園と開明書店」、『津田塾大学紀要』(42)、2010 年 3 月、321 頁。
64宋雲彬、「開明舊事―我所知道的開明書店」、『文史資料選輯』第 31 輯、1950 年、2~5 頁。
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に関する名著や翻訳も多数出版している。その中で特に好調を博したのが、夏丏尊訳の『愛 的教育』である。原作はイタリア人作家であるデ・アミーチスの『クオーレ』(Cuore)で あるが、夏丏尊の『愛的教育』は三浦修吾の日本語訳『愛の學校』を参考にして翻訳され たものである65。
各出版物の編集はそれぞれ立達学会、一般雑誌編集部、婦女問題研究会、北京大学研究 所国学門、文学研究会とされていたが、このうち開明書店が実際に編集に関わったのは『一 般』、『新女性』という雑誌であった。開明書店の中では夏丏尊ら立達学園関係者は主とし て『一般』の編集に携わり、『新女性』は章錫琛が続けて編集を担当した66。
『新女性』は、『婦女雑誌』ほどの影響力を持つ雑誌とは言えないが、魯迅、葉聖陶、
豐子凱、胡愈之など中国の先進的な男性知識人が度々投稿している。このような人材を活 用したことによって、『新女性』は一定の知名度と名声を確立し、世間から好評を博した。
その結果として 1928 年には同誌の発売部数が 35000 部に達しており、一定の読者数を擁 していたと言えよう67。
『新女性』という雑誌に関しては、『婦女雑誌』について論じられた際、部分的には論 じられたが、論文としてのまとまった先行研究は、管見の限り殆ど見られなかった68。ま た、この五四運動期間において、章錫琛は女性問題を積極的に模索する中国の男性知識人 を代表する存在であり、その言論の歴史的意義は決して見逃すことができないと考える。
実は 1920 年代後半から女性論は、国民党や共産党などの政治団体からも注目されてい た。1926 年 12 月に共産党の指導のもとで創刊した『中国婦女』(楊之華編集)など女性 向けの刊行物は、中国の現実に即した女性問題を取り上げていた。一般女性を相手にする
『新女性』も、知識界の言論と政治的宣伝の発信源として社会全般に浸透することを期待 された69。
『新女性』には、発刊詞がなかった。同誌の宗旨は創刊號の「排完之後」という記事に おいて簡潔に説明された。そして、女性雑誌としての態度は、「讀者に自然に見せるため、
普通刊行物のような發刊詞も省略した70」から読み取れる。ここには編集長の章錫琛が同 誌の編集に対して持つ自信が窺える。章錫琛も「文化の發展71」という編集策略に従って この刊行の主旨を主張し続けた。
65同注 63、大野、326 頁。
66同注 63、大野、321 頁。
671924 年当時『婦女雑誌』の発行部数が 7000 部だったことや、1925 年当時上海における日刊紙の発行 部数が「申報」は 20000 部、『新聞報』は 25000 部、『時報』は 5000 部ほどだったことと照らし合わせ ると、『新女性』は一定の読者を持った雑誌だったと言える。小関信行、『五四時期のジャーナリズム』、
同朋舎、1985 年、119~121 頁。
68『新女性』という雑誌の考察について見られるのは、蔡银春の「章锡琛的编辑出版思想探析―以『新 女性』为例」(『出版広角』、2014 年、88~91 頁)という中国語の短い文章だけである。
69同注 2、陳、236 頁。
70原文「新女性的宗旨和態度都在以下各文中顯明地表出、讀者自能看到、所以像普通刊物上所有照例的 發刊詞也便省去了」、「排完之後」、『新女性』第 1 巻第 1 號、1926 年 1 月、1 頁。
71「婦女問題研究會宣言」、『婦女雑誌』第 8 巻第 8 號、1922 年 8 月、148 頁。
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『新女性』の欄目は複雑、派手ではなかったが、章錫琛が同誌の宗旨をめぐって始終一 貫した欄目を設置した。その中で「議論」というコーナーが設けられ、女性問題に関する 記事も集中的に掲載されて紹介された。蔡銀春の研究では 1926 年と 1928 年に出版され た『新女性』を取り上げ、その議論文はそれぞれ記事全体の 43%と 44%を占めることを 明らかにし、その内容は「戀愛」、「婚姻」、「貞操」、「性道徳」、「女性教育」、「女性職業」
など女性問題に関連するものであったという72。例えば、「性的比例和兩性關係」(性の比 例と兩性關係73)、「禁慾主義和戀愛自由」(禁欲主義と戀愛自由74)、「改造社會與現代女子 的苦惱問題」(改造社會と現代女子の苦惱問題75)などの記事があった。そして、「記述」
という欄目で大量の外国における女性関連する記事が掲載され、それを通して国内外様々 な地域の女性生活、婚姻及び著名女性の伝記が紹介された。また、「時事欄」、「通信欄」
などの欄目を通して、読者との交流を重視する部分も見られる。
『新女性』は、1929 年 12 月に休刊するまでに 48 号を刊行したが、章錫琛は「時代は すでにわれらを必要としなくなった76」という理由で自ら休刊の道を選んだ。1930 年と いう時期は『新女性』が休刊しただけではなく、女性論をめぐって中国言論界の勢力図が 根本的に揺らいだ年でもあった。「女性教育の成長とともに女性知識人の數も増えつつ」
あり「女性論は政治勢力から」離れるべきという章錫琛の考えから、『新女性』の廃刊理 由も理解できるであろう77。
