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第四章 1920 年代後半の『婦女雑誌』と『新女性』

第 1 節 杜就田編集期の『婦女雑誌』(1925 年~1930 年)

1.1 杜就田について

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杜就田に関する先行研究によれば、彼はかつて『東方雜誌』の編集長であった杜亜泉8

(1873~1933)の従弟である。『婦女雑誌』の編集中には、「農隱」という筆名で個人の 趣味を反映した写真や絵画を内容とする記事を同誌に発表したが、他の記事の多くは読者 投稿に依頼したという特徴がある9。杜就田が『婦女雑誌』に投稿した記事は少なかった ため、表 13 のように、概ね「家庭教育」、「家政知識」、「戀愛結婚」といった 3 つの分野 に分類した。

表 13.杜就田が『婦女雑誌』に投稿した記事の一覧表(家庭教育・家政知識・恋愛結婚)

巻號 バックナンバー タイトル 日本語題目(筆者訳) 分類

第 11 巻第 10 號 1925 年 10 月 關於家庭教育的談論 家庭教育の談論について

家庭教育 小孩容易感受的傳染病 子どもに受けやすい傳染病

第 11 巻第 11 號 1925 年 11 月 孩子的體溫 子どもの體温 第 12 巻第 2 號 1926 年 2 月 兒童的天趣 児童の天趣 第 13 巻第 1 號 1927 年 1 月 育兒的意義 育児の意義

育兒上的要項 育児上の要項 小孩的病害 子どもの病害 家庭教育 家庭教育 家庭與學校 家庭と學校 第 11 巻第 11 號 1925 年 11 月 米麥豆類的鑑別法 米麦豆類の鑑別法

家政知識 醬油的鑑別法 醤油の鑑別法

第 11 巻第 12 號 1925 年 12 月 皮膚和肥皂的關係 皮膚と石鹸の關係 第 11 巻第 3 號 1926 年 3 月 占風雨的方法 風雨を占う方法

室內運動用的電馬 室内運動用の電馬 第 11 巻第 4 號 1926 年 4 月 避蜜蜂的頭網 蜂を避けるヘッドネット 第 11 巻第 8 號 1926 年 8 月 預卜風雨之法 風雨を予知する方法

講求植樹法 植樹法の探求 第 11 巻第 10 號 1926 年 10 月 簡易的生髮水 簡易の生髪水

自製石膏像的方法 石膏像の自製方法 第 12 巻第 1 號 1927 年 1 月 合式的蒔種法 合式の蒔種法

食物的調理 食物の調理 食物的貯藏 食物の蓄蔵 食物中的調味品 食物の調味料

8杜亜泉(1873 年~1933 年):浙江省紹興の人である。原名は孫煒、字は秋帆、號は亜泉、別名は陳仲 逸、高労などがある。彼は最初紹興中西學堂で執教したが、後に上海で亜泉學館を創立し中国最初の自 然科学刊行物である『亞泉雜誌』を出版し、科学史地政治などの書籍を編集した経験がある。商務印書 館の『東方雑誌』の編集長を務めたことがある。著作は『動物大辞典』『自然科學教科書』などがある。

9任文京・劉偉娜、「杜就田主編時期『婦女雑誌』征文中的女性风貌」『河北大学学報』(哲学社会科学版) 2008 年 11 月、第 43 巻第 6 期、155 頁。

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家庭中的飲料 家庭内の飲料 衣服與人體的關係 衣服と人體の關係 家屋的意義 家屋の意義 家屋與衛生 家屋と衛生 第 11 巻第 7 號 1926 年 7 月 愛的雜說 愛の雜説

