• 検索結果がありません。

平塚らいてうと章錫琛の比較

第三章 1920 年代前半の『婦女雑誌』に関する考察

第 2 節 章錫琛編集期の『婦女雑誌』(1921 年~1925 年)

2.2 日中両国におけるエレン・ケイ思想受容の比較

2.2.3 平塚らいてうと章錫琛の比較

従来の性道徳の変革と恋愛の自由を主張するエレン・ケイの思想が、日本の女性解放思 想研究においても巨大な意義を持つことは言うまでもない。日本の進歩的な書籍を翻訳す ることが有効な手段であると『婦女雑誌』の編集者らに認識され、そのため、エレン・ケ イの著作が翻訳された著作が広く読まれるようになった。

中国よりやや早い時期に、平塚らいてうは彼女が主宰した女性解放誌『青鞜』でケイの

『戀愛と結婚』を抄訳し、ケイとの出会いは、「まさに『新しき女』の生きるべき道への 道標となった83」と言える84。「戀愛が一切の婦人問題を解決できる」と確信した章錫琛と 異なり、平塚らいてうは以下のように述べる。

本当の婦人解放は、婦人の家庭生活と職業生活との調和において見出さるべきもので、

これは二つの生活を両立せしめ得るところの社会制度の中に求めるより外ありませ ん。すなわち、わたくしが夢想する社会においては、すべての婦人が労働の自由を得 て、男子と同様にあらゆる方面の社会的任務に從事し得るとともに、家庭における母 の仕事もまた他の男女の仕事と同様(否それ以上にさえ)重要な社会的任務であって、

それによって、収入は無論、社会的地位と一個の人間としての権利を与えられるので なければなりません。母性保護制度も単に母の労働を禁止するというような消極的な ものでなく、ここまで進んだとき、すべての婦人を完全に解放することが出来るでし ょう85

以上のように、平塚らいてうすべての女性が「勞働の權利」を得ることを主張し、同時 に育児など家庭生活の社会的、経済的価値の改善を唱えた。女性が内的に「一個の人間」

としての人格を認められるだけではなく、外的に経済的に自立することを目指すべきだと いう社会的な視線を持っていた。

彼女は大正時期の数多くの著名人による恋愛事件を、単に時代の風俗としてではなく、

女性の自由への道程とみなし、新性道徳観の形成に必要な条件として評価している。しか

83香内信子、『資料母性保護論争』、ドメス出版、1984 年、86 頁。

84らいてうは、「わたくし自身は、少なくともケイのものを読まなかったら、おそらく恋愛はしても、結 婚生活には入らなかった」と回想した。平塚らいてう、「婦人解放思想」『元始女性は太陽であった(下) 大月書店、1971 年、492 頁。

85平塚らいてう、「むしろ女子の性を礼拝せよ」(初出 1924 年)『むしろ女子の性を礼拝せよ』、人文書 院、1977 年、169 頁.

96

し、彼女は大杉栄(1885 年~1923 年)86と伊藤野枝(1895 年~1923 年)87の恋愛につい ては、「自由戀愛」と位置づけて、次のように述べている。

いったい自由戀愛というものは、氏らが意味するような、一種の一夫多妻主義(ある 時は多夫一婦ともなり、多夫多妻ともなる)くわしく言えば、相愛の男女は別居して 各自獨立の生活を營み、またもしこれらの男女にして他の男女に戀愛を感ずれば、そ れらと同時に、しかも遠慮なしに結合することができるのみならず、さほどの戀人と も愛がさめれば、子供の有無にかかわらず、いつでも勝手に別れることができるとい うような無責任な、無制限な、したがって共同生活に対する願望も、その永續の意志 をも欠いた性的關係でありましょうか。これは自由戀愛の甚だしき亂用でなくて何で しょう88

即ち、らいてうにとっては、結婚の問題が、愛情があれば自由に結婚また離婚できると いうことではないと考えられる。1916 年 4 月、『青鞜』の主力として活躍していた伊藤野 枝は、夫の辻潤と離別、子供と『青鞜』編集者の仕事を捨て、アナキズム運動の中心人物 であった大杉栄の愛人となった。1917 年、大杉は妻と別れ、周囲から「悪魔」と呼ばれ た野枝と共同生活に入った。野枝の選択は「自由戀愛の亂用」とされ、その恋愛には子供 に対する配慮がないことに対して、「無責任に非人格的」とらいてうは非難した。即ち、

