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章錫琛編集期の『婦女雑誌』の社会的な影響

第三章 1920 年代前半の『婦女雑誌』に関する考察

第 2 節 章錫琛編集期の『婦女雑誌』(1921 年~1925 年)

2.3 章錫琛編集期の『婦女雑誌』の社会的な影響

章錫琛が女性思想を討論した際に、単にエレン・ケイの思想を利用するだけではなく、

外国で展開された女性解放運動の情況を紹介したり、離婚問題、産児制限、婦女運動、社 交公開などのテーマを積極的に取り上げたりして『婦女雑誌』の誌面内容は 1921 年から 大きく変化した。貞操問題、娼妓問題、職業問題、新性道徳問題などについての特集号が 相次いで組まれるようになった。

また、「對於自由離婚的主張和反對」(自由離婚の主張と反對について)(第 8 巻第 4 號)、

「我之理想的配偶」(私の理想的な配偶者)(第 9 巻第 11 號)、「我的職業生活」(私の職 業生活)(第 10 巻第 6 號)など特集号の原稿を読者に募集したり、「自由論壇」(第 9 巻 第 3 號)、「通訊」(第 9 巻第 9 號)、「談話會」(第 10 巻第 1 號)という欄目を開設したり するなどして読者と積極的に交流したり、意見の発表を勧めるようになった。しかし、以 下のように、章錫琛編集期の特徴の一つとして、読者の意見としてのセクシュアリティに 関連する部分を殆ど重視してないことを窺うことができる(表 12 参照)。

表 12.章錫琛編集期の『婦女雑誌』の特集號(1921 年~1925 年)

出版年月 特集號名 バックナンバー 読者原稿募集タイトル 日本語訳(筆者訳)

1922 年 4 月 離婚問題號 第 8 巻第 4 號 關於離婚的事實及其批評 離婚の事実及び批判に関する

對於自由離婚的主張和反對 自由離婚の主張と反對について

1922 年 6 月 産児制限號 第 8 巻第 6 號 該当なし 該当なし 1923 年 1 月 婦女運動號 第 9 巻第 1 號 我國目前婦女運動應取的方

我が國目前婦女運動の採用すべき 方針

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1923 年 3 月 娼妓問題號 第 9 巻第 3 號 該当なし 該当なし 1923 年 9 月 家庭革新號 第 9 巻第 9 號 通訊 通訊 1923 年 11 月 配偶者選択

第 9 巻第 11 號 我之理想的配偶

(一~六十)

私の理想的な配偶者

(一~六十)

1924 年 1 月 十年記念號 第 10 巻第 1 號 談話會 談話會 1924 年 6 月 職業問題號 第 10 巻第 6 號 我的職業生活 私の職業生活 1924 年 10 月 男女理解號 第 10 巻第 10 號 我所希望於男子者 私の希望する男子

我所希望於女子者 私の希望する女子 尊重女性的男子是否可與不

滿意的舊式妻子離婚

女性尊重の男子が満足してない旧 式妻と離婚する可否

1925 年 1 月 新性道徳號 第 11 巻第 1 號 該当なし 該当なし

1925 年 6 月 女学生號 第 11 巻第 6 號 女學生時代的回憶 女子學生時代の思い出 給女學校教師的公開信 女子學校教師への公開の手紙 女學生對於社會的呼籲 女子學生が社会に対して呼び声 女學生的課外讀物 女子學生の課外の読み物 苦學生活的女學生 苦學生活の女子學生 各地女學生狀況調查 各地女子學生狀況調査 我所見的女學生 私が見た女子學生 女學生的家庭狀況 女子學生の家庭狀況

1923 年 11 月、『婦女雑誌』の「配偶者選択號」という特集号が出版され、「我之理想的 配偶」(私の理想的な配偶者)をテーマにして読者から意見を求めた。章錫琛の「全文の 組み版が終わった後、遠方と国外から(原稿)を送ってくることから、こうした問題に對

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する青年の重視と熱愛を証明するのに十分である102」と述べたように、このテーマは多く の読者103の関心を引き付けられた。この特集号の考察については、次章の第 1 節で行いた い。

1921 年から、章錫琛は『婦女雑誌』の「家政門」など家政育児の実用的な記事に関す る欄目を全面的に廃止し、恋愛、婚姻、新性道徳、職業など議論に集中するようになった。

様々な話題に関する新たな見解を持つ若者の意見を吸収し、そして自らの考えを意欲的に 提供しようとする姿がここから窺える。しかし、葉韋君の研究によれば、早くも 1924 年 6 月から、章錫琛は読者からの書簡に誌面で返答することは少なくなった。彼は自らの意 見を押し通すようになり、異なる意見を持っていた読者の声を聞き入れなくなった104。章 錫琛の主張は全ての読者の共感を得られていないと見られる。

1925 年 1 月、『婦女雑誌』は「新性道徳號」を刊行し、章錫琛の「新性道德是什麽」(新 性道徳とは何か)が巻頭を飾った。その中で性道徳は社会と個人に対して損害を与えない 限り、いかなる恋愛の形式でも個人の自由が尊重されるという彼の原則は、「新性道徳論 争」の導火線となった。章錫琛ものちに「この文章が發表されてからは、各方面からのさ まざまな直接、間接の叱責、攻撃、迫害が押し寄せ、ひどい目にあわされた105」と回想し、

1926 年、彼は辞職に追い込まれた。

『婦女雑誌』から離職した後、章錫琛は『新女性』という女性雑誌を創刊し、自由恋愛 と自由離婚に関する討論を継続して行っていた。以下では、『婦女雑誌』を離れてほかの 女性雑誌の主幹になった時、章錫琛の主張はどのように変化したかを分析したい。

1920 年代後半に入ると、社会状況が不安定さを増す一方で、近代的な職業を持ち、主 体的に生きようとする「新式女性」(もしくは新婦女)と称される女性がますます登場し た106。一方、北京、上海など大都市の女性の服装にも多くの変化が生じた。『婦女雑誌』

が 2 度目の変革を経た 1920 年代後半には、同誌の広告は従来の医薬品から女性用のファ ッションへ移り始めただけではなく、新しい編集長である杜就田の助力の下、女性読者は 同誌が提示した「女性のための軟性讀物」という方針に共鳴し、自身のことや身近な実例 を語るようになる。その具体的な内容について次章で考察したい。

102原文「直到全文排好之後、還有從遠省和國外寄來的、足徵青年對於這問題的注重和厚愛」、記者、「選 後」『婦女雑誌』第 9 巻第 11 號、1923 年 11 月、180 頁。

103募集の締め切りの時点までに、合計 155 名の原稿が『婦女雑誌』に届けられた。

104葉韋君、「個人經験與公共領域:『婦女雑誌』通信欄研究(1915~1931)『近代中国婦女史研究』第 29 期、中央研究院近代史研究所、2017 年、67 頁~69 頁。

105原文「這篇文章發表以後,從各方面襲來的種種間接的指斥,攻擊,迫害已經使我們夠受」、章錫琛、「駁 陳百年教授『一夫多妻的新護符』、『新性道徳討論集』、開明書店、1925 年、79 頁。

106末次玲子、『二〇世紀中国女性史』、青木書店、2009 年、195 頁。

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