恋愛結婚 人類的愛情 人類の愛情

男女的愛之要素 男女の愛の要素 夫婦的愛與男女的愛 夫婦の愛と男女の愛

愛的歷史 愛の歴史

天才與愛 天才と愛

第 12 巻第 7 號 1927 年 1 月 交際的意義 交際の意義 交際上的必要 交際上の必要

表 13 から分かるように、杜就田は家政、育児について関心を寄せ、恋愛結婚問題を吐 露する場面も見受けられるが、章錫琛編集期の『婦女雑誌』と比較して外国から翻訳され た記事は殆ど掲載してなかった。そして、1927 年 2 月以降、杜就田自ら手がけた記事の 本数がさらに減少したが、女性読者とより深く交流するために開設した「醫事衛生顧問」

と「徵文當選10」など欄目に力を加えたことを見られる11

また、雑誌のデザインの面について、章錫琛編集期の『婦女雑誌』は殆ど工夫が凝らさ れなかったが(図 5 参照)、杜就田が就任した後、『婦女雑誌』のデザインには女性らし い挿絵が大量に採用され、表紙を工夫して女性読者の関心を惹いた(図 4 参照)。張哲嘉 によれば、『婦女雑誌』の女性読者が、女子学生や教員などに限られていたことや、男性 が女性の名で投稿をしていた可能性があるにもかかわらず、杜就田編集期に女性読者の割 合が著しく増加していたことは事実である12

10「この時期における読者の原稿を募集する数量は 1 千篇ほどであり、王蘊章と章錫琛の編集期の合計 数の 3 倍より多かった」、同注 9、任・劉、155 頁。

11大道寺慶子「第五章『婦女雑誌』の母乳育児論にみる身体と近代―日中比較の視点から」、山本英史 編、『近代中国の地域像』、山川出版社、2011 年、162~163 頁。

12張哲嘉の研究によれば、1925 年には女性読者は全体の僅か 22%を占めていたにすぎないが 1931 年に なると 53%という割合となり、読者層の半分以上を占めていたという。張哲嘉著、陳姃湲訳「「醫事衛 生顧問」について」、村田雄二郎編、「婦女雑誌」からみる近代中国女性』、研文出版、2005 年、210 頁。

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図 4.『婦女雑誌』第 11 巻第 11 號表紙 図 5.『婦女雑誌』第 9 巻第 2 號表紙

(杜就田編集期) (章錫琛編集期)

また、松本咲江の研究によれば、杜就田編集期の『婦女雑誌』は、女性は母親であると いう帰着点を明確に示す編集方針を取っていたのである。そして、雑誌全体では、健康な

「母親としての身體」に辿り着くために、読者の立場に立った様々な助言がされていたと いう。

読者の声を多く反映した杜就田編集期の『婦女雑誌』の誌面の性格について、Nivard はそれを「保守期」と簡単に称していた13。確かに「戀愛」と「性道徳」ばかりを提唱し た章錫琛編集期に比べると、この時期の『婦女雑誌』の編集方針は決して「急進的」では なく、むしろ「中庸的」、「保守的」という評価が相応しいと思われるが、これは決して

『婦女雑誌』初期に提唱された「良妻賢母」の編集方針と同じものではない。また、李暁 紅の研究によれば、杜就田編集期の『婦女雑誌』は女性の社会的な自立を強調したが、そ れはむしろ女性の労働技能を育成させるためであり、根本的な女性の社会地位改善を目指 したものとは言えなかった14

確かに、杜就田編集期の『婦女雑誌』は、女性参政権、女性解放思想など先進的な女性 問題についての討論を殆ど行わなかった。しかし、杜就田が編集長を務めた 1925 年 9 月

(第 11 巻第 9 號)から 1930 年 6 月(第 16 巻第 6 號)までの 4 年 9 ヶ月という発行期間 は『婦女雑誌』史上で最も長く、その存在意義は決して看過することができないと思う15

当時の『婦女雑誌』の編集方針について、杜就田は以下のように説明している。

13Jacqueline Nivard,,“Women and Women’s Press: The Case of The Ladies’ Journal(Funvzazhi) 1915-1931”,Republican China,Nov.1984,p42.