当時の中国にとって、近代国家の建設には西洋文明の導入が不可欠であり、また大前提 でもあった。西洋文明は 19 世紀末頃から徐々に紹介され始めていたが、1910 年代後半に なると、影響力が高まった。近代的な市民意識の成長において、日本を経由した西洋の恋 愛を取り入れることは非常に重要な意義を持っていた。章錫琛は「自由戀愛」、「自由離婚」
などの女性思想を積極的に『婦女雑誌』や『新女性』を通して読者に紹介した。当時の男 性知識人にとっては、先進的な欧米女性思想が中国女性問題に解決策を提示するに違いな いと考えられていた。
そして、『新女性』は「青年男女の心の改造に努力する」ことと「新性道徳の基礎を建 設する」ことを目標に、「女性地位の向上」、「兩性道徳の革新」、「婚姻制度の改造」、「家 族主義の打破」、「兩性知識の普及」に関わる記事を掲載していた78。これらの記事の内容 は主に、五四新文化運動の女性解放思想に基づいており、『婦女雑誌』に引き続き女性の 社会的な地位と観念に対する意識の改革と変化を意図したものである。
2.2 章錫琛の性道徳観の変様-『婦女雑誌』から『新女性』へ
72同注 68、蔡、89 頁
73周建人、「性的比例和兩性關係」、『新女性』第 1 巻第 3 號、1926 年 3 月、151 頁。
74高山、「禁慾主義和戀愛自由」、『新女性』第 1 巻第 4 號、1926 年 4 月、233 頁。
75天宇女士、「改造社會與現代女子的苦悩問題」、『新女性』第 2 巻第 7 號、1927 年 7 月、723 頁。
76原文「廢刊的原因很是單純、就是時代已經不需要我們了」、無名氏、「廃刊詞」、『新女性』第 4 巻第 12 號、1929 年 12 月、5 頁。
77同注 76、無名氏、6 頁。
78無名氏、「排完以後」、『新女性』第 3 巻第 3 號、1928 年 3 月、119 頁。
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五四時期の旧道徳批判は「戀愛」の自由を求め、ひいては「自由離婚」の主張と貞操観 に含まれる伝統的な性観念に対する批判へと発展した。新しい恋愛観に基づいて「新性道 徳」を建設しようとする動きによって、先進的な男性知識人は自由恋愛と優生学の立場に 立って「性の自由」を追求するようになる。
国家と社会、及び個人のために自由を勝ち取ろうとする精神は、反伝統思想に集約され、
五四運動にその最高潮を迎えた79。「民国期のジェンダーとセクシュアリティをめぐる変 化は、一九一五-一九年に新文化運動と五・四運動を推進した知識人たちによって引きお こされた80」ものである。そして、中国の男性知識人は、西洋女性思想の影響の下で結婚 は当事者間の愛情に基づくものでなければならないと認めるが、性行為に関しては、依然 として旧体制的な考え方で、男女を接近させないようにしていた。2000 年以上も昔の「七 歳不同席」、「男女授受不親」等の封建的な観念は、新文化運動後その姿を消したかのよう であるが、人々の頭の中には依然として残り続けていた。
「女性問題の專門家」となった章錫琛も、勿論貞操問題を看過するわけにはいかず、「戀 愛」より「貞操」の重要性を強調した。1923 年 3 月の『婦女雑誌』の「娼妓問題號」に は、中国における娼妓の存在を世界人類の「恥辱」とし、貞操を失うことは最大の不道徳 であるとした。彼は「世界人類的恥辱」において、「廃娼問題」に対する具体的な解決策 に論及した。
その一は性道徳の平等、女性は必ず純潔な貞操を持つだけではなく、また男性の貞 操觀念も打ち立てられねばならない。即ち貞操を失うことは最大な罪惡と見做される べきである。その二には經濟制度の改造を謀るべきである。それによって世界から貧 困の現象を無くし、女性はやむなく売春を生活の方法とする必要がないようにする。
その三は教育の革新であり、青年男女なら誰でも完全な教育を受け、人々が貞操を失 うことは最大の不道徳と認めさせるべきである。特に充分な性教育を實施し、性的生 活がいかに尊嚴あるものか、霉毒の害がいかに恐ろしいか理解させるべきである81。
とあり、章錫琛は道徳、恋愛、自由、女性の地位などを重んじる観点から「廃娼問題」を 論じ、教育の根本的な改革の必要性を述べた。
1917 年のロシア革命以来、知識人は社会主義やアナーキズムへの関心を強め、女性解 放論でも「全ての女性の解放」を視野に入れ、娼妓問題、童養媳や婢女の解放、女子労働 問題がとりあげられた。章錫琛が提起した対象は、明らかに女性だけではなく男性も含ま れており、「必ず兩性の結合が戀愛の基礎となり、少しも外的な壓迫は受けない。もし戀
79林毓生著・穆善培訳、『中國意識的危機-五四時期激烈的反傳統主義』、貴州人民出版社、1988 年、8 頁。
80スーザン・マン著、秋山洋子・板橋暁子・大橋史恵訳、『性からよむ中国史 男女隔離・纏足・同性愛』、平 凡社、2015 年、17 頁。
81原文「其一是性道德的平等、不但女子須有純潔的貞操并且不可不建立男子的貞操、視失貞操为莫大的 罪惡。第二須謀經濟制度的改造、務使世界上没有貧乏的現象、女子不致被迫而以賣淫爲生活的方法。第 三是教育的革新、使青年男女都能受得完全的教育、人人視失貞操爲莫大的不德。尤其施以充分的性教育、
使知性的生活的如何尊嚴、霉毒的禍害如何可怕」、瑟盧、「世界人類的恥辱」、『婦女雑誌』第 9 巻第 3 號、
1923 年 9 月、22 頁。