らいてうの求めた「戀愛の自由」とは、永続的な共同生活とそれに伴う子供に対する責任 感を持つものを意味したものである。

彼女は大杉栄と伊藤野枝のような恋愛観やその実行について、たとえ恋愛があっても不 道徳な自由恋愛として認識した。奥村との共同生活を実践する中で「子どもの權利」の重 要性に目覚めたらいてうは、現行の社会制度、結婚制度への批判を強めていく。女子労働 者の保護と労働条件の改善を唱えると共に、個人の自由と権利を抑圧する戸主制度、妻を 無能力と見なす明治民法と、姦通罪に反対した。これらの点も彼女の理解と章錫琛が受容 した恋愛の自由説を区別する点であると考えられる。「自由戀愛」に対して、らいてうが 理解したことは「放縦な、非人格的な自由戀愛のように、あるいは、空想的な戀愛至上主

86大杉栄:大正期の代表的アナーキスト。東京外国語学校仏語科在学中、平民社に参画し、社会主義者と なる。卒業後、幸徳秋水の影響でアナーキストとなった。関東大震災の混乱の中で、伊藤野枝及び甥と ともに甘粕正彦によって殺害された。

87伊藤野枝:無政府主義者。結婚問題を通して家族制度に疑問を持ち、平塚らいてうによって創立された 青鞜社に参加した。1916 年大杉と交際に至ったことから、大杉の妻及び神近市子と四角関係になり、神 近は葉山日蔭茶屋で大杉を刺して重傷を負わせた。これは日蔭茶屋事件として知られる。以降野枝は大 杉と活動を続けたが、関東大震災直後の 1923 年 9 月 16 日、大杉と共に殺害された。

88平塚らいてう、「いわゆる自由戀愛とその制限」(初出 1917 年)『平塚らいてう著作集 2』、大月書店、

1983 年、256 頁。

97

義のようにも誤解89」されたのである。らいてうは極力このような自由恋愛といわれるも のに反対した90

エレン・ケイは「子どもは、親の堕落の犠牲になってはならない。いかなる場合におい ても、子どもは親に對してもっとも清廉な裁判官である91」と唱えている。らいてうは明 らかにケイの思想を受容したことで、子供の権利を毀損し、侵害することを恐れずに自己 の感情を抑制し、結婚を固辞し、もしくは離婚を選んだ男女の行為について「低劣な愛92」 と認めた。

エレン・ケイが反対したのは、恋愛のない結婚であり、自由離婚に賛同することも、こ の理念を貫くためだったのである。しかし、ケイはまた結婚当初は恋愛により結ばれたと しても、時間が経つと愛情が薄れてしまい、現状を維持している婚姻関係は不道徳である とする93。ケイが重視したのは、寧ろ結婚した男女相互における「人格の自由94」であっ たと言える。

平塚らいてうによる自由離婚の主張は、「新性道徳のカオス」という文章から見られる。

1925年の章・周の「新性道徳論爭」より4年ほど後に掲載されたこの文章は、「今日私た ちは、二十年前新しき女たち95によってはじめて叫び出されたあの新性道徳96」を再吟味 して再認識する必要があると強調する。またらいてうは、日本で当時ますます激増する離 婚現象や、女性が結婚をしないこと、あるいは結婚しても母性を持たないことを批判し、

これが家庭の破壊にも繋がっていると考えた。

性生活の一つの形態である一夫一婦は、ブルジョア的所有の観念のうえに立てられて いる。ところが、一人の人間が他の人間を所有するということは許されない。お互い は完全に自由でなければならないというのである。そうしてこれはいうまでもなく、

一夫多妻的、多夫一妻的、あるいは多夫多妻的な諸形態の是認となるのである。しか しかつて個人主義的新性道徳の原理であった相互の個人的恋愛を基礎とする一夫一 婦の結合の中に(中略)お互いの貞節はその自然の発露であり、表現であって、自由 の抑圧の結果ではない。恋愛による自由の自主的制限とでも言えよう97

89平塚らいてう、「婦人運動五〇年をかえりみてー『青鞜』創刊のころ」(初出 1961 年)『平塚らいて う著作集 7』、大月書店、1983 年、400 頁。

90同注 90、平塚、257 頁。

91同注 61、小野寺信・百合子、352 頁。

92平塚らいてう、「結婚の道徳的基礎」(初出 1918 年)『平塚らいてう著作書 3』、大月書店、1983 年、

16 頁。

93同注 61、小野寺信・百合子、308 頁。

94同注 61、小野寺信・百合子、 339 頁。

95「新しき女たち」でらいてうが意味するのは、恐らく 19 世紀後半に登場したフェミニストの理想を体 現した女性らであり、彼女らが 20 世紀にいたってもフェミニズムの思想と運動に深く影響を及ぼし続け たことを指すと筆者は推測する。

96平塚らいてう「新性道徳のカオス」(初出 1929 年)『平塚らいてう著作集 5』、1984 年、大月書店、130 頁。

97同注 97、平塚、128 頁。