14李暁紅、『女性的声音-民国时期上海知识女性与大众传媒』、学林出版社、2008 年、84 頁。

15章錫琛が担当した 1921 年 1 月(第 7 巻第 1 號)から 1925 年 8 月(第 11 巻第 8 號)にかけての 4 年 7 ヶ月という刊行期間より 2 ヶ月長かった。

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文體は全て淺近で平易なものを用い、難解なものを用いないのは、讀者に容易に理解 してもらうためである。さらに、挿繪を増加し、それにより、文字で説明できないと ころの助けとする。撮影藝術の顧問を雇い、通訊欄を拡充して(中略)婦女雜誌を少 數の人の專用としないように、「婦女の忠實な友人」あるいは「趣味がある軟性の讀 物」にする16

1920 年代前期の『婦女雑誌』に掲載された大量の西洋女性思想の理論と異なったのは、

誌面に一転して「生活經験談」、「藝術鑑賞」などの内容が出現し、教育程度が低い女性 読者にも簡単に理解してもらえるようにしたことである。思想的で難解な記事が無くなっ た杜就田編集期の『婦女雑誌』は、女性読者の受容に比較的沿っていたため、女性から大 きく支持を得られたのである。

また、杜就田が自ら立ち上げたコーナーである「醫事衛生顧問」は、女性読者が進んで 自分の情報を医師に提供して相談を仰いでおり、1920 年代後半の『婦女雑誌』の読者層 を研究する上で非常に貴重な資料として近年の先行研究では注目されている17

確かに、このような分析作業を通して「中国近代における醫學知識の普及過程を追う研 究史上の空白を埋めることにつながる18」という成果が得られる。そして、その成果を通 じて、女性読者が同誌の伝える医学知識をどのように受け入れていたかを窺うことができ ると張哲嘉の研究では指摘している19。しかし、女性読者から多くの好評20を受けたこの 時期の『婦女雑誌』において、その影響力は恐らく医事相談、読者投稿だけではなかった と考えられる。また、杜就田という人物及び当時の『婦女雑誌』に対する先行研究の評価 は何れも厳しいものばかりで、未だに詳細な研究がなされていない。この状況の中で、

1920 年代前半の『婦女雑誌』との比較を行うことは、1920 年代後半の『婦女雑誌』の誌 面方針を理解する最初の一歩であると考える。

16原文「文字皆取淺近平易、不尚高深、務使讀者易於了解。而又多插圖副、爲助文字所不及。添加攝影 藝術的顧問、擴充通訊欄(中略)務使婦女雜誌不爲少數人所專有、成一『婦女忠實的良伴』或爲『有趣 味的軟性讀物』、無名氏、「明年婦女雜誌的旨趣」『婦女雑誌』第 11 巻第 12 號、1925 年 12 月、4 頁。

17以下の先行研究は、いずれも「医事衛生顧問」の欄目を読み解く作業によって、読者の健康相談をも とに、そこに現れた近代中国女性の「身体観」に着目して考察した。

ⅰ.松本咲江「ゆれる乳房―杜就田編集期の『婦女雑誌』「医事衛生顧問」における身体論を中心に」

『饕餮』第 16 號、中国人文学会、2008 年 9 月。

ⅱ.張哲嘉著、陳姃湲訳「「医事衛生顧問」について」、村田雄二郎編、「婦女雑誌」からみる近代中国 女性』、研文出版、2005 年。

ⅲ.大道寺慶子、「第五章『婦女雑誌』の母乳育児論に見る身体と近代―日中比較の視点から」『近代中 国の地域像』、山川出版社、2011 年。

18張哲嘉著・陳姃湲訳「「医事衛生顧問」について」、同注 12、村田、86 頁。

19同注 18、張・陳、186 頁。

201930 年に上海で行われた「女學生愛読書籍調査」の結果では、『婦女雑誌』は 14 票を得て 20 票の『古 文觀止』、15 票の『紅樓夢』に次いで 3 位であり、少なくとも当時の女子学生の好む刊行物の一つであ ったことが言える。陳姃湲、「女性に語りかける雑誌、女性を語り合う雑誌」、同注 12、村田、33 頁。